83. それぞれの罪
現皇帝の悪政ゆえに、帝国フォレスティエの国内情勢はここ数年特に乱れており、その隙を狙って西側の隣国ルビアは虎視眈々と帝国に攻め入る機会を窺っている状況であった。
元々は前の皇帝とルビア国王が親しかった事もあり、活発な貿易や技術交流によって長年良好な関係性を築いていた両国であったが、二十年前に続けて発生した自然災害によって苦しむルビアという国を、現皇帝は手を差し伸べるどころか「こちらに頼ってくれるな」とばかりに冷たく見放した事で、両国の溝が急速に深まるきっかけとなったのである。
二十年前、周辺諸国を襲った大嵐は例外なく帝国フォレスティエにも被害をもたらした。幸いにも直撃を免れ、被害は帝国の一部の地域に留まった。
しかしこの時、山間部の土地や河川の多いルビアでは、連日の大雨と洪水によってより多くの人命と田畑が流され、土砂崩れによって山肌の集落がいくつも失われたのである。
この頃帝国は山から採掘される鉱物や石炭くらいしか旨味のない西側の国ルビアを身限り、経済力の豊かな東側の国との仲を重視していた。
それが後の大きな諍いの原因となる事も知らずに。
ルビアは帝国に見限られた後、嵐によって削られた山々から珍しい鉱物が多く発見された事で、民は悲しみからいち早く立ち直る事が出来た。
その鉱物は周辺諸国が大金を払って奪い合うほどの価値があり、おかげでルビアは急速に力を持つ国となったのである。
帝国を治める才能の無い皇帝と、腐敗し切った貴族が蜜月の中で政を仕切る帝国フォレスティエは、以前は小国と侮っていたルビアに攻め入られる事を恐れるほど弱体化した。
貴族ばかりが優遇される重い税に帝国の民は疲弊し、なるべく早い皇帝の交代を望んでいる。
一方、昔から民に寄り添う姿勢を一貫して見せている皇后ソフィーと、その意思を継ぐ皇太子リュシアンの人気は著しく、英雄ディーンと共に民の間では敬愛される存在であった。
それがますます面白く無い皇帝は、聡明な皇后と真正面から向き合う事を避けるようにして、都合の良い事しか言わない愛人カタリーナの元へ逃げ込むという非常に情けない男なのだ。
作戦決行の日――フィジオ王国の王子であるエドガーが、とうとう帝国の令嬢の中から新たな妻となる女性を見つけたと、そして是非お相手と揃って皇帝に報告がしたいと申し出たのだった。
これにより、大国であるフィジオ王国と帝国フォレスティエの繋がりは尚更強固になったと呑気に喜ぶ皇帝は、今後エドガーが帰国してからのちも隣国ルビアはこれまでのように安易に手出し出来まいと息巻いた。
その上、隣国と本格的な戦にならぬよう、皇太子であるリュシアンが懸命に奔走していた事は無駄足であったなと嘲笑い、「神にすら愛される皇帝である我は、やはり幸運に守られているのだ」と宣うた。
自らがフィジオ王国から嫁いで来た皇后をいの一番に軽んじている事など、すっかり忘れてしまったように。
「それにしてもエドガー殿、まさか我の忠臣であるジェラン侯爵家の長女、イリナ嬢を見初められるとは。なかなかお目が高い」
自慢の豪華絢爛な装飾が施された一室で、上機嫌に手を叩いて喜ぶのはこの帝国の皇帝、ムサ・デル・フォレスティエ。
流石にこの時ばかりは愛人カタリーナを同席させる訳にはいかず、エドガーの姉である皇后ソフィーが同席していた。
それと、エドガーの隣で勝ち誇ったような笑みを浮かべるイリナを噛み殺さんと睨み付けているのは、皇帝から同席するよう言われそこで初めて事の次第を知ったジェラン侯爵。
どうやらイリナは最後の最後まで父親に話すことをしなかったらしい。
