ペルノー
バー「不知火」は界隈でもよく知られた人気店である。
とはいえ、無駄に騒ぐ客は敬遠したくなるほどの雰囲気なのか、基本的に店内は客数に関わらず静かである。
カウンターで村雨がシェイカーを振る音が心地よく響く。
1番奥のカウンターで一人静かにマッカランを嗜んでいる女性客。
彼女は先ほどから村雨の流麗な技を眺めていた。
「マスターの手捌きって、芸術的よね」
「そうなんですか?あまり自分自身で意識したわけではありませんが」
これは若干の嘘を含む。バーテンダー、ショービジネスの一端に属すると認識している者はそれなりに挙措動作も気を遣っている。村雨もそこは本来気にしてはいる。
「シェイカーにかかる指、腕を振る向き、そしてその動き、どれをとっても見惚れてしまうわね」
バーテンダーなのだろうか?
「お褒めいただいて光栄です。お客様はカクテルをやられるのですか?」
「個人のお遊び程度ね。飲むのは好きだけれど、自分でカクテルを作るとなると、同じ銘柄ばかりになっちゃうもの」
様々ならカクテルを作るためには各種スピリッツにリキュール、果実など、やはりそれ相応に揃えなければならない。家庭バーテンダーはストックできるスペースも予算も限られるので、一度材料を揃えるとしばらく同じカクテルばかり作っていたりする。
別の客から注文が入り、村雨は再びシェイカーを振る。
「やっぱり良いわ。絵になってる。もし差し支えなければ、一枚マスターの写真を撮らせていただいてよろしいかしら?」
「構いませんよ」
次の注文が入る前に、彼女はカバンからミラーレス一眼を取り出す。次に村雨が受けた注文はシェイクするものではなかったが、ステアする様を撮影し始めた。店の雰囲気を邪魔しない程度のシャッター音が心地よいリズムを刻む。
「あら、ペルノーを使うカクテルって珍しいわね」
「こちらはノックアウトですね。マティニの仲間みたいなもので」
「じゃあ、わたしはペルノーをストレートでいただけるかしら」
「かしこまりました」
蛍光イエローの液体をリキュールグラスに注ぐ。
チェイサーを添えて差し出す。
ペルノー
フランスのペルノ・リカール社が製造しているパスティス系のリキュール。スターアニスなどハーブを漬け込んだリキュールでアルコール度数は約40パーセント。緑色の瓶が特徴的だが中身は黄色い。個性的な甘みの強い酒で好みも分かれるが、それゆえに根強いファンも多い。
「あー、この強烈な甘味とパンチはクセになるわね」
「当店のお客様でも好んで飲まれる方は何名かお見えになりますね」
「フェルネット・ブランカもあるわね。その辺も飲み手を選ぶお酒よね」
「こちらは極端に好みが分かれますね。お客様はお好きですか?」
「わたしは結構好きよ。強烈な苦味に慣れると色んな味わいが隠れてて面白いもの」
相当なツウのようだ。
半分ほど飲んだところでチェイサーを少し加えてグラスを揺らす。
黄色い液体はみるみるうちに白濁する。
「これも面白いわよね。味は変わんないけど」
もう本当にこの人バーテンダーじゃないのかしら。
男前な飲みっぷりでペルノーを飲み干すと、彼女は支払いを済ませ、名刺を置いて店を出て行った。
「北上 敦子 フォトグラファー」
数日後、店に一枚の写真が届いた。
村雨のステア姿を捉えた六切りサイズのその写真は、芸術的な出来栄えであった。