84. 皇帝の最期、カタリーナの行末
ここは医務室の奥の部屋。レティシアは薬師アヌビスの元を訪れていた。
薄暗く、様々な薬草の香りが立ち込めるこの部屋が、いやに落ち着くと感じ始めたのはいつからだっただろうか。
「そうか……アレは心の弱い奴じゃったからのぅ。常にあっちへフラフラこっちへフラフラと。出来の良い奥方と息子に挟まれて、無能な自分を何とかしてそうは見せまいと必死じゃった」
アヌビスが語るのは前皇帝ムサ・デル・フォレスティエの事。
リュシアン達による断罪で、前皇帝は北の果てにある炭鉱に強制労働の為送られた。そこで一年の月日を過ごし、のちに絞首刑に処される予定であったのだが……。
「リュシアン様もソフィー様も、恐らくこうなる事は分かっていらっしゃったのですね。私は不勉強で、北の果ての炭鉱の実態というものをよく存じておりませんでした。まさかそのように厳しい所だったとは……」
「フォッ、フォッ、フォッ……。あの場所にはのぅ、ムサが自身に歯向かった貴族や罪人を放り込んでおった。この国で最も気候が厳しく、生きていくのもやっとな場所で強制労働をさせるというのは処刑よりも辛い罰だからのぅ。そんな所へ放り込まれれば、ムサがどうなるか火を見るよりも明らかじゃの」
前皇帝ムサ・デル・フォレスティエは、北の炭鉱へ送られて半月も経たぬうちに惨殺された。
裸で極寒の中を立たされ、石で、スコップで、様々な物でひどく殴打されたという。この地へ左遷されたという看守達も一緒になってリンチに参加したというのだから、誰も止める者は居なかったのだろう。
「一方あの方はまだ、地下牢でお変わりなくお過ごしのようです」
愛人カタリーナは湿っぽく、陽の光の届かない地下牢へと送られたものの、生きる事への執念の強さ故か、それとも意地かは分からないが発狂などする事なく過ごしているという。
多くの罪人がその劣悪な環境に気が狂うとされる地下牢で、ひと月余りの間平然として過ごせるというのは、レティシアにとってみれば理解し難い事だった。
「そりゃあ他の罪人と比べて随分と良い飯が与えられておるのじゃからのぅ、楽じゃろうて」
「それは……どうしてですか?」
「なるべく長生きしてもらわねばいかんからだよ」
アヌビスが言うには、地下牢の罪人というのは餓死する事がほとんどで、あまりの空腹に気が狂う者が多いのだとか。
しかしカタリーナに至っては、何とか日々生きながらえるだけの食事が与えられており、餓死する事は無いのだという。
「しかしのぅ、人間というのは陽の光を浴びねば心が疲れ、やがて眠れなくなる。そうすれば、いやでもこれまでの人生を反省したくなるものじゃよ」
「そうなのですか?」
「そしてそのうち死にたくなり、しかし何も無い地下牢では楽に死ねぬ。やるとすれば苦痛を伴う自死しかあるまいよ」
「それが……カタリーナへの罰」
「カタリーナのように贅沢に生きる事への欲が強い人間ほど、日が経てばあそこでの生活は辛いじゃろうな」
そう言うと、アヌビスはズズズとティーカップの茶を啜った。
レティシアはそんなアヌビスの様子を見つめ、やがて俯き加減に物思いに耽る。
これまでに帝国の罪人達が何人同じような罰を下されたのかは分からない。
しかしレティシアの知らないような暗い事が、皇族の歴史の中にはまだたくさんあるのだろう。リュシアンはきっと、すすんで話したがらないだろうが。
「そういえば、今度リュシアン様と共に皇位継承のご挨拶の為にフィジオ王国へ行く際、パトリック……いえ、ファブリスが魔術で送ってくださるとか」
「おぉ、そうじゃそうじゃ。彼奴もすっかり勘を取り戻したからのぅ、時には大掛かりな魔術を使って発散したいと言っておったわ」
魔術で空間を移動する事は大変に難しく、この世界ではもうアヌビスとファブリスしか使えないのだという。
そもそも、魔術師というものが既にこの世界には二人を除いて存在していない可能性すらあった。
人と違った力を持つ者は多くの人々に恐れられ、迫害され、その数を極端に減らしていたからだ。
「アヌビス様はともかく、魔術師が帝国に居るという事はフィジオ王国をはじめ、そのうち各国に知れ渡るでしょうね」
「フォッ、フォッ、フォッ……! それがファブリスの狙いじゃろうて。そうすればこの帝国を攻めようなどという国は早々おらんじゃろうからのぅ」
「彼は、アリーナの眠るこの地を、無闇に荒らされたくないのでしょう」
アヌビスは自らが魔術師である事を公にするつもりは無いそうだが、ファブリス……パトリックは敢えてそれを公にする事でこの国を守るつもりだった。
「勿論ファブリスもそうじゃが、パトリック自身も姉が皇后となるこの国を守りたい心は同じなのじゃよ」
パトリックと和解してからというもの、レティシアとパトリックの関係は以前とかなり違っていた。
はじめは遠慮がちだったパトリックも、今では姉であるレティシアを偏愛といっていいほど溺愛している。
元から偏執的な性質があった彼ではあったが、ファブリスと一心同体となった事で、その影響からか著しくその片鱗が見られるようになったのだ。
「姉様!」
バタンと大きな音を立てて扉が開き、レティシアとアヌビスの視線が反射的にそちらへと向けられる。
アヌビスのプライベートな時間だというのに、ノックもせずこんな事をするのは、彼くらいしか居なかった。