ソフィー皇后付きの女官で、皇太子リュシアンの婚約者でもあるレティシアと、ジェラン侯爵と共に政の中心を担うベリル侯爵も同席を許された。
……というよりも、最近は新興勢力を味方に思わぬ力を付けてきたベリル侯爵に対して良く思わない皇帝によって、ジェラン侯爵家の此度の「成果」を見せ付ける意図だと思われる。
普通に考えれば非常に馬鹿馬鹿しい事だけれども、この皇帝、そのように未熟な考えの持ち主であったのだ。
「ええ、彼女は僕にとって七番目の妻という事になりますが。イリナ嬢であれば、きっと先に国に帰した妻達とも仲良くしてくれるでしょう」
「これからは、より一層我が帝国フォレスティエとフィジオ王国の関係は強固なものになるだろう。身の程をわきまえぬ小国ルビアなど、たとえ勢い付いて攻めてきたとしても相手にならぬわ!」
皇帝の言葉に恐らく内心は「馬鹿馬鹿しい」と思いながらも、エドガーは全くそのような気配を見せる事はない。
七番目の妻というところでレティシアは思わずイリナの方へと目を向けたが、イリナは気にする素振りも見せずにニコニコとエドガーの隣で微笑んでいる。
娘の事であるにも関わらず、何も知らされずに恥をかいたジェラン侯爵に対して思うところがあるのか、今日ばかりはとても機嫌が良いらしい。
「我が愚息リュシアンとエドガー殿、どちらに子が出来るのが早いか楽しみだ! わははは!」
このような場で下世話な事を口にする皇帝に、ソフィー皇后は呆れ返って溜息を吐く。
一方で表情ひとつ変える事なくその場に居るリュシアンは、「その時」が来るのを今か今かと待ち侘びていた。
リュシアンの傍には顔を覆い隠した従者が一人と、騎士団長ディーンもいる。ディーンはリュシアンと共に行動する事も多い為、そこに関して皇帝は何も違和感を感じていない様子であった。
空寒い空気の中、入り口の扉が大きく音を立てて乱暴に開き、血相を変えて何やら喚きながらカタリーナが飛び込んでくる。
外の衛兵達も何とかして引き留めようとしたようで、カタリーナと共に数名が謁見の間へとなだれ込んできた。
燃え盛るようなカタリーナの赤髪はところどころが乱れ、吊り上がった瞳は爛々としている。
「陛下! ニコラが、ニコラが……!」
謁見の間には高貴な人物が多く集まっているというのに、ただの愛人でしかないカタリーナが、声の限りに悲痛な叫びを上げる。
これには流石の皇帝も眉を顰め、厳しい眼差しをカタリーナへと向けた。
流石に義弟であるエドガーの目の前で、愛人が立場を弁えず出しゃばる姿を黙認するわけにはいかなかったようだ。
「カタリーナ、其方はここに来てはならぬ! 宮へ戻れ!」
「ですが、陛下! ニコラが……! ニコラが井戸に身を投げたと! 自ら命を捨て、死んでしまったのですよ!」
「何⁉︎ それはまことか⁉︎」
皇帝はカタリーナの口からもたらされた第二皇子の死に驚き、周囲の目も忘れて思わず立ち上がる。
リュシアンはこれを合図にディーンと頷き合う。
ディーンは素早く謁見の間の扉へ近付くと、衛兵達を外に追い出し、しっかりと扉に閂をかける。
ディーンのその動きにジェラン侯爵は気付いたが、特に違和感は感じなかったようだ。突然の皇族の死を未だ他の者達に広める訳にはいかないからと、そう思ったのかも知れない。
「本当よ、ムサ! あぁ、どうしてあの子が⁉︎」
嘆くカタリーナはいつの間にか謁見の間の真ん中へ躍り出て、その場に泣き崩れた。
「ムサ! 貴方の子が死んだのよ! あの可愛いニコラが!」
そして人目を憚る事なく皇帝の方へと手を伸ばし、ポロポロと涙を零して訴えかける。
「おぉ、カタリーナ……! 可哀想に……!」
とうとうカタリーナのそばへと駆け寄った皇帝を、皇后はひどく悲しげな瞳で見つめていた。
