85. レティシア、イリナの窮状を知る
「パトリック、一体どうしたの?」
墨色のローブをパッと剥ぎ、漆黒の髪を顕にしたパトリックがレティシアの元へと飛び込んでくる。
薬師としての腕前はアヌビスに並ぶと噂され、他の薬師達にも一目置かれる存在となっているパトリックとその中に存在するファブリスは、すっかりこの城の日常に馴染んでいる様子だ。
「姉様、やっぱりあのエドガー殿下は曲者だったよ。あの女を妻として連れ帰るなんて、納得いかないなぁって思ってたんだけど」
「あの女……って、イリナ嬢のこと?」
あれからイリナはエドガーの妻の一人として、颯爽とフィジオ王国へと去って行った。
レティシアとしてもソフィーの命を危険に晒したイリナに何のお咎めがない事には不満がないといえば嘘になるものの、ソフィーやリュシアンが彼女を罰しないと決めたのならば従うしかなかった。
「おかしいと思わなかった? いくら父親とカタリーナの罪を暴露したからって、あの女だけお咎め無しだなんて」
「……まぁ、それはそうかも知れないけれど。それはソフィー様やリュシアン様がお決めになった事だから」
「上皇后陛下も皇帝陛下も、エドガー殿下の性質を分かっていたんだよ。だからあんなにあっさりイリナをフィジオ王国に送ったんだ」
未だレティシアにはパトリックの言う言葉の意味が理解出来なかった。
思わずアヌビスの方へと目をやれば、老人にはパトリックの言葉の意味がしっかりと分かっているらしく、レティシアの視線に肩をすくめるのであった。
「待ってちょうだい。一体どういう事なの?」
レティシアは自分だけが置いてけぼりを食らったような気持ちになって、嬉々とするパトリックを問い詰めた。
パトリックはそんな姉に対して眩しいものを見るかのような視線を向け、レティシアのか細い腕を引っ張った。
「まぁまぁ。詳しくは帰りの馬車の中で説明するよ。姉様ももう帰るところでしょ?」
「ええ、そうだけど……」
「じゃあ帰ろう。アヌビス様、それではまた明日!」
皇帝となったリュシアンとの婚姻の儀を近くに控え、パトリックはますますレティシアに甘えたがる事が増えた。
過去には大きな憎しみさえ生まれた二人の関係も、今はただ仲の良い姉弟である。パトリックは薬師としての優秀さとは裏腹に、十四歳にしては少々子どもっぽいところがあった。
もしかすると姉の事を大事に思うファブリスと同化した事で、パトリックにも何らかの変化を来したのかも知れないが。
実際のところはパトリックとファブリスにしか分からない。
侯爵家に向かう馬車の中で、レティシアはパトリックからイリナの窮状を聞くことになった。
それはレティシアが想像していたよりも遥かに壮絶な内容で、心優しいレティシアは思わず言葉を失ってしまうほどだった。
けれどもパトリックからは、フィジオ王国を訪問した際に万が一イリナがレティシアに助けを求めて来たとしても、決して老婆心を出さないようにと強く念を押されたのである。
「どちらにせよ、私に出来ることは無いから……」
それでも話を聞いて随分とショックを受けた様子のレティシアに、向かいに腰掛けたパトリックは苦笑いを零した。
「姉様は優しすぎる。あのイリナは過去に姉様を惨たらしく殺した相手だよ? しかも今世でリュシアン陛下が自分に靡かないと分かると、今度はエドガー殿下に媚を売って、まんまと大国の妃の一人になったんだから大したモノだよ」
「それでも……やっぱり知ってしまうと、気持ちは複雑だわ」
「はぁー……。姉様には話さなきゃ良かったなぁ。別に姉様の心を痛めさせるつもりは無かったんだよ」
近頃少し顔立ちが大人びて来たパトリックは漆黒の瞳を涙の膜で潤ませて、姉の手をそっと握った。
「パトリックの言いたい事はよく分かるわ。この国でのイリナ嬢の罪は、結局曖昧になってしまったものね。それに、彼女が過去に私を殺した事も、今世で私に対して嫌がらせをした事にも、あなたは怒っているのでしょう?」
「もちろんだよ。そりゃあ僕も姉様には色々と悪い事をしちゃったけどさ……」
一度目の人生でパトリックは不貞の子と疑われ、家族の中に居場所が無く傷付いていた。両親が期待を寄せる姉のレティシアを羨み、妬んでいた。
そしてその強い心が奇しくも二人に二度目の人生を与える事になったのだが、此度もパトリックはレティシアへの嫉妬と羨望を失う事は無かった。
それでもあの時、パトリックの凝り固まった心を溶かしたのは、レティシアの優しさと思いやりであった。
家族で唯一黒髪に生まれたパトリックの秘密について調べ、父との間を取り持ったレティシア。あの時、レティシアがパトリックに手を差し伸べ、余すことなく自分達の心のうちを曝け出した事で二人は分かり合う事ができた。
「今は姉様の事を誰よりも大切に思っているよ。だから心配なんだ。優しい姉様があの狡猾なイリナに泣きつかれて、つい手を差し伸べてしまわないか」
「大丈夫よ、私の立場でそんな事をしたら国同士の問題になりかねないもの。それに、流石にそこまでお人よしではないわ」
「そうだといいけど……」
心配そうに見つめる弟の髪を優しく微笑みながら撫でてやるレティシアは、フィジオ王国への訪問が無事終わる事を切に願った。
流石にパトリックの言うようにイリナがレティシアに泣きついて来たりはしないだろうが、もしかするとリュシアンには自身の窮状を訴えるかも知れない。
想像するとそれはとても頭の痛い事である。
あの時、イリナはもう自分の未来が生涯安泰で、多くの人々の羨望の的となる事を信じて疑ってはいなかった。
――「レティシア嬢、私がこの帝国フォレスティエなどよりも遥かに豊かな大国であるフィジオ王国の王子妃になった暁には、婚姻の儀にリュシアン殿下共々参列なさってね」
馬車の揺れに体を預けて目を瞑ったレティシアは、去り際に自分の耳元でそう囁いたイリナの表情を思い出して、知らず知らずのうちに小さくため息を漏らしたのであった。




