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恋愛もの練習

身代わりの海棠~「どうしても」と乞われて結婚したのに、妻がつめたいんですが~






 霞宝の五月には雨がよく降る。その日も朝から細かな、霧のような雨が降り続いていた。

「こりゃ、長引きそうですね、若さま」

「そのようだな。船が心配だ」

 (せき)鷹隼(ようじゅん)は簡単に応じ、かぶっている笠の位置を少々ずらした。角度が悪いのか、先程から顔に雨がかかって仕方ない。お供の、通称を楊海(ようかい)という歳のいった男は、あまり顔を濡らしていないのが不思議でならなかった。この男は、なににつけ要領がいい。


 霞宝は大陸の東南の端にある地域だ。南北に長いがさほどの規模ではない。しかし、良質な海産物と青苧に珊瑚、それに南方との交易で手にはいる真珠で潤っている。霞宝の商人は小吏などよりもよほど金を持っているというのは、この国ではよく云われる冗談だった。

 ただし、内容を考えれば冗談にはなっていない。無論、霞宝の商人ならば誰でも儲けているという訳ではないが、南方との交易に手を出すほどになれば十中八九は下級官吏よりも金を持っていた。


 鷹隼はその、南方との交易をしている商人の、長男だ。うまれ順ははやかったが妾腹で、跡取りではない。下に正腹の弟がふたり居る為に、跡をとる可能性は限りなく低かった。


 うまれてすぐに引き離されたので、母の顔は見たことはない。父の妻を母として育った。さいわい、義母は気性のやわらかい、穏やかな人柄で、鷹隼を虐げたり排斥したりすることはなかった。

 父にしても、鷹隼を嫡子にしようとはしないが、ほかの子ども達と比べて扱いが悪いということもなかった。夫婦そろって穏やかなのだ。ならばなぜ、自分をうんだ母を追い出したのかと、十八になった鷹隼はたまに考える。おそらく、父は義母に優しすぎるのだ。義母が哀しむかもしれないと思うと、それだけでたえられない。だから自分の過ちを、少しでも軽いものにしようとした。つまりわたしは、誤って生まれたのだ。実母にしても、すんなり出て行ったのだから、わたしのことは過ちだと思っていたに違いない。


 鷹隼の扱いは、母親から引き離されて育ったこと以外では極めてよかった。厄介な、正腹ではない長子という立場も、両親が善良なのであまり問題にはなっていない。

 問題なのは今の情況だ。

「そういやあ、この間事故があったばかりでしたね。いや、海というのは油断ならない。岳家が何隻か船を失ったというのだから」

「楊海」鷹隼はお供の言葉を遮り、訊く。「父上からの文には、本当にわたしの結婚のことが書かれていたのか?」

「はい、若さま」

 楊海はへらへらと笑った。「どうしても若さまがいいと、岳家のお嬢さんが仰せだそうで」

 鷹隼は肩をすくめた。結婚? わたしが?






 鷹隼は十五日前まで、南方との交易の為に準備をしていた。

 霞宝は、南にある港近辺の土地の起伏が激しい。鷹隼の父の店は霞宝でも北にある州都の、そのまた北に位置していて、港までは時間がかかった。南には支店を持っている。霞宝は北のほうから徐々に徐々に出来上がっていった地域で、南は昔はただの荒れ地だった。南方との交易に利便性が高い土地だということがわかって開拓されたが、古くからの店は北にある州都に本店を残し、南に支店を持つことが多い。

 鷹隼は父親から、支店(そこ)を任されている。といっても、多くの使用人達におんぶにだっこで、立派に仕事をこなしているとはいいがたい。それに関しては鷹隼ははっきりとわかっている。自分には素晴らしい商才がある訳ではない。ただし、それを自覚している。それは大きな利点だ。少なくともわたしは、うぬぼれているまぬけではない。


 才覚にきらめくものがある訳ではないが、上の弟が跡を継いでも、鷹隼はそこで働き続ける予定だった。はやくに支店を任せ、当主には()()()()としっかり示すことで、鷹隼が無益な争いを起こそうとしないだろうという父親の思惑もある。

 鷹隼自身はそのようなことをひと欠片も考えていないのだが、まわりがどのように動くかはわからない。特に、下級官吏よりもよほど金を持っている家の跡目となれば、それにあやかって甘い汁を吸おうとする連中はどこからでもあらわれる。実際、父の代には兄弟でろくでもない争いをしたそうだ。


 結婚に関しては、だから鷹隼は、父に従うつもりだった。どのような相手であっても文句は云わない。云える訳がない。結婚などというものに幻想を抱いてはいない。もしかしたら、それこそ下級官吏の娘にでも、商売の為に婿入りすることになるかもしれない……と、思っていたのだ。

 しかし、岳家といえば、霞宝では石家と競う程の儲けを出している商人だ。家柄で云えば岳家のほうが古く、大陸のもっと北から最初に霞宝へ入植してきた幾つかの家のひとつである。石家はその少し後に入植した。

 岳家は霞宝での発言力があり、二十年ほど前に今の当主の妹が朝廷に召されて、位を戴いている。それ以来、南方からの真珠や酒を朝廷に献上しているのは岳家だ。それまで石家と氾家がもちまわりでやっていたことをとられたので、石家は岳家に対してあまりいい感情は持っていない。

 だが、婚姻を結ぶとなれば話は別だ。しかも相手は、鷹隼を婿にほしいのではなく、娘を鷹隼に嫁がせたいらしい。そんなことが可能だとして。






 最後の丘を越えると、州都が目にはいった。霞宝では、古くからの街とあたらしくできた街とでは、様相がまったく違う。古い街は野放図に家が建てられ、塀がめぐらされ、政庁が妙な位置にある。あたらしい街は碁盤のようにきっちりと、建物が並び、船乗り達の憩いの場である紅楼が華やかな姿を見せている。

 鷹隼は政庁近くにある我が家を見止め、体にかかる細かい雨に顔をしかめた。先程よりも雨が酷くなっている。出港が遅れれば、もしかしたら航行に影響が出るかもしれない。

「若さま、お出迎えのようですよ」

 楊海がにこやかに云った。見れば、成程、家の者達が車を走らせてくる。なにかあらたな事態でも出来したのだろうか、と鷹隼は少しだけ不安になった。


 そのようなことはなく、彼らは単に急いでいるだけだった。父は鷹隼に、すぐにでも結婚をさせたいそうなのだ。「相手は? いいのか」

「是非にと相手が云っているんです。さあ、お急ぎください」

 腰が曲がった九昇が云い、笠を外した鷹隼が車へのるのを手伝った。車はすぐに動き出す。


 ほんの少しの時間で車は家に着いた。「兄さま」

「ああ、光風(こうふう)

 下の弟が駈け寄ってきたのに応じ、鷹隼は戸惑いつつ家の前庭を見る。多くの使用人達が、あたふたと働いていた。結婚の準備の為にだ。説明されなくてもわかる。

 弟が右手で左手を庇うようにした。弟の癖だ。

「兄さま、兄さまの妻になるひとを見た?」

「いや、見ていない」

 鷹隼は答えながら、ゆっくりと足をすすめる。弟がついてきた。「僕は見たことがあるんだ。とても綺麗なひとだよ、きらめく夜の星のような、金色の目をしていて。お姉さんも綺麗なんだけど、姉妹はあまり似ていなくて……」

「岳家は朝廷に娘を送り出したことがあるくらいだから、見目麗しいかたが多いのよ」

「母上」


 義母がお供とやってきたので、鷹隼は礼儀正しくお辞儀した。背が高く、将軍を演じる役者のようないかめしい顔をした鷹隼が、小さな義母にそれをやると、少々滑稽だ。

 義母は困ったように微笑む。それは彼女の癖で、その為にいつでも、なんとなくなにかを憂えているようにまわりには見えてしまう。

「美人姉妹で通っているとか……鷹隼、お相手のお嬢さんは、ぜひあなたと一緒になりたいと仰せなの。よかったわね」

「はあ」

「もう、ほとんどのことは済ませてしまったから……」

「こんなに急に話がすすんだことについて、なにか、身に覚えがあるんじゃないの」

 光風がにやついた。鷹隼は肩をすくめる。「さっぱりわからない」

「なんだ、からかい甲斐がないな。てっきり、祭りの日にでも会ったのかと思った」


 霞宝では夏の盛りに、船の神に捧げる祭りをする。その日は老いも若いも、男も女も、そして官吏から放下師まで、皆、祭壇の窯に松の木の枝を放り込んで祈りを捧げ、道端で売っている甘い索餅を買って食べる。

 祭りとなれば、普段は家から出ないような、婚約もしていない未婚の娘達も、お供や母親と一緒にお参りに行く。なかには、その時に若者に見初められ、結婚する娘もあった。

 だから、弟や義母もそのように考えていたらしいが、鷹隼にはまったく身に覚えがなかった。家が交易をしているので、当然船の神の祭りには参加するが、松の枝を窯へ投げいれ、索餅を買って帰る。それだけだ。

 石家の若者というので、娘達が遠くでかたまって鷹隼を見、くすくす笑いあっていることはある。だが、若い娘達が着飾って化粧をすると、鷹隼の目には誰が誰だかわからなくなる。上の弟の夕照(せきしょう)なら、そういう場で娘達に声をかけるようなことをしていたが、鷹隼は興味をもてなかった。