しかしそれも一瞬の事で、すぐに気丈に背筋を伸ばして顔を上げた。
そんな皇后の姿を近くで窺っていたレティシアは、いくら気丈な皇后といえども、公衆の面前で夫と愛人がひしと抱き合い涙を流す光景に心を痛めているはずだと唇を噛み締める。
「ムサ、貴方は何をしているの? 皆の前でそのような姿を晒して……。皇帝として、恥ずかしいとは思わないのですか?」
スッと立ち上がった皇后は、顎を上げ、冷たい瞳で床に這いつくばって涙を流す皇帝と愛人を見下ろした。
冷ややかな皇后の態度に、床に座り込むカタリーナを抱いたままの皇帝は語気を強めた。
「皇后、お前は何とも思わないのか⁉︎ 我の子が死んだと聞いて、その悲しみの気持ちが分からないのか⁉︎」
「あら、私だって何度も殺されかけたのですよ。そこに這いつくばる愛人と、貴方の忠臣であるジェラン侯爵に」
「……まさか! そんな事があるはずないだろう!」
皇帝が顔を真っ赤にして声を上げた時、奥の部屋からディーンの部下である精鋭の騎士達が十人ほど一気に雪崩れ込んだ。
「無礼者! 私はギヨーム・ド・ジェラン侯爵だぞ! 触るな! ぐ……!」
自らが断罪されるという突然の展開に驚き、罵り喚くジェラン侯爵は、あっという間に屈強な騎士達の手によってきつく拘束された。
「ムサ、優しかったあの頃の気持ちを、きっといつか思い出してくれるだろうと、私はこれまで良き皇后であろうとして来ましたが……残念だわ」
「何を!」
ハッとして辺りを見渡す皇帝の目に、冷たい視線が次々と突き刺さる。
「な……! お前達まで……! 我は知らぬ! 知らぬぞ!」
そう言いつつもカタリーナのそばから離れる事なくただ周囲に喚き散らす皇帝の姿は、レティシアが過去に感じていた恐ろしさや畏怖など微塵も感じさせない矮小な存在であった。
「だからって、アンタが殺したのね⁉︎ 私のニコラを! 自分を殺されそうになったからって! 何て恐ろしい女なの!」
赤い髪を振り乱し、カタリーナは金切り声を響かせた。
「ねぇムサ、今度こそ皇后を殺して! ニコラの仇を取ってちょうだい!」
たかが皇帝の愛人が、皇后を貶める言葉を吐き続けるのを諌める事も無く、皇帝は相当に狼狽えていた。
そんな皇帝に対し、皇后はもうそこら辺に落ちている道端の石ころでも見るような、いや、それよりももっと強い嫌悪の籠った視線を向ける。
「あとの事はリュシアンに任せるわ。新しい皇帝は、私の可愛い息子、リュシアンだもの」
温度を伴わないヒヤリとした声色でそう言って、皇后は夫と愛人に背を向けた。
「新しい……皇帝……だと?」
そのまま騎士達が控えていた奥の部屋へと向かう皇后の頬には、ツウと流れる一筋の涙が光る。
気付いたのは、レティシアとリュシアンだけ。
「ソフィー様……」
レティシアは胸が締め付けられるような思いがした。皇后はきっと、皇帝のことを確かに愛していたのだろう。
愛した相手に命を奪われんとする辛さ、深い悲しみを、レティシアは知っていたから。
皇后はレティシアの横を通り過ぎる時、「貴女は私の代わりにリュシアンのそばで、しっかりとこの帝国の大きな転機を見届けてちょうだい」と告げ、それはそれは美しく微笑んだ。
凛として去り行く皇后の後ろ姿に、レティシアはぎゅっと拳を握りしめ、唇を噛んだ。
そうでもしなければ、自分まで泣いてしまいそうだったから。
「皇后! 待ちなさいよ! やっぱりアンタが私のニコラを殺したんでしょう!」
「カタリーナ、やめろ!」
「ムサ! 貴方、あの女を庇うの⁉︎」
「この、馬鹿者! 口を慎め! くそ……っ」
皇帝は皇后の言葉によって、これから自分の身に起こる事をやっと理解したのか、顔を青褪めさせ、唇を震わせている。
