88. エドガーの心の澱を感じたリュシアン
レティシアがアイシャと楽しげに庭園を歩いている頃、二人の後ろ姿を柔らかな眼差しで見守りながら歩くリュシアンとエドガーだったが、穏やかな表情とは裏腹に非常に血生臭い会話を交わしていたのである。
「可愛いでしょ? アイシャ。レティシアの事をとても気に入ったみたいだ。あーあ、リュシアンの相手じゃなかったら、僕が何としてもレティシアを国に連れ帰ったのに」
「戯れを。叔父上の妃にだなんて、レティシアにそんな辛い思いはさせませんよ」
「辛い思いって……失礼だなぁ。レティシアが僕の妃になってくれたなら、誰よりも大切に大切にするよ」
時々後ろを振り返るレティシアに心配をかけまいと、努めて口元を緩めていたリュシアンは、久しぶりに会えた甥っ子を楽しそうに揶揄う叔父の顔をチラリと見やった。
「噂によれば、イリナはこの国でしっかりと罪を償っているようですね」
リュシアンの耳にも逃げるようにしてフィジオ王国に嫁いだイリナの近況は届いていた。
そして一見人が良さそうに見える叔父のエドガーが、こう見えて愛妻家とは程遠い人物であるという事は母親のソフィーから聞いて知っていた。
これまでだって政略結婚で嫁いだ妻の事を愛するわけでもなく、けれど愛する努力をするわけでもなく、ただ妻としてそこに居ることを許しているといった態度であると。
それはエドガーに限った事ではない。この国は一夫多妻制だが、エドガーのように王位継承から遠い末端の王子には、自由に恋愛する事も、好きな相手と添い遂げる事も許されていないのだった。
「元より、国王陛下と叔父上は母上を傷付けた者を罰する為、この国に連れ帰るつもりだったのでしょう」
この国の国王は娘であるソフィーを傷付けた前皇帝ムサの事も、その愛人の事も、イリナの事も許してはいなかった。
事情を知った国王は息子のエドガーにイリナを連れ帰るように命じた。
表向きは妃探しと称して。しかしその実は娘を傷付けた罰を与える為に。
本当であれば、ムサやカタリーナの事も罰したかったに違いない。けれどそれは流石に叶うはずもなく、せめてイリナだけでもとエドガーに命じたのだった。
全ては遠い異国に嫁いだ娘、ソフィーの為に。
いくら妻や子が多くいようとも、フィジオ王国の国王は血を分けた子どもの事を大切に思っていた。
その子どもが、遠く離れた異国で軽んじられている事が許せなかったのだ。もしかしたら娘を通して自分の事を軽んじられていると思うところもあったのかも知れない。
今では大国となったフィジオ王国は、帝国フォレスティエに決して負けない国力を手に入れていた。
にも関わらず、帝国に嫁いだ娘が夫と愛人に軽んじられているという事実を知った国王は、娘の立場を最大限に配慮した上で、その怒りの矛先を向ける相手を自国に連れ帰る事にした。
それが、エドガーが妃探しと称して帝国に残り、イリナを連れ帰った事の真実だった。
「陛下はね、ああ見えて僕ら血を分けた子どもの事を大切に思っているらしい。特に優秀なソフィー姉上は、陛下のお気に入りだったからね」
「……イリナは、生きているのですか?」
「気になるの? リュシアンには可愛いレティシアがいるからいいじゃないか。まさか、実はイリナの事もお気に入りだったとか? 元はリュシアンに近付こうとしてたらしいからね」
エドガーの挑発するような言葉に、流石のリュシアンもその青い目が冷たく光った。
ピリリと肌を刺すような空気が二人の間に流れたのはほんの一瞬の事で、エドガーの口から漏れた短い笑い声によって、その場の緊張感は霧散した。
「ふふっ……冗談だって。そんなに怒らなくても、冗談だと分かっているだろう?」
「……冗談でも、許せるものと許せないものがあります」
「ごめん、ごめん。リュシアンのその綺麗な青い目には、レティシアしか入らないもんね。特に、あんなに分かりやすく打算的な女は嫌いだろうし」
「その打算的な女を持ち上げるだけ持ち上げて、そこから一気に落とすような事をしでかした叔父上という人を、本当に恐ろしいと思っていますよ。だからそんな叔父上は、レティシアにあまり近付かないでください」
リュシアンはエドガーに対し、スッと目を細めて告げた。対してエドガーは大袈裟に肩をすくめて見せた後、まるで天気の話をするかのように自然な様子でイリナの近況について語り始めた。
「イリナは生きているよ。今はまだ、ね。連れ帰った初日から僕の妻たちには大層嫌われていたけど」
「想像出来ます」
「でしょ? まぁそのお陰で、イリナには堂々と罰を与えるいい理由が出来たよ。この国は、妃達の輪を乱す者に厳しいからね」
フィジオ王国へと嫁いだイリナは、自らの立場がこの国で一体どんなものかという事を、全く想像もしていなかった。