 父に呼ばれた鷹隼は、義母と弟と別れ、奥へと向かった。回廊を渡り、奥の棟に這入ると、父が卓子を前に立っている。卓子には海図がひろげられていた。「父上」

「ああ、鷹隼、よく戻った」

 海図をたたんだ父は背が高く、少々痩せた男だ。若い頃は鷹隼のように立派な胸板と鋼のような脚をしていたそうだが、鷹隼の記憶では父はずっと、こういう姿形だった。

 その父は、服の袖で顔をつるりと拭った。「急なことで悪いが」

「いえ、父上がすすめた話ですから、間違いはないのでしょう」

「ああ、まあ……」

 なんだか歯切れが悪い。鷹隼は片眉を上げる。「なにか、心配でも? お相手の」

「いや、そういうことではない。相手の問題ではなくて、それ以外だ」

「と、云いますと?」

「ああ……口さがないことを云う者もあろうが、気にするな。祝言は明日だ」

「……かしこまりました」

 鷹隼はお辞儀をし、それ以上父が喋らなかったので、そのまま辞した。


 口さがない、の意味はわかった。湯殿で汗を落とし、自室へ戻ろうとしていると、使用人達が喋っているのが聴こえてきたのだ。

 それに拠れば、鷹隼の相手の娘には、姉が居るらしい。そしてその姉は、一昨年結婚してすぐに、相手が死んだ。今では実家へ戻って、古風なことに、夫の喪に服す日々だという。

 使用人達はそれを取り沙汰して、鷹隼が同じようなことにならないかと不安がっている。

「若さまに何事もなきゃいいけどなあ」

「夕照さまは、なにかあってもらったほうがいいと思ってるかもしれねえや」

 使用人達がそれなりに深刻そうに話していて、衝立の裏に隠れた鷹隼は笑いそうになった。そんなことはあり得ない。夕照はわたしを排除する必要などないではないか。わたしは跡目争いに関われるような立場ではないのだから。






 翌日は嵐のようになにもかもがすぎていった。

 朝、祭礼用の服を着て廟へ参り、祭りのように祭壇の窯に松の枝を放り投げた後、岳家へ向かった。当然、顔合わせはできなかったが、嗅いだことのない甘い香りがするのでなんだろうとこぼすと、花嫁の香だと今日もお供をしている楊海が笑う。

「若さまは女とあまり付き合いがありませんからね」

「楊海」

 鷹隼は紅楼に行ったことはあるが、それ以外に女と付き合ったことはない。だから、女が好む香のこともわからぬのだ。

「女というのはああいう香が好きなんですよ」

 鷹隼は肩をすくめた。女というものを理解するには、かなり時間がかかりそうだった。


 そのあとは、仲人を請け負ってくれた氾家の者と一緒に、花嫁の両親と顔を合わせ、贈りものをした。氾家も、石家と岳家の婚姻に関われるのは嬉しいのだろう。霞宝の商家で、このみっつの家はそれなりの地位を築いている。それが協力するようになれば、別の地域との商売でも得が増える。

 鷹隼がぼんやりと、そんなことを考えている間に、岳家の先祖が祀られている堂へ参る段取りになっていた。

 相手の両親はやたらと腰が低く、鷹隼の顔をまともに見ない。口上を述べたのも聴いているのかいないのか、ひたすらかしこまっていた。

「娘の垂絲(すいし)のわがままで、いきなりこのようなことになってしまって、申し訳ない。」

「いいえ。我が家では、喜んでおります」

「それなら、よいのだが……あの子は遊びまわってばかりいて」

 はっとしたように、舅は口を噤み、きまずそうに目を伏せた。鷹隼はなにも聴かなかったことにする。

 お参りの間に花嫁は車へのっていて、鷹隼はやはりその顔を見ることはなく、別の車にのった。それが正式な手順だとわかっていてももどかしい。すぐにも顔を見たい気分だった。鷹隼は、隠しごとをされるのに慣れていない。自分が把握できない事柄が増えるのはいやだった。


 家へ戻ると、相手の娘は侍女とともに、鷹隼の両親へ挨拶をした。その時、鷹隼は初めて彼女を見た。

 花嫁らしい、刺繍を施した赤い布を頭にかぶっているので、顔は見えない。頭の形はうっすらわかった。髪を高く結っているのが。

 白に金と淡い緑の文様が踊っている花嫁衣装はきらびやかで、さすがに岳家らしいと思わせる。裾には鸞の刺繍がはいっていた。やわらかそうな布靴がちらりと覗く。顔を覆う布には銅銭だけではなく、霞宝の土地柄か、ごく大粒の真珠や珊瑚も提がっていた。

 女にしては、背は高いほうだろう。だが、不格好なほどではない。項垂れているのだが、首が長いのは布越しでも見てとれた。全体に、すらりとして、なよやかな体付きだ。痩せている。骨が細そうだなとなんとなく鷹隼は考える。

 重ったるい袖からのぞいた指の爪は、うっすらと赤に染めてあった。芽吹いたばかりのねぎのような、形のいい指だ。あれに自由に触れていいのか。そして、あれがわたしに触れる。そう思うと、途端に胸がどきどきと脈打ってきた。


 結婚するのだから、当然(ねや)はともにする。結婚と聴いた時からわかっていた筈のことに、なにを今更、動揺しているのだろう。

 妻にするのだ。あの女を。

 鷹隼の視線に気付いたか、娘がかすかにこちらを向いた。垂れ下がった布の為に、勿論顔は見えない。だがその、まるでなにかから身をまもるような反応に、鷹隼は少しだけ訝しさを覚えた。是非にと、あの娘から云いだしたことの筈だ。それなのにどうして、罠にかかった動物のような……。

 娘はまたぱっと、顔を背けた。白髪の侍女達がその手をとって、奥へとひきずっていく、鷹隼の目には、どうも、娘はいやがっているように見えた。まるで結婚したくないように。




 かたくるしい挨拶の時に、娘の声は聴いた。かすかに震える、しっとりと低くて甘い声だ。だがそれだけで、鷹隼と娘は(ねや)へ放り込まれた。

 娘は寝台の隅にちょこんと腰かけ、うなだれて、行儀よく膝の上で手を合わせている。布靴に包まれた足は形がいいが、あまりにも肉がうすかった。痩せすぎなのではなかろうかと不安に襲われる。わたしよりも、この娘のほうが早死にしそうだ。精のつくものを食べさせないといけない。まるで、病人みたいな足をしている。子どもをうんでもらうのだろうし、これでは本当に、死んでしまいそうだ……。

 鷹隼は漠然とした不安を抱えたまま、竿を手に、娘へ近付いていった。どうしても彼と結婚したいと親にわがままを云ったという娘へ。彼の花嫁へ。

 あしおとでわかったようで、花嫁ははっと息をのみ、布を被ったまま鷹隼へ顔を向ける。「来ないで」


 ほんの短い間、ごくわずかな間だけだが、鷹隼はなにを云われたのかわからなかった。鷹隼はしばし、動きを停め、それからかすかに笑い声を立てる。「なんだって?」

「来ないで、と申しました」

 聴き間違いか、自分の気が()れたか、どちらかだと思ったのに、花嫁ははっきりと彼を拒んでいた。彼を拒み、近付くことを拒絶した。

 耳の奥が痛いような気がしてくる。今わたしは、花嫁に拒まれたのか? 近付くなと。

「なにを……」

「お願いですから」お願いという割に、その声は激しい拒絶と怒りを含んでいる。「それ以上近寄らないでくださいまし」

「ここはわたしの(ねや)だ」

 花嫁の声に含まれた怒りに触発され、鷹隼の声も尖った。彼は思いきり眉をひそめ、竿を軽く上下させる。正確に云うならば鷹隼と花嫁の(ねや)なのだが、それは彼の頭からは吹き飛んでいた。「不都合があるのなら出ていけばいい。ほかに寝られる部屋があるとも思わないが、廊下でよければ好きにつかってもわたしはかまわない。わたしの面目が潰れても君は気にしないだろう」

「無礼とは……無礼とは、承知しています。ですが顔を見られたくないのです」

 花嫁は切り口上に云い、いらいらと両手を揉む。鷹隼は意味がわからなくてしばらく黙り、竿を意味なく動かした。この娘はなにを云っているんだ? わたしを名指しで結婚したいと、両親にわがままを云い、その通りになったのに、顔を見られたくない、だって?