まだ何も分かっていない様子のカタリーナを珍しく叱咤しながらも、これからどうやって言い逃れをしようかと必死になって思案していた。
「何ですって⁉︎ ムサ、私の事を馬鹿者だと言ったの⁉︎」
「黙れ! お前など、お前のせいで……! 我は……我は……!」
「何よ!」
その時、皇后が去って行った方向からは隣室の扉を完全に閉ざした音が大きく響いた。
待っていたように、リュシアンが冷ややかな声を上げる。
「皇后の殺害を企てた、愚かな罪人を捕えよ」
騎士達は皇帝とカタリーナを引き剥がし、それぞれを縄で拘束する。そしてその場にひれ伏すよう、遠慮なく床に押し付けた。
「お前達……! 我は皇帝だぞ! 無礼者め!」
「やめなさい! きゃっ、痛い! 触らないで!」
人一人分距離を置き、冷たい床にひれ伏された皇帝とあまりの騒がしさに猿轡を嵌められたカタリーナに、リュシアンはなおも言葉を続ける。
「度重なる皇后殺害の企てに関し、イリナ・ド・ジェランからの証言も、確かな証拠もある。企てに加担した薬師からの証言も得ており、あとは関わった者達の処刑を待つだけだ」
「我は知らぬ! 全てジェラン侯爵とカタリーナが勝手にした事! 我は知らぬぞ! のぅ、リュシアン、聡明なお前ならば分かるだろう? 我は欲深く、狡猾な二人に唆されただけだ!」
「情けない……この期に及んで、まだそのような事を言うのか」
「待て、リュシアン! そうだ、お前に皇位を譲る! 今すぐ譲ろう! 我は今後、皇后と静かに余生を過ごす故、あとはお前の好きにすれば良い!」
皇帝の言葉に、猿轡をしたままのカタリーナが「うー!」とか「んー!」とかいうくぐもった声で激しく抗議する。
己の命可愛さに、皇帝は寵姫を手放す事にしたらしい。
「お待ちください! リュシアン殿下!」
「……ジェラン侯爵、何か言いたい事でも?」
狡猾な男だ。じっと静かにしていたと思ったら、生き残る為にどうするべきかを考えていたのだろう。
リュシアンはあくまで冷静な態度を崩す事なく、ジェラン侯爵に発言の機会を与えた。
「確かにそのような企てをした事は認めます! しかし、もし私が罰せられるような事があれば、大国であるフィジオ王国のエドガー王子殿下の妻となる我が娘、イリナにとっても不名誉となるでしょう。そもそも、イリナだって皇后陛下の殺害未遂に深く関与しております!」
「ほう、イリナ嬢は自身の関与をきっぱりと否定していたが?」
「まさか! 衛兵の協力を得たのも、イリナが奴を女の武器で誘惑したからです。それに、あの薬師の男だって……!」
言い逃れすることは出来ないと悟ったのか、今度はエドガーの妻となるイリナの関与をほのめかし、何とかして処罰から逃れようとするジェラン侯爵に、リュシアンは淡々と応じる。
「……とジェラン侯爵は言っているが? どうなんだ? イリナ嬢」
「さぁ、私には何の事だか。お父様の言うような役割は、カタリーナ様が担っておりました。私は、カタリーナ様とお父様の恐ろしい計画を知りつつも、止める術が無かった事が唯一の罪なのです」
イリナはハンカチを取り出して、目元を拭く仕草を見せた。
それを見てジェラン侯爵はひどく逆上し、ディーンに拘束された手足を乱暴に動かす。
「イリナ! お前という奴は! 私を裏切るのか⁉︎ う、ぐあ……っ!」
床に跪いた姿勢のままでいくら縛られた手足を無理に動かそうとも、仕舞いには無様に前のめりとなって転倒し、しこたま胸を打ちつけてしまう。
それでも床にうつ伏せのまま唾を飛ばし、娘を貶す事をやめない。
「許さんぞ! イリナ! 父に罪を着せて平然としているお前など、とても大国の王子妃などには……ぐ、あァ……ッ!」