王位から程遠い第八王子の、数多くいる妃のうちの一人であるという事だけでなく、フィジオ王国国王やエドガー、それにこの国にいるソフィーを慕う者達からどのような目で見られるかという事を。
イリナは自分の女としての魅力によって、エドガーを懐柔する事に成功したと思い込んでいたからだ。
エドガーがイリナをこの国に連れ帰った初日、形ばかりで他の妃に紹介されたイリナは早速、「自分がエドガーの一番のお気に入りなのだから、優遇されて当然」とばかりに他の妃達の顰蹙を買った。
王子妃になるのだからもちろん盛大な婚姻の儀が行われるのだろうと期待していたイリナだったが、他の妃達から第八王子の婚姻の儀などわざわざ執り行われる訳がないと笑われて愕然としたのだった。
頼みの綱のエドガーも、妃達の居る宮に現れる事は滅多に無いと聞き、初めてこの国での自分の置かれた立場を知ったのであった。
「帝国では想像も出来ないだろうけど、この国での妃達の地位は低い。王妃は別だけど、側妃や王子妃なんてまるで人質か道具みたいなものなんだよ」
「人質か、道具……ですか」
「そう。だからこそ彼女達は各々の宮で、協力して平和な共同生活を送る努力をするんだ。この国の男達は女同士の揉め事を嫌うからね。平和に過ごしてさえすれば、それなりの生活は約束される」
一夫多妻制といえども、本当に愛されている妃は一握りだけ。ほとんどが政略結婚で、そこに愛はない。
しかも、この国での女性の地位というものは決して男性と同等などではないのだ。それはこの国にとっては自然な事で、当たり前の事。
男女がほぼ平等と考えられる帝国育ちのイリナにとってみれば、理解出来ないだろうが。
「そんな国だとも知らずに、王子妃になれると喜び勇んで飛び込んで来るなんて、本当に滑稽だよね。今イリナはあの塔に幽閉しているよ。ほら、あれ」
エドガーが指差した先、庭園のずっと向こうには、かなりの歴史を感じさせる古びた塔があった。
辺り一体が陰鬱としている雰囲気のその一角は、王宮の中でも北側に位置し、異質な空気を纏っている。
「あそこにはね、貴族の罪人や夫に捨てられた妃達が幽閉されているんだ。この王宮の者達は、『あの場所に送られるくらいなら、どんな事でも我慢できる』と口を揃えて言うよ」
具体的にその塔でどんな事が繰り広げられているかをエドガーの口から聞いたリュシアンは、前を行くレティシアとアイシャを気にしながらも、思わず顔を顰めた。
それほどまでに塔で行われている罪人への仕打ちは凄惨で、非人道的だったのだ。
「趣味が悪い話ですね」
「まぁまぁ、そう言わないの。それでもあの場所で半年も無事に生きられたら、僕はイリナを褒め称えてあげようと思っているよ。すごい執念だねって」
「話を聞く限り、それは無理でしょう」
「分からないよ? 彼女、なかなかしつこそうだし」
何とも楽しそうにエドガーは無邪気な笑顔を見せたが、リュシアンは同じように笑う気持ちにはなれなかった。
決して嫌いではないこの叔父のひどく屈折した心に仄暗いものを感じ取り、複雑な感情を抱いたのかも知れない。
「叔父上は……」
そこまで言ってリュシアンは言葉を切った。
帝国とは全く違う風習のこの国で、自分と違って愛する者と恐らく添い遂げる事が出来ないエドガーが、冗談まじりにでもレティシアを求めるのは、誰よりも清廉で崇高な空気を纏うレティシアに心からの癒しや赦しを求めているのでは無いかと思ったのだ。
「何だい? リュシアン」
「いえ……何でもありません」
決して言葉にしてはいけない、リュシアンはそう考えたらしい。
口をつぐんだリュシアンはエドガーとの会話を打ち切り、アイシャと親しげに話すレティシアの後ろ姿を見つめる事にしたようだ。
いつもと変わらない美しい銀髪が、この国の乾いた風に靡くのを眺めているうちに、ふとこちらを振り返ったレティシアとリュシアンの目が合った。
ふぅわりと細められた紫色の瞳に、リュシアンの重苦しくなった心は慰められる。
「叔父上、俺はレティシアと共に、母上と帝国フォレスティエの民を守ります」
そう言って強い眼差しを自分に向けるリュシアンの言葉に、エドガーも垂れ目がちな瞳を優しく細めて大きく頷いた。
「そりゃあ僕の大好きな二人ならきっと、大丈夫だろうね。また遊びに行くよ。今度はアイシャを連れて」
普段から掴みどころがなくどこか飄々としていて、自身の本音を曝け出す事をあまりしないエドガーだったが、この時ばかりは甥の強い決意を心から応援しているとその表情が告げていた。
「はい、レティシアも喜ぶでしょう」
リュシアンとエドガーは、どうやら目的地に着いたらしいレティシアとアイシャの楽しげな声に、二人揃って頬を緩めた。