 不意に、思い付いたことを口にする。

「顔に傷でもあるのか」

「そうでは……」

 もし、顔に傷やあばたがある、とでも云うのなら、はじらっていて可愛らしいと思わないでもなかった。口説きようもある。そのようなことは気にしないと云えばいい。

 事実、鷹隼は女の顔に傷があろうが、あばたがあろうが、気にはならない。そんなものになんの意味があるのだろう。子どもの頃にほんの少し転んだだけで一生、顔に傷が残る女なぞ、幾らでも居る。下の弟も、まだ火の熱さを理解していない頃にかまどに手をつっこみ、おかげで左手に火傷の跡が残っている。それを気にするような人間は石家には居ない。傷痕がある位置が手だろうが顔だろうが、対した差ではない。

 だが、そうではないと云う。

 鷹隼はひとつ、舌を打った。今度はためらうことなく、花嫁の顔を覆う布を、竿をつかってとりはらう。花嫁は小さく悲鳴を上げ、袖で顔を覆った。色の悪い唇がちらりと見えたが、それ以上は見えない。一体いつになれば花嫁の顔を見ることができるのかといらだって、鷹隼はそれに近付く。

「さあ、来なさい」

 両腕で抱こうとすると、花嫁は信じられないことをした。鷹隼の頬を思い切りひっかいたのだ。






 翌朝、鷹隼の機嫌は当然悪かった。

 花嫁はあのあと……鷹隼をひっかいたあと、顔を覆って体をまるめ、泣き出したのだ。静かにしかし絶え間なく泣いている花嫁に、鷹隼は辟易して、彼女をほったらかして(ねや)を出た。厨房に居た楊海に笑われながら治療をしてもらい――どうやらつまみぐいをしていたらしいが見なかったことにした――、(ねや)へ戻ると、花嫁は(ふとん)にくるまって寝息を立てていた。周到に、すっぽりと体ごと(ふとん)にくるまって、だ。

 鷹隼は顔を見ようかどうしようか迷ったが、結局花嫁に手を触れることなく、寝台の端で寝た。それほどまで見られたくないのなら、見ずともよい。


「どうしたの、兄さま」

「ああ、なんでもない」

 鷹隼はひりひりする頬をたまに触りながら、使用人達が荷物をまとめるのを見ていた。結婚したので、支店を完全に鷹隼に任せると、父が云ったのだ。それで、支店に持っていくものをまとめさせている。この後、花嫁と一緒に、霞宝の南へと向かう。

 その花嫁は、今朝目覚めると(ねや)には居なかった。実家へ逃げ戻ったのかもしれないし、あの親なら娘のわがままをきいて、結婚をなかったことにしようとするかもしれない。

 うんざりだった。鷹隼は、いつになく腹を立てていた。どうして、結婚してほしいと乞われて結婚したのに、顔を見ることさえ拒まれる。あの娘よほど、自分の顔に自信がないんだろうか。

「義姉さまとなにかあった?」

「いや、ただ……彼女はわたしを好いてるんだろうか? そのようには思えないんだ」

 つい本音が出た。光風は目をまるくしたが、すぐに深刻そうに表情をくらくする。「どうして?」

「いや……」

 答えに窮したところで、楊海がつづらを抱えてやってきた。

「若さま、こちらはどうしましょう」

「ああ、それは……」


「旦那さま」

 くさくさしていた鷹隼は、だから、その声を聴き間違いかと思った。

 振り返ると、柔らかそうな青のうすぎぬを被った花嫁が居る。ふたりの侍女が一緒だった。といっても、昨日姿を見た白髪の侍女ではなく、やけに若い侍女だ。

 花嫁はうすぎぬをつけ、今日も顔を見せる気はないらしい。鷹隼は顔をしかめた。

 弟が行儀よく、兄嫁にお辞儀して、さっとその場を立ち去る。楊海は気を利かせたのか、持ってきたつづらをそのまま持って離れていった。

 花嫁は項垂れて、近付いてくる。侍女も同じだけ動く。そうすると、その信じられないくらいの若さが目についた。幼い頃から世話をしてくれているねえややばあやではないのは確実だ。現に、花嫁が裾を踏みそうになっているのに、侍女達はあたふたするばかりで動きはぎこちなく、なにもできていない。

 娘にこんな、仕事に慣れていない侍女をつけて寄越すとは。昨日の手際のいい侍女達は引き上げたのか。わがままに、彼女の両親も呆れているのだろう。結婚したいといったくせに、夫をひっかいて(ねや)から追い出した娘だ。実家でどれだけわがままを云ってきたか、わかったものではない。




「気分は?」

 けれど鷹隼は、できうる限り丁寧な声でそう訊ねた。うら若い乙女に拒まれ、すごすごと(ねや)から逃げたなんてことは、すみやかに忘れたい。そんなことを後生大事に抱えておきたい人間は居ない。

 花嫁はお辞儀する。鷹隼よりも頭ひとつ分低い位置で、青の布がゆらゆらしていた。布には金糸で、控えめに刺繍が施されている。この娘の手になるものだろうか。

「あの……昨夜は、取り乱してしまって……」花嫁は溜め息のように頼りない声だ。「わたし、あの……あのようなことをするつもりはありませんでした」

「それは、もういい」

 忘れたいことを掘り返され、鷹隼はかすかに呻いた。鷹隼は花嫁の言葉を遮り、まだ十歳(とお)を幾らか超えたくらいにしか見えない侍女達を眺める。花嫁はその視線に気付いたようで、侍女達を庇うように腕を振る。「旦那さま?」

「君らは仕事に慣れていないらしい」

 鷹隼は使用人の大切さをわかっていた。彼らの働き次第で、儲けが決まる。奥向きのことは分からないが、もし商売と同じなら、侍女の質が高ければ家政はうまくいくだろう。

 鷹隼は花嫁を見た。うすぎぬの為に、彼女の顔は判然としない。

「彼女達だけでは、奥向きはうまく切り盛りできないだろう。これまでわたしは独り身だったから、どれだけ手が必要なのかわかっていない。あと数人、慣れている者を雇ったほうがいいだろうから、楊海に見繕ってもらう。給金の心配はない。いいだろうか? 彼女たちの指針となるひとも必要だろうから」

「それは……ええ、そのようにしていただけるのでしたら、わたしも、助かります」

 花嫁の声は先程よりもよほど、沈んでいた。なんとなくいやそうだ。侍女が増えるのがどうしていやなのだろう。金の話をしたのが嫌味に聴こえたのか?

「ありがとうございます、旦那さま」

 まったくありがたそうではない云いかただった。折角気を遣ったのに、と、鷹隼は少々気分を害した。

 だがそれでも、この娘は自分を求めている筈だと思うと、少しは気分がよくなる。なんにせよ、結婚したがったのは彼女だ。

 その晩も、花嫁は(ふとん)にくるまって鷹隼から距離をとり、鷹隼も決して近寄ろうとはしなかった。いやがる女に無理強いするのは好きではない。気分が落ち着いて、鷹隼と結婚したことを受け容れれば、顔も見せようとするだろう。それ以上のこともある。

 自分から結婚を望んでおいて、受け容れるもなにもないものだが。






 霞宝の北の、州都にある石家から、南にある支店まで、馬なら十日程度だ。起伏が激しいので、車輪のついている車ではそれよりも時間がかかった。半月ならばはやいほうだ。更に、今は五月なので、雨になやまされる。五月が終わるまでに支店へ戻れたら御の字だろう。

 花嫁は馬にはのれないらしい。だから鷹隼は、彼女と侍女達を同じ馬車にのせ、自分は馬にのった。後ろには、荷物を積んだ車が二台ついてきて、片方の御者は楊海だ。

 出発前に、楊海が年嵩の女をひとり、見繕ってくれた。若い頃から都で長く侍女をしていたが、母親の看病の為に実家へ戻ってきたという、玉花(ぎょっか)だ。四十過ぎで、礼儀作法にくわしく、花嫁がつれてきた侍女達の至らないところもすぐに直してくれそうだった。

 鷹隼は秩序が好きだ。そして、すべてを把握していたかった。可能な限りの情報を手にいれ、事に当たるのが、そう才覚がなくとも商売で酷い失敗をしないこつだった。侍女達が秩序の保たれた状態になるのはありがたい。どちらにせよ、妻がつれてきた女達は、あまりにも仕事に慣れていない。

 妻、と、鷹隼は口のなかでその言葉を転がしてみる。振り向いて、右斜め後ろについてきている車を見る。そうだ。妻だ。あの女はわたしの妻になった。それも、どうしてもわたしと結婚したいと云って。それがどうして、わたしを拒む。

 把握できることは把握していたいのに、妻の顔も見ていない。そのことに気付いて、鷹隼は歯噛みした。




 家を出発したその晩、宿は当然、妻と同じ部屋をとった。玉花や楊海がそのようにすべきだと云ったし、鷹隼自身もそのつもりだった。結婚してすぐの夫婦が同じ部屋へ泊まることを阻止しようとする者はない。「何故いやがる」

 相変わらず顔を見せない妻に、鷹隼は呆れてそう云う。怒りはまだ鮮やかなのだが、それよりも呆れが勝っていた。この女はなにを考えているのだろう。

 妻はうすぎぬを被って、うなだれ、鷹隼に顔を見せないようにしている。食事の時もその調子だった。うすぎぬに邪魔されているが、凝った形に髪を結っているのだけはわかる。おそらく、長い髪をしている。どのような色なのか、はっきりとわからない。

 妻は半分、泣くような声を出した。

「お願いですから、わたくしが……いいと云うまで、我慢して戴けませんか」

「何故、と、理由を訊いているのだが?」

 妻は黙して語らず、鷹隼は疲れて、結局それ以上の議論は避けた。ふたりは礼儀正しく距離をおいて寝台にはいり、眠った。妻の香りは甘く、鮮烈で、鷹隼はよなかに何度も目を覚ました。




 昼間は、それでも、妻は鷹隼に対して、多少の気遣いを見せた。妻らしく鷹隼のきがえを手伝おうとするし、宿の厨房へ頼む食事に関しても指図している。鷹隼が好むものを手配しようとしているらしい。だが、話しかけてもほとんど言葉を返さないし、すぐに黙りこみ、そして鷹隼には決して顔を見せなかった。