ジェラン侯爵は最後まで言葉を紡ぐ事は出来なかった。
何故ならば、とある人物によって背中から胸にかけ、鋭い剣で一息に貫かれたからだ。
「ぐ……な、何故……か……はっ……!」
共犯であったはずの忠臣が目の前で刺殺されるという事態に、皇帝は「ぎゃっ」と一声上げた後に恐れ慄き、体を縮こめ歯をカチカチと鳴らした。
「どっちにしても、お前が姉上を殺そうとした事には変わりないだろ。それに、イリナ嬢は僕の妃になる。これ以上とやかく言われるのは都合が悪いなぁ。だから、さっきのは聞かなかった事にするよ」
そう言って、小さく痙攣を繰り返すジェラン侯爵の背を踏みつけ、串刺しにした血濡れの剣をより深く、抉るように動かしたのはエドガーだった。
「叔父上、フィジオ王国の王子ともあろうお方が、帝国の貴族を自ら処刑するなどという事をされるのは困ります。その役割は、俺がすべき事だ」
レティシアの隣から、リュシアンの険しい声が飛んだ。
しかし当のエドガーは、甥の言葉を全く意に介さない風に肩をすくめただけだった。
相変わらず飄々とした叔父に向け、リュシアンは鋭い眼差しを送り、非難の態度を崩していない。
「あぁ、リュシアン、ごめんごめん。どっちにしろ生きてこの場からは出すつもりは無かった訳だから、口外する者も居ないし、僕でもいいかなって思ったんだ」
ズプリと鈍い音がして、エドガーが剣を引き抜いた。鉄臭い嫌な匂いが辺りに立ち込め、じわじわと暗赤色の血溜まりが床へ広がっていく。
「僕の大切な姉上を殺そうとするなんて、万死に値する罪だよ」
離れたところからではあったが、ジェラン侯爵が呆気なく事切れるのを目撃し、レティシアは叫ぶ事も忘れてヒュッと息を呑み込んだ。
五感から入り込んでくる死の気配。ショックで倒れてしまいそうになるのを、隣のリュシアンが素早く支えてくれた事で、何とか踏みとどまった。
「まぁ、エドガー様ったら……」
別方向から聞こえた声に、レティシアが目を向ける。
「名誉を傷付けられた私のために……」
未来の夫となるエドガーによって実父を目の前で殺されたというのに、うっとりとした表情と声でそう口にするイリナを恐ろしく思ったレティシアは、自身の肩を片手で抱きつつ唇をキュッと結ぶ。
リュシアンの傍、安全な位置に居るはずのレティシアでさえこの惨劇に足が震えたというのに、父を刺殺されたイリナの意外な言動には、到底理解が追いつかないのだろう。
同時に、レティシアはエドガーの考えも分からず困惑する。
あのままジェラン侯爵が娘イリナの事を告発すれば、確かにイリナがソフィー皇后の祖国であるフィジオ王国の王子妃となるのは難しいだろうが、元々イリナの証言を得る為に婚姻を了承したエドガーにとってみれば、その方が良かったのではないのか、と。
「勝手な事をしてごめんね、リュシアン。あとはこのボンクラ皇帝の後始末が済めば、君がこの帝国フォレスティエの新しい皇帝だ。頼んだよ」
そう言うと、エドガーは頬を赤く染めたイリナを連れ、扉へと向かう。騎士達が閂を外し、重たい扉が開かれた。
どうやら部屋の外にはすでに、味方の騎士達ばかりが配置されているらしい。
室内には咽せ返るような血の匂いと、ジェラン侯爵の骸、そして皇帝とカタリーナという二人の罪人が残された。
リュシアンはショックを受けた様子のレティシアを慮り、騎士達にジェラン侯爵の遺体を運び出すよう指示をする。
騎士達は、手際良くジェラン侯爵の遺体を部屋の外へと運び出した。
「いや、しかし……皇后を大切に思っていた我をもいつの間にやら籠絡し、二人で皇后殺害を謀ったカタリーナの処刑は許そう! それに、皇后の故郷であるフィジオ王国の手前、最も残酷な処刑方法を施す事にすれば良い! どうだ、リュシアン? これで良いか?」
