73. デビュタントの夜、二人初めての口付け
丸い月の明かり、それと所々に設置されたランプや松明の温かみある光の中、リュシアンとレティシアはヒソップの咲いている辺りまで並んで歩いた。
会場を出た後から、いつの間にか口数が少なくなっていた二人の沈黙を破ったのはリュシアンであった。
「以前、今宵と同じデビュタントの日に……お前にはひどい事を言ってすまなかった。もう一度、きちんと謝っておきたかったんだ」
あの日と同じ、風に揺れるヒソップはサラサラと音を立てている。
レティシアはリュシアンからの思いがけない言葉に思わず足を止めた。真剣な眼差しのリュシアンは、レティシアの瞳をしっかりと捉えた。
「私、過去にあった諍い事に関しては、もう気にしない事にしたのです。リュシアン様の事だけでなく、両親の事であっても、今はもう、過去とは違うのですから。私も、過去とは違った生き方を心掛けております。既に色々な出来事も人も変化しておりますもの。ですからリュシアン様も、もう謝るのはおやめくださいませ」
ヒソップと同じ、美しく輝くような紫色の目を細め、レティシアはフワリと優しく笑った。少しだけ、小首を傾げて笑うのは彼女の昔からの癖であり、リュシアンはレティシアのその仕草が好きだった。
自然と微笑みを返すリュシアンに、レティシアは胸が高鳴る。と同時に、大きな幸福感を感じて何とも言えない切ない胸の締め付けを感じた。
「ありがとう。それで実は……レティシアに頼みがあるんだ」
「頼みですか? 珍しいですね。リュシアン様から私にお願い事だなんて」
「実は……」
リュシアンは懐から小さな何かを取り出した。今宵の為に着飾った豪華な服とは不似合いな、年季の入ったそれを取り出した時、何とも気まずそうな苦い顔をしたのをレティシアは不思議に思う。
リュシアンからレティシアにそっと手渡されたそれが何かを理解した瞬間、レティシアの目には一気に涙が膜を張り、「まさか……」と、息が詰まったような声を上げた。
「過去で……レティシアに出征の時にもらった守り袋が……こうして常に持っているうちに擦り切れてしまった」
「これを……ずっと……お持ちだったのですか?」
「ああ、おかしいと思うだろうが……過去で距離を置いていた時も、未熟な俺がお前に辛く当たってしまった時さえ、どうしてもこれだけは捨てる事が出来なかった」
レティシアは過去でのリュシアンを恨んだりなどしていない。
けれど、理解し合えずに辛いという気持ちは確かにあった。しかしそんな時でもリュシアンは心に葛藤を抱き、この守り袋を捨てずに持っていてくれたのだと思えば、感情の高ぶりを抑えることなど出来なかった。
「私が作った物を……持っていてくださって、嬉しいです……とても」
レティシアは堪えきれずに流れ落ちる涙をハンカチで押さえたかったが、両手で大切に持った守り袋を離すことが出来ずにいた。
「すまないが、直してくれないか? これからもずっと、持っていたいんだ」
嗚咽混じりに、心からの喜びを伝える言葉を紡いだレティシアの頬に流れる涙を、リュシアンは自分の持つハンカチでそっと拭った。まるで壊れ物を扱うようなその仕草に、レティシアは胸が引き絞られる思いがする。
「はい。勿論です」
今宵デビュタントを迎えたレティシア。潤んだ紫色の瞳には、愛するリュシアンが映っている。
「レティシア……」
その時、煌めく銀糸のようなレティシアの前髪をさらりと揺らすように風が吹き、ヒソップがさわさわと動く気配がした。二人にとって慣れ親しんだ爽やかな香りが、辺りを包み込んでいる。
「はい、リュシアン様」
リュシアンに名を呼ばれ、いつものように優しく返事をするレティシア。幼い頃に比べて、当然の事ながら少しばかり大人びた声になった二人だった。
その後、リュシアンは何故かなかなか口を開こうとしない。涙に濡れた後の頬に風が吹いて、ひやりと冷たく感じたレティシアだったが、いつの間にか距離を詰めたリュシアンに抱きすくめられてしまう。
「寒いのか?」
「頬が……冷たくて。でも、今は……温かいです」
柔らかな光を二人に浴びせていた月に雲が掛かり、広大な庭園は暗闇の方が優勢になる。
それを合図に今宵のデビュタントによって大人の仲間入りをしたレティシアとリュシアンは、ヒソップの香りと色に包まれて、初めての口付けを交わしたのであった。