 鷹隼だけでなく、石家の使用人達には、だ。彼女は玉花にさえ顔を見せようとしない。


 妻が鷹隼へ直に語った訳ではないが、優美な趣味があった。剪紙だ。

「奥さまは、今日も、花を切っておいででした」

 宿へ着くと、玉花がかしこまって、道中の車内で妻がなにをしていたかを教えてくれる。それがこのところの日課になっていた。妻は口が重たく、仮に喋るとしてもかすかな声しか出さない。

 鷹隼は玉花から妻の様子を聴くのを、なんとなくはじていて、宿や車の隅でこっそり聴いている。自分の妻のことを他人にきかねばならないとはどういうことだろうか、とむなしくなるのだけれど、妻が鷹隼を受け容れず、それどころか顔も見せてくれないので、仕方のないことなのだ。まったくおかしな話だが、彼女は相変わらず、鷹隼に触れられるのをきらった。

 玉花は、妻が切ったという紙をとりだした。薄い紙が、牡丹の花の形に切られている。実に細かい細工だった。何度見ても感嘆するが、今回のものは特に細かい。

 鷹隼はそれをうけとり、夕日にすかす。そうすると紙が赤く染まったようで、赤い牡丹に見える。「妻は、手先が器用なのだな」

「奥さまは都のご婦人がたにも負けない腕前をしておいでですよ。わたくしは霞宝の出のご夫人に仕えていまして、そのかたは剪紙がお得意でひとに教えるほどだったのですが、奥さまはもっとずっとお上手です。薛家の奥さまをご存じないですか?」

 玉花の言葉はお世辞ではないようだった。都の薛家といえば大商人だ。石家とも付き合いがある。

 取引相手と云うだけの親しさではない。薛家の奥方は、直に会ったこともない石家の三兄弟をやけに気にいっていて、手ずから刺繍をした帯を今までに何本も、それに刺繍の布靴や立派な鼈甲の髪飾りなども、贈ってくれていた。それもどういう訳だか、鷹隼に宛てたものが一番素晴らしい出来なのだ。夕照が、薛家の奥方に好かれている、といって、たまに鷹隼をからかう。薛家の奥方が器用なのは、その刺繍を見ればわかる。彼女から贈られた帯を、鷹隼はたった今身につけていた。

 自分のことでもないのに、鷹隼は妻が誉められたのを少し、嬉しく思った。




 出発から三日経ち、鷹隼たちはいつもよりはやく、宿を乞うことにした。楊海がすぐに宿屋を見付け、鷹隼達はそこへ向かう。車から降りた妻は、まだ手にはさみを持っていた。それを侍女に預け、裾を軽く持ち上げてゆっくりと歩いてくる。

「酔っていないか」

「はい、旦那さま。……あの、もう、ここへ……」

「あと少しで、一番の難所なんだ」

 山をひとつ越えなくてはならないのだ。馬であっても、この山には朝、向かう。そうでないと、山中で一夜を過ごすことになるかもしれない。

 そのようなことを鷹隼がもごもごと説明すると、妻は数回頷いて、承知したらしかった。

 玉花が咳払いする。

「旦那さま。奥さまは紙をほしがっておいでです。買いものに行きたいのですが」

「ああ、そうするといい」

 そう答えてから、ふと、挨拶に行った時に妻の父親が云っていたことを思いだした。遊びまわっている、というのは、出歩くのが好きということかもしれない。ならば、毎日車におしこめられているのは面白くなかろう。

 玉花が目配せしているので、そういう意味なのだろう。車のなかでこぼしたのかもしれない。

 鷹隼はなんとか言葉をひねり出した。

「日が暮れるまで、まだ時間がある。垂絲、少しこの辺りを歩かないか。わたしと一緒に」

 妻は項垂れて、返事をしない。玉花がその腕を軽く揺すった。「奥さま」

 妻はびくりと顔を上げ、鷹隼を見ているらしかった。うすぎぬ越しの視界はよくはない筈だ。

「あ……ええ。そうですね。参ります、旦那さま」

 妻は疲れたみたいに云って、小さく息を吐く。その様子に、鷹隼はかすかにいらだちを覚えた。何故、わたしと一緒に居ることをきらうのだ? わたしと結婚したがったくせに。


 妻は項垂れて歩いている。鷹隼はそれを、傍で見ていた。

 宿のほど近くの、市場だ。先程まで、宿の中庭や厩の近くを歩いていたが、会話が長続きせず、ここまで歩いてきてしまった。妻は鷹隼が馬について話すのをじっと聴いていたが、言葉は差し挟まなかった。葦毛にのっていることを話して、そんなのは見たらわかることだなと自分で自分がいやになっただけである。今は、どちらも黙っている。

 なにかを焼く煙や、栗の蜜煮を包んでふかしたまんじゅうの甘ったるい香り、干しなつめの量り売りの威勢のいい声、きらきらときらめくような練絹の屋台など、雑然とした雰囲気のなかで、妻は浮き立って見えた。あまりにも、静かで、平然としていて。

 子ども達が走りぬけ、鷹隼は妻を片腕で抱き寄せて衝突を防いだ。子ども達はまんじゅうを手に手に持っていて、楽しそうだ。まわりの大人など、障害物としてしか見ていない。

「ありがとうございます」

「ああ、いや……」

 妻はかすかに息を吐いた。顔は見えないが、なんとなく彼女が微笑んだような気がして、鷹隼の頬もゆるむ。

 ふたりはそのまま、体を寄せ合って歩いた。はじめて触れた妻の体はやわらかく、軽く、あたたかで、旨い水のような香りがした。このまま、自然に、夫婦のように振る舞えるかもしれない。このまま。

 妻が干しなつめを気にした様子を見せたので、鷹隼はそれを買い求めた。妻が笑った気がする。もう一度、ありがとうございますと云ってほしかった。いつぞやと違う、心の底からの礼がほしかった。

 そして、妻はそれをくれた。

「ありがとうございます、旦那さま」

「ああ……」


 けれどその晩も、妻は鷹隼が近付くことをいやがった。うまくいくかもしれないと思ったのは間違いだったのだと鷹隼は思い知った。彼女はなにがなんでもわたしをぺしゃんこにしてしまいたいようだ。




 酷い雨が降ってきて、翌日の出発はできなかった。

 外に出る訳にもいかぬし、鷹隼は部屋で寝台に腰掛け、海図を眺めている。窓辺には相変わらず、うすぎぬで顔を隠した妻が居て、重そうなはさみを動かし、ぱらぱらと切りくずを散らかしている。窓敷居に短いろうそくが置いてあって、その灯がゆらめいているのに、妻の姿がぼんやりとうかびあがって見える。

 海図を眺めているつもりだったのに、鷹隼はいつの間にか、妻の手が器用にはさみを動かし、繊細な模様を切り刻んでいくのを見てしまっていた。玉花はいい店を見付けたようで、妻は剪紙につかえるごくうすい紙を手にいれていた。少々値は張るが、妻が落ち着いていて、満足そうなので、鷹隼は少し……安心していた。


 小さく音をさせて、妻がはさみを置いた。彼女ができあがったものを誇ることはない。鷹隼には隠している節がある。できあがると、襟の間にしまいこんで、鷹隼の目に触れないようにする。もう充分眺めてしまっているから、今更隠したって無駄なのに。

「旦那さま?」

「ああ」

 妻が振り向いて、鷹隼は彼女を見ていないふりをした。海図へ目を落とすが、いまいち頭にはいってこない。

 妻は小鳥のように痩せた体で、ゆらゆらと歩いてきた。「昨日、買って戴いた、なつめを……召し上がりませんか?」

「あ? あ、ああ」

 妻の雰囲気がやわらいだ。緊張のようなものがあったのだが、それがなくなった。彼女はお辞儀して、戸口へ向かい、廊下に立っていた年若い侍女に用事をいいつける。それから、ゆらゆらと戻ってきて、鷹隼から距離をとって寝台へ腰掛けた。

 侍女はすぐに、金彩が施されているが欠けた皿に干しなつめを盛り付けて、持ってきた。ふたりの間に盆が置かれる。干しなつめの皿の横には、色のうすい茶の注がれた小さな茶碗もあった。

 侍女達がさがり、鷹隼は茶碗をとりあげる。甘く、薫り高く、あたたかかった。茶碗を置いて干しなつめをひとつとりあげ、かじると、妻は細い指でおずおずともう片方の茶碗を掴む。

「ありがとう、垂絲」

 礼を云ったほうがいいのだろうと判断して、鷹隼はそう、口にした。

 けれど、妻は黙りこんでいる。なにかしらの反応があることを期待していた鷹隼は、それが裏切られて酷い気分になった。お前は必要ないと云われているような、そんな気分だ。妾腹の子、実の母に捨てられた子。

 妻は干しなつめをほとんど口にせず、茶もほんの少し飲んだだけだった。




 雨はやまず、鷹隼達は数日、そこに足止めされた。




「垂絲。何故、わたしを拒む」

 妻は返事をしない。

 鷹隼は少々、気持ちがささくれ立っていた。五月の雨が長引くことはあっても、ここまで酷くなるのはめずらしい。雨が続いていて、それが酷いものだというのだけでも気が塞ぐのに、それに加えて妻がかたくなに顔を見せないうえに、このところはほとんど会話もなくなってしまった。