この期に及んで愛人とかつて忠臣だった男に罪をなすりつけ、自身は何とかして助かろうとする皇帝は、勇んだ声とは裏腹に顔中が涙と鼻水で汚れていた。
その隣では、猿轡越しに呪詛の言葉でも吐き出しているではないかと思うほど恐ろしい形相のカタリーナが、リュシアンと皇帝を交互に睨みつけている。
「……悪女カタリーナは絞首刑に処す」
淡々としたリュシアンの言葉に、カタリーナは大きく目を見開き、そして一際暴れ始める。
「お前は自分の欲の為に何人もの命を奪った。絞首刑でも生ぬるいが、それはあくまで終わり方の話。それまではしばらく何も無い地下牢で数十年の時を過ごし、醜く年老いていくがいい」
騎士達に命じ、カタリーナは暗く不潔な地下牢へと投獄された。
屈強な罪人でさえも一ヶ月もたないという恐ろしい地下牢での生活が、絞首刑が執行されるまでのあと数十年も続くのだ。
これまで幾人もの罪人を送ってきた皇帝はその場所の恐ろしさを一番よく分かっていたから、リュシアンの本気と怒りがどれほどなのかを思い知った。
「そしてムサ・デル・フォレスティエ、皇位剥奪の上、本来ならば皇帝という地位を鑑みて、ジェラン侯爵ともども即刻斬首刑に処するところだったが。……気が変わった」
「……へ? 斬首……? 我に関しては、蟄居とか……そのような処罰では駄目なのか?」
未だ楽観的な皇帝の言葉に、ずっと静かに成り行きを見守っていたベリル侯爵の方から、とうとう呆れた溜息が漏れた。
「母上は、せいぜい斬首刑が妥当だとおっしゃった。皇帝という地位と、長年の付き合いから、お前のくだらない矜持を最後くらいは守ってやろうという慈悲の心からだ」
この帝国では、貴族の処刑は苦しみの少ない斬首刑というのが慣例で、苦しみながら死ぬ事になる絞首刑は、平民の罪人に対するものであった。
「しかし、やはりお前に矜持などという言葉など似つかわしくはない。どこまでも母上を愚弄し、自分の保身の為に平気で矜持を捨てられるような皇帝など、絞首刑でさえ生ぬるい」
「な……! なんという事を! リュシアン! お前、父に向かって何を……っ!」
「父……? お前は何度殺しても殺したりぬ、ただの罪人だ。一度目のように俺の手で楽に殺してやりはしない。二度目は余程苦しんで死ぬがいい」
レティシアはリュシアンの言葉にハッとする。
リュシアンは過去で皇帝を袈裟斬りにし、剣で貫いた。
レティシアが死んだ、あの日の事である。
あの時の事を言っているのだと、それを理解出来るのはこの場でレティシアのみ。
「ムサ・デル・フォレスティエは北の果てにある炭鉱で一年間の強制労働につけた後、絞首刑に処する。そこで民の生の声をたっぷりと聞くがいい」
北の果てにある炭鉱とは、様々な罪を犯した平民の罪人達が送られる強制労働の地。
そのような場所に送られればすぐに身元が知られ、これまで貴族優位で平民を顧みない悪政を強いてきた元皇帝が無事に過ごせるとは思えない。
一年間とはいえ、地獄のような毎日になるだろう。
無事一年を生き延びたとしても、平民と同じ絞首刑に処されるとなれば、それは高貴な血筋の矜持を深く傷つけられる最期だということだ。
もちろん斬首刑と違ってかなりの苦痛も伴う。
「リュシアン! 許さんぞ! そのような事……! いやだ! 離せ! 我は皇帝ムサ・デル・フォレスティエぞ! 死にたく無い……! 助けてくれぇぇ!」
喚き、暴れ、皇帝としての威厳がすっかり無くなってしまった元皇帝ムサ・デル・フォレスティエは、ディーンをはじめとした騎士達に連れられて部屋を後にした。




