74. 一時の平和、イリナ再び
大国であるフィジオ王国第八王子エドガーが帝国フォレスティエに滞在中とあらば、流石に隣国もその間は下手な手出しが出来ない。
高まっていた両国間の緊張感も、近頃は嘘のように落ち着きを見せていた。あれほど多く聞かれた国境付近でのきな臭い噂もなくなり、レティシアをはじめ多くの帝国の民はとりあえずの平和が守られる事に、ほっと胸を撫で下ろしたのであった。
デビュタントを迎えたレティシアはその後至る所で茶会や夜会に誘われるようになり、皇后付き女官として出仕する合間でそれらに参加する事を心掛けていた。
貴婦人達の集う茶会や、多くの貴族が集まる夜会でこそ得られる情報もあり、貴族同士の交流はこの帝国をより良い方向へ導く上で必要なことである。
そういった時のエスコートのほとんどはリュシアンが務めたが、時にベリル侯爵が務めることもあった。
以前の人生では考えられなかったそのような出来事に、レティシアはどこかくすぐったい柔らかくて幸せな気分に浸る。
「どうしたんだ? 先程から頬が緩んでいるぞ」
「あ……ごめんなさい、お父様。何だか嬉しくて」
今宵はとある貴族の夜会に親子で招待されていたベリル侯爵とレティシアは、他の貴族達との挨拶の合間に喉を潤そうとグラスを手に取っていたところである。
近頃は随分と表情が柔和になった侯爵が、怪訝そうな表情で娘の顔を覗き込む。
「嬉しい? あれほど多くの会話をして踊っていれば、疲れたと思うがな」
今宵のレティシアは深い青のドレスに金糸で刺繍がなされた美しいドレスを着こなしていた。
成長するごとにどんどん美しくなっていくレティシアを、いくら皇太子の婚約者とはいえ様々な貴族やその令息が放っておかない。
次々と声を掛け、ダンスに誘って来るので、かなり疲れているはずであると侯爵は考えたのだ。
「ええ、それは確かに。ですが、お父様とこのように過ごせる事が幸せなのです」
「私と? ……そうか?」
「はい。ですから、疲れなど感じないのです」
「しかし、お前は時折無理をしすぎるきらいがある。一人で頑張ることをせず、私や殿下を頼りなさい」
娘の事を心から心配している様子のベリル侯爵が、思いやりの言葉を口にしているなどという事が、レティシアにとって当たり前になりつつある日常は、やはりかけがえのない幸せを強く感じられた。
「ありがとうございます。お父様」
父親は、何故かふいに涙ぐむ娘に驚いた顔を見せたが、すぐに懐からハンカチを取り出して頬の涙を拭ってやる。
「あーら、ごきげんよう。こんなところで、誰かに虐められて泣いているの? やはりお子ちゃまにはまだこのような大人の社交場は難しかったのかしら?」
最近特に聞き覚えのある声の持ち主は、帝国で一二を争う名家であるベリル侯爵を前にしても、不遜な態度を崩さない。
「やぁ、これはこれはフォレスティエ侯爵令嬢じゃないか。生憎、レティシアはあまりにも数多くの紳士達から声を掛けられ、ダンスを踊ったせいで疲れたようだ。それで……君のパートナーはどこかな? 適齢期も過ぎても未だ婚約者が決まっていない君のエスコート役は、今宵もジェラン侯爵か?」
娘を守るようにサッと前に立った父親の、皮肉たっぷりな言動にハラハラしながらも、レティシアはじっと成り行きを見守っていた。
何度も社交の場に参加するうちに分かった事であるが、ジェラン侯爵派の絡んでくる貴族達は一定数いる。このような時には必ず父親に任せるよう言われていたのだ。
「……っ! いいえっ! 今宵は特別なお方が私のエスコートを買って出てくれましたのよ! それにっ、その方は近々私の婚約者となるお方ですわ!」
「ほぅ。それで、そのお相手とは……どちらにいるのかな?」
「あの方に一言ご挨拶しようとする貴族達が離さないものだから、今は少し離れているだけです!」
「なるほど、それはそれは」
目の前の二人が醸し出すピリピリとしたひりつく雰囲気が息苦しく、思わずレティシアは視線を動かした。ふと、目立つ人だかりが視界に入る。