 歩み寄りはした。しかし、話すことがないのだ。原因はおもに妻にあると鷹隼は思っている。鷹隼が自分のことを喋っても、妻は家のことも家族のことも、なにも喋らない。

 剪紙について水を向けても、黙りこんでしまう。玉花から聴いた、妻が興味を持っているらしいこと――花、刺繍、縫いものなどについて話そうとしても、うまくいかない。鷹隼がそれらにくわしくないというのもあるが、なにより彼女がかたくなに喋らないのだ。好きなことについてなら、普段寡黙な者でも饒舌になる。鷹隼はそう思っていた。しかし妻は、それにあてはまらない。


 またしても拒まれ、鷹隼は夜食をとると云って部屋を出、結局固形物は口にしなかった。かわりに、酒を呑んだ。だいぶ過ごしているな、と思ってから、どうにも手が停まらず、同じだけの量を呑んだ。

 あくをとっていない筍を食べてしまったみたいないやな感じがする。少々、激しい動きをすれば、みっともないことになるだろう。


 誰かに拒まれるのも、ないがしろにされるのも、うんざりだった。


 妻は声をたてない。だが、起きているのはわかった。これまで何日も、彼女の寝息を聴いている。妻はいびきをかくことはなく、すうすうと可愛らしい寝息をたてる。今は違う。それではない。

「顔に傷があるのではない、のだよな」

 妻が小さく唸って、上体を起こした。枕許にあるうすぎぬをとって頭にかぶり、(ふとん)を肩から落とす。こちらを向いて、かすかな声を出す。「旦那さま、お願いです、もうお(やす)みになって……」

「そうだ」不意に、弟の言葉がよみがえってくる。「君は姉と一緒に、美人姉妹として名が通っていると聴いた。では、顔貌は綺麗なのだな」

 今にも吐きそうだが、鷹隼はそれをこらえる。妻は項垂れた。それを見て、鷹隼は苦笑いになる。どうしてこんなにややこしいことをしている。あのうすぎぬをとってしまって、顔を見て、夫婦らしいことをすればいい。彼女が望んだことなのだから。

 寝台へ近付いていくと、妻がかすかに身をひく。結婚した日よりももっと足の肉が減っている。痩せ細っていっている。

「君は、……君が、是非にと云って嫁いできたのだから、わたしをきらっている訳でもあるまい」

 ぎくりと、妻の体が震えた。鷹隼は顔をしかめる。どういうことだ? 今の反応は。「まさか、わたしが……ちょっと待て」

「旦那さま、わたしは」

「君は、わたしと夕照を勘違いしたのでは?」

 返事はない。




 夕照は正腹の子で、鷹隼のすぐ下の弟で、石家の跡取りだ。


 これまで、鷹隼は何度か、夕照と間違われてきた。多くの人間が、夕照が長子だと思っているのだ。特に、普段あまり交流のない家ならば、その勘違いをしていてもおかしくはない。

 岳家のように商売敵であればなおのこと。

 夕照は優男で、整った、女のような顔をしている。祭りの時に女達に騒がれることもあった。夕照自身もそれを楽しんでいて、娘達と戯れるのが好きだ。勿論、悪いやつではない。ただ、女に対して迂闊なだけだ。何度か、侍女に手を出して、面倒なことになった。鷹隼がその後始末をしたこともある。侍女達にいいふくめ、相応の金を渡し、いい縁談を手配してやるという仕事だ。二度としたいことではない。

 石家の若さま……そう聴いたとしたら、これまでほとんど交流のなかった岳家の人間が、鷹隼と夕照を取り違えることはありうる。

 なにより、妻の沈黙がそれを裏付けているように思えて、鷹隼は肩を落とした。わかっていてもよかった。何故、こんな簡単なことに気付かなかった。そうか。美貌で通っているうえに石家を継ぐ夕照の妻になるつもりで、わたしの妻になってしまったのか……。




 納得して、鷹隼は頷く。

「なるほど、そういうことだったのだな」

「旦那さま、違います」

「いや、いいんだ。わたしの外見があまりよくないことは理解しているし、夕照とわたしでは似ても似つかない。夕照を好きになるのなら、わたしを好きにはならないだろう。それくらいならすぐにわかってしかるべきだった。わたしはまぬけだった」

 鷹隼は溜め息を吐いて、寝台の端に腰かけた。そのまま仰向けに横になる。顔を覆った。どういう訳だか、涙が出ている。

 これまで、母親違いの弟達と、扱いに差があった訳ではない。

 だが現実、鷹隼は跡目をとれないし、どれだけ頑張っても支店長どまりだ。弟の使用人になることは間違いがない。

 それでも、岳家と縁づくという大仕事を成し遂げた。そう思っていた。婚姻というのは家の為になる仕事だ。岳家は朝廷の覚えもめでたい。そんな家と縁づいて、石家もこれからますます繁栄していく。どこで顔を見られたかもわからない、岳家のお嬢さんに見初められたおかげで。

 だがそれは、すべて誤りだった。間違いだった。

 うまれたことからして誤りだったというのに。


 鷹隼は息を吐く。

「残念だが、君は当主の妻にはなれない。わたしは跡継ぎではないから。勘違いをしたのはそちらだから、同情はしないぞ。しかし君も、わがままを云うのなら徹底すべきだったな。石家の若さまとでも云ったのだろう。夕照だとはっきり云うべきだった。それなら間違いなど」

「旦那さま」

 嫁いできて以来、初めて、妻がはきはきと喋った。

 鷹隼は手をどけて、妻の姿を見る。そうして、息をのんだ。妻は顔を覆う布をとりはらっていた。




 鷹隼は驚いて、上体を起こす。妻は寝台の上にちょこんと座って、折角あらわにした顔を俯ける。小さな顎に、色の悪い唇……。

「申し訳ありません。どうか、ご勘弁を」

 妻は体をまるめ、泣きはじめた。鷹隼はおずおずと、彼女の肩に触れる。拒絶はなかった。そのことに安堵した。「垂絲?」

「違うのです。わたしは本当に、旦那さまを……」

 妻が顔を上げた。鷹隼は息をのむ。彼女は雪の海のような、深い青の瞳をしていた。それは瑠璃にも見える、美しいものだった。

 下睫毛から涙がぽろりと落ちる。

 鷹隼は妻を両腕で抱き、彼女は鷹隼をひっかきはしなかった。鷹隼は驚くほどに軽い妻の体を抱え上げ、膝に抱く。指先で涙を拭うと、妻はしゃくりあげ、鷹隼の襟をぎゅっと掴んだ。芽吹いたばかりのねぎのような指は、けれど、よくよく見れば細すぎ、骨に申し訳程度に肉がついているようなものだった。

 体も、身長の割りに軽い。髪は、年齢を考えれば量が少なかったし、白いものが目立つ。顔立ちは整っているが、目のまわりは黒ずんで、頬の肉はうすい。どう考えても、痩せすぎている。

「垂絲? 妻よ?」

「ごめんなさい……」

 妻が声を震わせる。

 不意に、頭のなかで弟との会話がよみがえり、鷹隼はおそろしい欺瞞に気付いて、息を停めた。

 妻を抱きしめる。「ああ、なんということだ。お前は垂絲じゃ()()()

 妻は……名前のわからぬ娘は、さめざめと泣いた。




 妻は泣きやまず、鷹隼は彼女を問い詰める気になれなくて、うすべったい体を抱きしめて(ふとん)へくるまった。妻は抵抗せず、鷹隼はそれを憐れに思う。

「旦那さま」

「ああ、もういい。落ち着いて」

 妻のせなかを軽く叩く。「なにもこわいことは起こらない」

「でも、わたし、旦那さまを騙していました」

「いいんだ。大丈夫だから」鷹隼はひとつ、呼吸する。「名前などどうでもいい。君がわたしの妻であることに違いはないのだから」

 妻は鷹隼にしがみついて、子どものようにすすり泣いた。「ごめんなさい」

「いいというのに。君だってこんなことをしたくてしたのじゃないだろう」


 妻は答えないが、鷹隼はなんとなく、わかっていた。垂絲……というのは、妹のほうの名だ。その妹は、金色の目をしていると、光風が云っていた。だが、鷹隼に縋ってなく娘は、青い目をしている。

