87. 人影の正体、思わぬ人物
「アイシャ! ダメだろう、人前に突然飛び出したりしたら。それに、この方達は大切なお客様なんだよ」
小さな人影に向かってそう言ったエドガーの声は、叱るような内容に反して驚くほど慈しみ深く、優しかった。
「ごめんなさい、お父様。だって、異国のお客様が来るって言うからお庭を見てたの。そしたらとても綺麗なお姉さんが見えたから……」
「彼らが庭園に来た時に?」
「うん。だって魔術師様の不思議な力で飛んで来るって言うから、皆で窓から見てたのよ。お母様も、他のお妃様達も……」
「なるほど。それで、ここで待ち伏せしてたってわけかい?」
「『こくおうへいか』と『こうていへいか』のお話が終わるまでは、お部屋から出ちゃダメって言われてたから……。まだダメだった? ごめんなさい」
少しだけ肩をすくめて詫びたのは、まだ小さな女の子。
五、六歳くらいだろうか。ふっくらとしたほっぺたは、幼い子ども特有のなんとも言えない柔らかさを想像させた。
エドガーと同じ褐色の肌に可愛く編み込まれた焦茶色髪、甘えるように潤んだ緑色の瞳はじっとレティシアの方を見ている。
「すまないね。この子は二番目の妻の娘、アイシャだ。お転婆で、言う事を聞かないから僕はいつも怒ってばかりだよ。どうやら君達がここに来た時から目をつけていて、話が終わったのを見計らって飛んで来たらしい。ほら、ご挨拶をして」
エドガーはアイシャと呼ばれた女の子の髪をクシャクシャと撫で、挨拶を促した。
アイシャは改めてレティシア達を前にすると、少し照れくさそうに身体を捻った。
「えっと……アイシャ……です。女神様みたいに綺麗なお姉さんを見て……会いに来ました」
何とも可愛らしいその仕草に、レティシアは母性本能をくすぐられた。
レティシアは隣に立つリュシアンの方を見上げると、確認するようにほんの少し小首を傾げた。するとリュシアンは優しい眼差しで頷く。
「せっかく会いに来てくれたんだ。少し時間を取ろう」
「ありがとうございます。リュシアン様」
レティシアはリュシアンに向かって微笑み返し、まるで小さなエドガーのような女の子に近付くと、きちんとしたカーテーシーを披露した。
「私はレティシア・フォン・ベリルです。可愛いアイシャ姫、お会い出来て光栄ですわ」
「わぁぁ! なんて素敵なの! お父様、レティシア様に私の育てているお花をプレゼントしてもいい? お願い!」
アイシャは目をキラキラと輝かせ、サッと近付くとレティシアの左手を握った。少しだけしっとりとした柔らかくて小さな手に、レティシアも自然と頬が緩む。
「うーん。リュシアン、どうかな? 帰る前に少しだけ、アイシャに時間をくれるかい? 僕には子どもがアイシャだけだからね。周りは大人ばかりの中で、レティシアに会えたのが余程嬉しいらしい」
エドガーにそう言われてリュシアンも嫌とは言えず、アイシャからのキラキラとした眼差しに負けたように了承した。
「ありがとう! 素敵なこうていへいか!」
そう言って、アイシャはレティシアの手を力強く引っ張った。どうやらアイシャが育てている花のところまで案内してくれるらしい。
リュシアンとパトリック、そしてエドガーは、仲良く手を繋ぐレティシアとアイシャの後ろからついて歩き、庭園へと向かった。
「レティシア様、皇帝陛下はとてもカッコいいですね。私のお父様よりも若くて素敵だから、レティシア様がお父様を選ばなかったのも仕方がないわ」
「あら、それは一体どういう事?」
「帝国から帰った時、お父様はレティシア様をお妃様にしたかったってメソメソ泣いていたの。女神を甥っ子に取られてしまったって」
純粋なアイシャの無垢な言葉に、レティシアはそっと後ろを振り返る。自身の娘にまでそんな冗談を言うなんて、という呆れた眼差しを向けた。
そんな事も知らず、エドガーはリュシアンと穏やかな表情で会話を交わしている。
リュシアンはというと、レティシアとエドガーが近づき過ぎなければまぁいいと、そのように思っていたのだが、そんな事はレティシアは知る由もなかった。
パトリックは周囲に視線を巡らせて、レティシアに何らかの危険が及ばないか気にしているようだ。先程のアイシャのように突然イリナが現れたりしないかと、その事も密かに警戒している。
そうしながらもパトリックはレティシア達の少し斜め後ろを歩いていた。女同士の会話を邪魔しないようにと遠慮しているようだ。
「でも、エドガー殿下は新しいお妃様を帝国から連れ帰ったでしょう?」
レティシアはパトリックから聞いたイリナの窮状について、まだ幼いアイシャから聞くのは残酷だと思っていたが、つい口にしてしまった。
パトリックから聞くところによれば、イリナはこの国で豊かな暮らしとは程遠い生活を強いられているのだというのだから。
「あぁ、あの人……ここに来て早々、自分がお父様の一番のお気に入りだって、そう言いふらして他のお妃様達から嫌われてた」
そう告げたアイシャの横顔は、これまでのものと打って変わって大人びた表情だった。
レティシアはそんな少女の様子に、何か暗いものを感じて言葉を失ってしまう。
帝国の庭園に負けじと劣らぬ多くの花々が咲き誇るフィジオ王国の庭園に、帝国よりも幾分か乾いた風が吹き抜けた。
「お父様って一応王子様だけど第八王子だし、そんなに贅沢な暮らしは出来ないんだよ。お妃様達だって全員『せいりゃくけっこん』で、それでもそれなりに皆で仲良くして来たのに……」
「お妃様達は皆、仲が良いのね。アイシャ姫もお妃様達と仲良くしているの?」
「うん! だけどあの人が来てしばらくはギスギスしてた。今はもう大丈夫だけど。あ! あそこ!」
今はもう大丈夫という言葉の意味をレティシアが考える間もなく、アイシャは手を引いたままでタッと駆け出した。
どうやら目的の場所が見えて来たらしい。
先程は思わず自分から口にしてしまったものの、レティシアはまだ幼い子どもの口から悲惨なイリナの近況を聞かずに済んで、実のところはホッとしているようだ。
「レティシア様! 来て!」
何とも楽しげに、子どもらしい溌剌とした声で、アイシャはレティシアを急かした。