 鷹隼は妻の頭に鼻先を埋める。はじめて抱きしめるのがこんなふうだとは思わなかった。謝ることになるとは。

「悪かった」

「……あの」

「名前を間違えて呼んでいた。ごめんよ」

 妻はそれから、言葉もなく泣いて、そのまま眠ってしまった。






「垂絲が……」

 翌朝、きがえをすませて、妻はうすぎぬを手に項垂れている。雨がやんだと、先程玉花が嬉しそうに報せてくれた。食事をとったら、出発だ。

 鷹隼は妻の隣に腰掛けた。痩せたせなかを軽く撫でる。妻はまだ若いのに、髪に白いものがまじっていた。そう長くはないから、おそらく数年前からだ。

「わたしと夕照をまちがったのは、君の妹なのだな」

「……はい、旦那さま。いえ、若さま」

 妻は鷹隼を見る。あまり眠れなかったのだろう。白目は赤くなり、目のまわりの黒ずみは酷くなっている。病人のような様子に、鷹隼は胸がきりきりと痛むのを感じた。

「わたしは君の夫だ」

「そう……そうであれば、どれだけよかったでしょう。ああ、わたしはまた、失敗してしまった」

「失敗?」

「わたしは垂絲のかわりなんです。あの子が来るまで、わたしがあの子の振りをする……そうしろと、お父さまが……」

 妻は溜め息を吐いて、両手に顔を埋めた。鷹隼は見ていられなくて、それから顔を背ける。




 妻の話は途切れ々々で、けれど鷹隼はそれをなんとなくまとめ、理解した。

 岳家は、石家の嫡子は夕照で、けれど彼は長男ではない、ということを知らなかった。

 妻は妹を悪く云いはしなかったが、垂絲は随分わがままなようだ。両親に対してどうしても、石家の若さまと結婚したいと云い、両親が折れた。縁談として悪いものではないし、そもそもどこかの商家へ嫁がせようと、そういう腹づもりが両親にはあった。男児が居るので、婿をとる必要はない。

 そこで両親が間違った。へたを打った。夕照を長男と思い込んで、石家に、おたくの長男とうちの娘を結婚させないかと打診したのだ。

 気付いたのは、婚約が決まり、結婚に伴う儀式が幾つか終わってからだった。




「それで、君が?」

「……垂絲がいやがったんです」

 妻は顔を上げ、目をしばたたいた。「でも、あの子も考えをあらためていると思います。父と母が、説得していますから……わたしは、あの子が来たら、いれかわるつもりで……」

「どうだろう。夕照とわたしとでは、顔があまりにも違う。夕照に嫁ぎたいと云っていた妹さんが、わたしで納得するだろうか」

「若さまは、お優しいです。わたしが無礼なことを云っても、ゆるしてくださって。お気持ちがあたたかくて。それに、とても、麗しいかたです」

「君は、体が弱っているらしいな。わたしを麗しいなどという者はない。さあ、泣きやんで、うまい粥をもらいに行こう。君は少し肥ったほうがいい」

「いいえ、いいえ、わたしは本心で云っているんです」

 妻はいやいやをして、乱暴に顔を拭った。「若さまみたいなひとを騙すなんて、ろくでもないことをしてしまいました。わたし、わたし」

「騙すことにはならない。わたしが君の名前を間違って覚えていただけだ。それでいいだろう」

「いいえ」

「君が二回目の結婚だとしても、なにも問題はないし、問題にするつもりも()()。さあ、松の実の粥をもらおう」

 鷹隼は寝台をおり、戸口へ向かった。妻はすすり泣いている。




 松の実のはいった粥はうまく、鷹隼はそれを二杯に、ゆがいた鶏肉を食べた。楊海が市場で必要なものを揃えてくれたし、出発準備に心配はない。

 妻は前の夫とのことがつらかったのだろう、と、鷹隼は思う。きっと、好き合っていた夫婦だったのだ。だからまだ若いのに、夫が死んで、あんなに白髪がある。痩せ衰えて、髪飾りの重さだけのような体をしている。亡き夫に操を立てている。

 それにしても、垂絲という妻の妹は、一体どんな娘だろうか。

 妹の名誉の為に、妻が体を許さなかったのだと云うことも、鷹隼は考えていた。妻は一度結婚している。その時に、夫と寝台を別にしていたとは考えがたい。鷹隼がそのことに気付いたら、岳家へねじこむかもしれないと思ったのだろう。そんなばかみたいなことはしないが、彼女がそう考えたのだろうし、もしかしたら垂絲が姉へわがままを云ったのかもしれない。自分の名誉を大切にして。

 姉妹でいれかわれば、よほど似ていない限り、顔を見てわかってしまう。だから、それを避ける為に、彼女は顔を見せなかった。わずかに顔の造りがわかるうすぎぬはまだよかったのだ。目の色を見られたら、確実に別人だとわかる。そうか、あの目の覚めるような青の瞳が目立たないように、青いうすぎぬを被って……。

 剪紙をはじめ、興味があることを喋らなかったのも、垂絲と違うからだろう。妻は器用に剪紙をするが、垂絲はそうではないらしい。

 見たこともない妻の妹に、鷹隼は敵意らしきものを覚えた。美人だそうだが頭がからっぽの、妻に迷惑をかけた娘でしかない。


 鷹隼は垂絲だけでなく、妻の両親にも腹をたてていた。両親が妹の身代わりに姉をさしだしたのは、まったくもって理解しがたい行動だからだ。それならば、最初から彼女本人として婚姻をすすめればいい。昨今は、二度結婚する女もめずらしくはない。気付いた時にやりなおせばよかったではないか。


 玉花が年若い侍女達と、走ってきた。先に食事をとるようにと、妻に云われ、厨房へ行っていたのだが、なにかあったのか。

「旦那さま」

 玉花は息が切れ、うずくまってしまって、まともに喋れそうにない。鷹隼は腰を浮かせて、年若い侍女達を見た。「なにか?」

「あの」

「奥さまが……」

 ふたりがもごもごと言葉を濁していると、馬達を確認しに厩へ行った筈の楊海が、慌てた顔で戻ってきた。「若さま、奥さまが馬にのって行っちまった!」

 鷹隼は椅子を倒して立ち上がり、外へ飛び出した。


 馬にのれないというのは嘘だったようだ。

「待て」

 誰のものかわからない馬にまたがって、鷹隼は遙か遠くを走り抜けていく妻を見ている。声が届く訳はないが、何度も云っていた。待て、と。

 妻は鷹隼の葦毛にまたがり、街道を走っている。来た道を戻っている。鷹隼は慌てていた自分を呪った。馬はまだ鞍もつけていない。かろうじて手綱はついていた。

「待て!」

 名前も知らない、そのことが情けない。どうして昨夜でも今朝でも訊かなかった。なにを考えていた。

 ただ、このひとがつらそうなのをどうにかしたい、笑顔を見せてほしいと思った、それだけだ。

「妻よ、待ってくれ!」

 声が届いたのか、妻ははっとして振り向いた。肩にわだかまっていたうすぎぬがおちて、風にさらわれ、ひらひらと飛んでいく。葦毛が速度を落とす。妻は驚愕に顔色を失っている。

 鷹隼は息を切らして、それに追いついた。葦毛に飛び移って、妻を後ろから抱く。今まで鷹隼がのっていた馬が、とぼとぼとはなれていって、道端の草を食んだ。

 妻の頬を撫でる。「待ってくれたのだな、わたしの愛しいひと。妻よ」

「……旦那さま……」

 鷹隼は妻をきつく抱く。「君の名前を、教えてくれないか」






 楊海が追いついて、鷹隼は家へ戻ることを決めたと云った。車は先に支店へ向かわせ、自分達は最低限の荷物で来た道を戻ると。

 楊海は妻の顔を覆う布がないのにうろたえたらしい。抗弁したいらしいが、言葉がなかなかでない。

「ですが、若さま」

「いいんだ、楊海」

 鷹隼は、疲れの為か眠ってしまった妻を、抱えなおした。「話したい相手が居る。一生のことだ。父上も、少し仕事を放っておくくらい勘弁してくれる」

「話したいお相手、とは?」

 楊海は云い、鷹隼は即座に答えた。「妻の両親だ」




 目を覚ました妻は、来た道を戻っているのに驚いたらしい。だが、鷹隼が説明すると、彼女は息を吐いて承知した。その体がより一層、小さくなったように見える。

 鷹隼がのってきた馬は、楊海が持ち主に金を払って買いとったそうだ。宿には別の使用人が走って、鷹隼の決定を伝えた。宿賃は払っているから問題ない。

 諸々を手際よく片付けてくれた楊海は、鞍を置いたあの馬にまたがっていた。その後ろに玉花がのって、楊海にしがみついている。年若い侍女達は結局、鷹隼に逆らい、車で追ってきているらしい。何事もなければいいがと、不意に不安になる。

「若さま」

「ああ。玉花、妻になにか、羽織るものをもらえないか」

「かしこまりました」

 玉花はせなかにくくりつけた包みのなかから、上着をとりだした。鷹隼はそれをうけとり、妻の体を包むようにする。先程から小雨が降っていて、妻の髪は濡れ、つやつやと光っていた。

「寒くはないか?」

「平気です」

 妻は項垂れ、鷹隼の体に寄りかかった。それが嬉しくて、鷹隼は彼女をぎゅっとする。






 妻と、楊海に玉花だけの、淋しい道中だったが、気持ちはずっと豊かだった。妻は顔色が優れず、言葉も少なかったが顔を隠すことはもうなかったし、(ねや)で鷹隼が近付いても拒まなかった。けれど鷹隼は、彼女を抱きしめて寝るだけだった。それ以上のことはしない。できない。妻は痩せすぎていて、なにかしたら死んでしまいそうだった。

 ふつか経って、行きでも泊まった宿に部屋をとると、妻はふらふらとどこかへ出て行った。以前なら侍女が一緒だろうからと心配しなかったが、鷹隼は彼女を追った。案の定、玉花はなにかの用事らしく廊下におらず、妻はひとりでそこを歩いていく。

「待ちなさい」

 追いついて、鷹隼は妻の肩を掴んだ。「どこへ? なにか必要なら、わたしが手配する。君はゆっくりしていたほうがいい」

「あの……」

「ほら、来なさい」

 妻はぐずぐずしていて、鷹隼はその体を抱え上げ、部屋へ戻った。寝台へ座らせると、妻は項垂れる。「玉花が、ここへ食事を運ぶように云いに行ったから、心配はない」

「……旦那さま?」

「ああ」

 妻は力ない声で、静かに云う。「お願いが……」

「ああ、なんでも云いなさい」

「わたし……旦那さまに、愛して戴きたいのです」

 鷹隼はああと応じようとして、かたまった。妻がなにを云っているのかはわかった。


「妻よ? なにを云っている?」

「妻だとおっしゃるのに、わたしに……触れようとなさらない」

「触れている」

「なぜ、わからないふりを?」

「わかっているから戸惑っているのだ。君は今、そのようなことに耐えられる体ではない」

 鷹隼は妻の隣に腰を下ろし、彼女の手を掴んだ。「君はもっと食べて、ぐっすり寝なくては」

「……一度でいいのです。これ以上、わがままは申しませんから」

「だめだ」

 玉花が戻ってきたので、そこで鷹隼は話を切り上げた。妻はその日も、あまり食事をしなかった。




「今日は晴れてますね」

「ああ」

 州都への最後の丘で、鷹隼は頷いた。「これで、煩わしいことを片付けられる」

 妻がぎくりと体をこわばらせる。彼女はとうとう、昨日から食事を絶ってしまった。鷹隼はそのことが面白くない。

 まず、家へ戻って、妻を預けよう。そう考えていると、政庁近くから煙が上っているのが見えた。あれは……?

「火だ」

 楊海が呆然と云った。鷹隼は妻をおろし、楊海へ彼女を見ているようにと命じて、馬を走らせた。


 州都は混乱状態だった。政庁の近くから火が出て、皆、逃げ惑っている。野放図に家が建てられ、無計画にできていった街は、訳のわからないところに袋小路や壁があり、逃げ惑う者達を足止めした。

「こちらに逃げられる!」

 鷹隼はすでに馬を捨てていた。葦毛は火をおそれ、熱をおそれていた。街へ這入るのをいやがったので、乗り捨てたのだ。「風は北へ吹いているから、南へ走れ! あちらの壁は兵士達が壊してくれた!」

 せなかに荷物を負った女と子ども達が、鷹隼の示すほうへ走っていく。鷹隼は南へ走れと云いながら、自分は北へ向かった。そちらに石家の店がある。

 政庁の傍に。


「父上、母上!」

 石家の店には火がうつっていて、鷹隼はそこから出てくる使用人達をかきわけてすすむ。「若さま!」

「九昇、父上達は? 夕照と光風は?!」

「皆さま、お姿が見えなくて」

 九昇は、岳家がどうのこうのと云っていたが、鷹隼はそれを無視して炎のなかへ飛びこんだ。


「兄さま!」

 光風の声だ。

 光風は母に肩をかし、夕照もそうしていた。夕照は顔に酷い火傷を負っている。「兄さん、母さまをつれていってくれ。俺はもう……」

「だめだ、三人ともつれていく」

「兄さん」

「煩い!」鷹隼は声を張り上げ、夕照を背負った。「しっかり掴まれ! 兄の云うことをきけ!」

 夕照が咳込みながら、鷹隼の肩にしっかりとしがみついた。鷹隼はそれを確認し、両腕にそれぞれ光風と義母を抱え、来た道を戻る。門が崩れて燃えていたが、そんなものは鷹隼には関係なかった。火が一番遠い塀まで走っていく。三人をおろし、肩から塀へぶつかると、数回で塀は崩れた。火がまわっていないと云っても、熱が塀に悪影響を与えていたのだろう。

 光風が母と手をとりあって、這うようにして出て行く。鷹隼は気を失った夕照を抱えて外へ出た。さいわい、石家周辺の通りは、幅のひろいところが多々ある。そこまで走ると、熱気は凄まじいものの、呼吸できないほどではなかった。

 夕照をそこへ横たえると、鷹隼はとって返した。光風が叫ぶ。「兄さま?!」

「父上をさがす!」

「父さんは岳家へ――」

 光風がそう云うのが聴こえた。鷹隼はだから、結婚の時に挨拶に行った妻の家へ向かって走った。




 鷹隼は上着を脱ぎ捨てた。暑くてたまらない。

 火は勢いを増していた。三日前まで降っていた雨が懐かしい。今こそ、雨を降らせてくれればいいのに、天の考えはわからない。

「父上!」

 岳家はそこまで燃えていなかった。鷹隼は叫びながら、その敷地へ這入っていく。

「鷹隼?!」

 驚いたような声に顔を上げると、父が頭から血を流した舅に肩をかして歩いてくるところだった。姑が白髪の侍女達に担がれ、火のうつった建物から出てくる。

「なぜ戻った……」

「妻のことで、彼女の両親に話をしなくては」

「旦那さま」

 鷹隼は驚いて振り返った。そこには、木桶を手に、息を切らした妻が居た。


「何故……」

 続きを云えないでいると、妻は木桶にたたえた水を鷹隼へかけた。彼女も水を被ったようで、濡れている。

「どうして追ってきたのだ」

「心配だったからに決まっているではありませんか」

 妻は口をぎゅっと結び、涙をこらえている。鷹隼は彼女を抱きしめたい衝動にかられたが、それどころではないことを思い出した。

 姑が息を吹き返し、侍女達が泣き出した。「奥さま」

「……ああ、どうして戻ってきたの?」

 姑は、鷹隼の妻を、娘を、実に厭わしそうに見た。「垂絲もお前と同じで、ばかなことをしてくれたわ」

 妻が体をこわばらせ、姑はもう一度気を失った。舅が吐き捨てる。「ばかはわたしたちだ」

 風向きが変わった、と思ったら、細かい雨が降ってきた。ゆっくりと、静かに、火の粉が湿気を吸って地面へ落ちていく。






「船が、何隻もやられて、積み荷がだめになった。取引相手に払う金がなくて」

 政庁は半分燃えて、雨で鎮火した。人間にできることはなかった。霞宝の州都はどこもかしこも煙の匂いがし、泣き声や家族をさがす声で充ちている。

 鷹隼達は火事の為にぽっかりとなにもなくなった通りに居た。屋台の残骸がくすぶっている。楊海と玉花がかけつけて、どこから持ってきたのか、傘をさしかけてくれる。

 先程、義母と光風がかけつけて、父と三人で泣いている。夕照は燃えて落ちてきた梁から、光風と母を庇い、顔を焼かれたそうだ。火傷の程度が酷く、医者が手を尽くしているが、助かるかどうかはわからない。

 鷹隼は妻を片腕に抱いて、舅の喋るのを聴いていた。霞宝ではありふれた話だ。南方との交易の為に仕立てた船が、嵐にやられて沈没し、損をした。だが、岳家の場合、それはもっと切実な話だった。大量の荷を積載していた船団がやられ、莫大な負債を負ったのだ。


 そもそも、舅はあまり商売がうまい男ではないらしい。岳家は朝廷とのつながりもあるのに、このところ儲けはあまり出せていなかった。

「それで、娘の結納金をあてに?」

「はずかしいはなしだが……」

 座りこんだ舅は息苦しそうに見えた。まだ、火事の熱が残っていて、寒くはないのに、彼は震えている。

「垂絲が云いだしたことだが、わたしらは石家相手なら誰でもよかったんだ。氾家でも。それで……ああ」

「妹がいやがったから、姉を寄越したんでしょう」

 鷹隼の言葉に、家族がぱっと顔を上げた。「鷹隼、知っていたのか」

「あなた、どういうことです?」

「わたしは、昨日それに気付いた。岳家が娘を、朝廷へやろうとしていると聴いて、まさか出戻りの姉を遣るとは思えないから」

 鷹隼は妻を抱き寄せる。妻は泣いている。「ああ、お父さま、どうしてです? 垂絲を宥めて、寄越してくれると、約束したではありませんか? わたしは旦那さまを傷付けてしまったのに」

「父上」鷹隼は妻を遮って云う。「いかに父上といえど、我が妻を愚弄するのは辞めて戴きたい」

 鷹隼の尖った声に、父はかすかに震えた。

「す。すまぬ、鷹隼」

 鷹隼は煩わしい話を一切耳にしたくない気分だった。それなのにまわりには、あれやこれやと騒ぐ人間ばかりだ。こんなところからははやくはなれて、妻にあたたかい茶の一杯でも飲ませてやりたいというのに。

 鷹隼は舅を見下ろした。

「そのことで話す為に戻ったのです。あらためて、お嬢さんとの結婚を認めてもらいたい。彼女との結婚を」

 妻がぽかんと口を開け、火事のなかへとびこんで以来はじめて、鷹隼は愉快な気分になった。











 火をつけたのは垂絲の知り合いの男だったそうだ。

 垂絲は祭りの時に、見目麗しい男を見付けては声をかけたり、索餅をねだったりと、思わせぶりな態度をとっていた。侍女の手引きで男と会っていたこともあるという。勿論、隠れて散歩をする程度の付き合いだ。垂絲は軽率だが、まだ子どもで、男女のことはいまいち理解していない。ただ、見た目のいい男と喋るだけで充分だったのだろう。

 名も知らぬ男はそのうちのひとりだった。垂絲はわがままで愚かだが素直なようで、その男へ云ったのだ。朝廷へ行くと。けじめをつけるつもりだったのだろう。


 それで男は、政庁に火を放った。垂絲がのった車がその日その時その場所にあったから。数日前に雨がやんで、火がはやくにまわりそうだと考えたから。


 垂絲は車をとびおりて風向きを読み、馬を車から外して侍女や、朝廷から彼女を迎えに来た宦官達をのせ、南へ走れと命じたあと、残った宦官を担いで走った。車では火がついたらまわりに火をばらまくことになると考えて、車は捨てた。わがままで美男に目がない愚かな娘だが、人助けの為には力を惜しまなかった。

 宦官を火からはなれたところで下ろすと舞い戻って、怪我をした官吏達を担いで運び、更には火にまかれて逃げられなくなった紅楼の女達を救い出して、自身は体に重い火傷を負い、髪も半分ほどなくなった。

 華やかな朝廷へ行って贅沢な暮らしをするという夢はその為に途絶えたが、垂絲はあまり気にした様子はないという。官吏達を救ったというので、霞宝の判事からご褒美をもらったのも大きかったのだろう。それに、火傷痕があろうがあっけらかんとして裏表のない素直な垂絲は、結局は美男子にいいよられているらしい。

 また、朝廷からの支度金も、返せとは云われなかった。垂絲の働きに免じて、だそうだ。それがあれば岳家は立て直せる。

 火をかけた男は焼け死んでいたそうだ。垂絲がさっさと見切りをつけた車のなかで。




 夕照はなんとか一命を取り留め、火傷痕の痛々しい顔で、これで光風とお揃いだと家族を笑わせた。

「兄さん」

「ああ」

 夕照はまだ起き上がることができず、やわらかい(ふとん)にくるまれて横たわっている。顔だけでなく、彼は体にも火傷を負っていて、その程度は酷い。起き上がって歩けるようになるまで、かなりの時間が必要だと、医者は云った。

 鷹隼は弟の顔の、火に焼かれなかったところをそっと撫でた。夕照は左目を細める。右目は閉じたまま開かない。

「ありがとう。あの時、俺のことを見捨てないでくれた。俺を捨てていけば、兄さんが石家を継げたかもしれないのに」

「弟を見捨てる兄は居ないし、弟よりも家や金をとる兄も居ない」

 肩を撫でると、弟は鷹隼の手をそっと叩いて、義姉さんとしあわせに、と云ってくれた。


 父は夕照の様子を見、光風の商才を考えて、鷹隼に石家の跡取りになってほしいと云ってきたが、鷹隼は断った。

「何故?」

「母上に面目が立ちません。それに、夕照をこの家の当主にする為に、わたしは火に飛びこんだんです」

 父は項垂れ、しばらく黙っていたが、云った。

「鷹隼」

「はい」

「お前の母のことを隠していてすまなかった」

 どきりとしたが、鷹隼が停める前に父は喋った。「本当に、過ちだったのだ。お前の母は、あれの……わたしの妻の妹だった。わたしは酒を過ごして、妻と妹を取り違えた。ふたりはよく似ていた」

「父上」

「わたし達は彼女にいい縁談をまとめた。都の商人で、わたしと旧知の人間だ。不幸な……勘違いが起こったことも伝えた。いい男でな、おなかが大きくてもいいからその可哀相な娘さんをすぐに寄越せと云ってくれた。お前の顔など見たくもないだろうからと。だが、あれが、子どもだけは置いていってほしいと泣いて頼んだ。義妹は気が優しくて、お前を置いて嫁いでいった。そちらでしあわせにしていると聴いている。たまに、時候の挨拶が来るが……お前は知っているだろう? 薛家の……」

 雷が落ちたような衝撃があった。「なんですって?」


 薛家の奥方といえば、なにくれとなく石家の三兄弟を気にかけてくれているひとだ。都は遠くて、直にあったことはないが、丁寧に刺繍した帯や布靴、都ではやっているという髪飾りなど、今まで何度も贈ってくれている。どんな時でも鷹隼に宛てたものが一番素晴らしい出来なのに、それについて父母はなにも云わなかった。嫡子に一番いいものを与える筈なのに。


「では、わたしは、母に顧みられなかった訳ではないのですね」

 鷹隼がつぶやくように云うと、父は頷く。

「そうだ。義妹は本当は、お前をつれていきたがっていた。だが、あれになかなか子が出来なかったから、お前を失ったらわたしが子を持てないかもと……わたし達のわがままで、お前に苦労を……」

 父は、呆然とする鷹隼から顔を背けた。目に光るものがある。「だから、妹と偽って姉を寄越した岳家をゆるす気になれなかった。それで、直に文句を云いにいったのだ」

 わたしは、母に捨てられたのではなかった。母はずっと、わたしを気にかけてくれていた。わたしを。

 鷹隼が泣きはじめると、父は鷹隼を抱きしめた。父の苦悩がわかる気がした。若い頃は立派な体格をしていたという父が、鷹隼にとっては痩せて頼りない体であるのは、酒を過ごして妻やその妹を苦しめた自分をゆるせずに、食が細っていったからだろう。

「父上、わたしは父上を責めません。わたしに対してはもう、謝らないでください」

 父も泣き出してしまい、ふたりはしばらくそのまま泣いた。






 妻が窓辺に座って、紙を切っている。「旦那さま、おいしい干しなつめを手にいれましたの。あとで戴きましょう」

「ああ」

 鷹隼は椅子に腰掛け、妻の横顔を見る。彼女はいつになく真剣な顔をしていた。しばらく前から、きちんと食事をとっているので、だいぶ頬がふっくらしてきた。「妻よ?」

「はい」

 妻はこちらを見ない。「しばらくはこちらに残る。夕照が床についているから、わたしがかわりをしないといけない」

「かしこまりました」

 鷹隼は声を絞り出す。本当に云わないといけないことを云う。

「妻よ、君が、以前の夫に操を立てたいのなら、わたしは君に指一本触れない。そう約束する」

 それはつらいことだが、云わなければならないことでもあった。鷹隼は顔をしかめる。妻をこれ以上苦しめるつもりはない。

 妻がぼんやりとした笑いでこちらを向いた。

「なんですって?」

「君がそんなに痩せてしまったのは、その……亡夫のことが忘れられないのだろう。それで、髪もそんなに白く」

「ええ、忘れられません」

 その言葉は想定していたものだったけれど、鷹隼は動揺した。が、妻はしかめ面で続ける。

「あの……あのひとは、わたしを使用人のように扱いました。女は金がかかると、まともに服ももらえず、食事も……でもわたしは我慢しました。岳家の為に。結納金目当てだったのですから」

「な……なにを云っている?」

「あのひとはつめたいひとでした。結納金目当てだと知っていたら、優しくは出来ませんよね。(ねや)でも、ことがすむと、わたしを追い出して……わたしは使用人達の部屋で寝ていて……」


 鷹隼は妻へ駈け寄ると、その体を抱いた。自分が知らず識らず、彼女を傷付けるようなことを云っていたと気付いたのだ。

「すまない。君を(ねや)から追い出そうとした。わたしもその男と同類だ」

「いいえ、あれはわたしが無礼だったのですもの、旦那さまはあたりまえのことをおっしゃったに過ぎません」

 妻は息を整える。「ですが、わたしは、旦那さまが州都へ戻るとおっしゃった時、本当に……本当に死んでしまいたかった。妹にあなたをとられるくらいなら、死んでしまったほうがましだと……」

 そのあとはもう、言葉にならない。鷹隼は必死で妻に謝った。妻は鷹隼にすがりつき、体を震わせていた。




「旦那さま」

 翌朝、自分の失態にしょんぼりする鷹隼の前に、目をうっすら赤くした妻がやってきた。玉花と、最近しっかりしてきた幼い侍女達が一緒だ。

 鷹隼は立って妻を迎える。妻は襟の間から、紙をとりだした。

「これは……」

「このところずっと、切っていたものです。さっき、やっとできあがりましたの。花以外ははじめてだったので、不出来でも叱らないでくださいまし」

 鷹隼は紙をそっとひろげる。黒く染まった紙は、翼をひろげた鷹の形をしている。羽は本物のようで、鷹隼の吐く息でひらひらと揺れた。

(はやぶさ)も切ります。時間がかかると思いますが、待っていてくださいますか」

「勿論」

 鷹隼は胸に、あたたかいものを感じた。妻の心と自分の心がつながったような気がした。

 多分、ほかにもつながっているひとは居るのだろう。わたしの目が曇っていて気付かなかっただけで。

「時間はあるではないか? わたし達は夫婦なのだから、これからも一緒に居る。そうだろう、菊明(きくめい)

 名を呼ぶと、妻はにっこり笑った。






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[気になる点] ( ;´Д`)な、名前にルビをいただきたい……! [一言] まーべらす……!(*´Д`*) 互いのすれ違いがわかりやすく、にやにやしました。 最後、意外な妹キャラでした。そうか、火傷気…
[良い点] 紆余曲折ありましたがハッピーエンドで良かったです! 良縁に恵まれるってこういうことですね(*´꒳`*) [一言] で…できれば名前にルビをふっていただけたら嬉しいのですが…… 実は垂絲が…
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