69. 不穏な動き、マリアンとジェラン侯爵父娘
アレル子爵家から侯爵夫人とパトリックが戻ってからというもの、ベリル侯爵家の雰囲気は以前と全く違ったものになり、事情を知らない多くの使用人達は戸惑いを隠せないでいた。
しかし人の良い使用人達が揃っていた事もあり、新しい家族の形を喜ぶのであった。
ピリピリと緊張感を孕み、ひどく息苦しかった屋敷内は明るく穏やかな空気感となった。
パトリックは父親と長い時間語り合い、今後は宮殿の医務室に通う事を決めた。将来の薬師見習いとしてアヌビスの元で学ぶのだ。
とはいっても、ファブリスは既に優秀な魔術師といっても良いほどの腕であったから、忙しいアヌビスの仕事を手伝う事が主な業務となるだろうが。
それにはアヌビスも大変嬉しそうで、今後はパトリックと共存するファブリスともゆっくり話す事が出来るだろう。アヌビスは師として、危うい所のあるファブリスを導く役割もある。
その代わりレティシアが医務室に通う時間は減り、皇后付き女官として過ごす割合が増えたのである。
風が少し強いこの日も、レティシアはソフィー皇后の使いから戻って来たところであった。皇后宮の庭園に咲き誇る花々を目で楽しみながらも、レティシアは皇后の居室へと早足で進んで行く。
「え……?」
レティシアが目にしたのは、カタリーナの侍女となったはずのイリナとその父親ジェラン侯爵であった。
ジェラン侯爵を見ると、レティシアはスウッと体が冷えていくような心地がし、手足が小刻みに震えてくる。
二人は垣根の影で他の誰かと会話しているようだった。その表情は険しく、嫌な予感がしたレティシアは近くの植木の後ろに隠れて様子を窺う事にする。
そもそもここは皇后宮の敷地であり、いくら官僚のジェラン侯爵といえども簡単には出入りを許されている場所では無い。
カタリーナ付きのイリナに至っては、ソフィー皇后の招きでも無い限りは足を踏み入れられるはずもないのだが。
二人は怒りを露わにした様子で誰かと会話をし、その相手はちょうどレティシアの居る場所からは確認出来ないが、本来ここに居られるはずのない人物二人と人目を憚って会っている時点で罰せられてもおかしくは無い。
どのくらいそうしていただろうか。ジェラン侯爵とイリナは不機嫌な様子のままでその場を去った。彼らは皇后宮の守りの盲点をよく理解しているようで、慣れた様子は侵入したのが一度や二度では無い事を物語っている。
「あの方は……マリアン様」
ジェラン侯爵達が去った後に分厚い垣根の向こうから姿を見せたのは、皇后宮の中でも明るく仕事が出来ると評判の侍女の一人で、まだ二十代と若いながらもソフィー皇后からの信頼が厚い人物であった。
随分と年下の女官であるレティシアにもマリアンは常に笑顔で優しく接し、彼女自身の本質は決して悪人では無いと思われた。
「どうしてマリアン様がジェラン侯爵らと……」
突然の展開にレティシアは混乱しつつも、暗い表情で黙々と庭園を進むマリアンに気付かれないよう、慎重に後をつけた。
マリアンが皇后宮の建物内へ入ると、レティシアは皇后の居室へ急ぐ。
まだ何も分からない状況でソフィー皇后に自身が見たものを話すべきかどうか、マリアンの後を追いつつ考えていたが、何かあってからでは遅い。
後悔しない為にも、レティシアはソフィー皇后に今後の判断を委ねる事にしたのだった。
「マリアンが……」
「はい。ジェラン侯爵とイリナ嬢が、許可なく皇后宮の敷地に入れる事自体も大問題です。もしかすると他にも彼らの協力者が居るかも知れません」
じっと黙ってレティシアの言葉に耳を傾けていた皇后は、こめかみに手をやり頭が痛いといった仕草を見せる。
「きっと心配するからレティシアには言いたく無かったのだけれど、近頃食事やお茶に毒が混入している事があるの。幸いな事にアヌビスから解毒剤を処方されている事もあって、たとえ口に入っても大事には至っていないのだけれど」
「そんな……!」
「私は元々多くの毒に耐性があるから。母国の方針で、幼い頃からそのように育てられてきたお陰ね。けれど、ジェラン侯爵が関わっていたとは思わなかったわ。てっきりあちらの手の者かと」
皇后の言う「あちら」というのは皇帝の愛人カタリーナの事である。
ニコラは皇帝の子と認知されたものの、自身はいつまで経っても愛人、寵姫という立場のままで不平不満が募っている事は周知の事実であった。
帝国の長い歴史に於いても、愛人や皇妃が皇后を手にかけ、その地位を奪おうとする出来事は少なく無かった。
「話してくれてありがとう、レティシア。協力者に関してはこちらで調べてみるわ。マリアンにも、貴女はこれまで通り接してちょうだいね」
「はい。でも、ソフィー様……」
「大丈夫、心配いらないわ」
不安げなレティシアを、皇后は優しく抱きしめた。
帝国フォレスティエに於ける皇后付きの女官というのは、皇后が第二の母となり女官達を立派な人材に育て上げ、結果的にそういった人材が帝国に貢献するという仕組みである。
ある者は数少ない女性官僚として手腕を発揮し、ある者は皇女に匹敵する教育を受け、立派なレディーとなって他国の権力者へ嫁ぎ帝国との友好関係を築く。
またある者は女官としての日々を妃教育代わりとして、将来の皇后となるのだった。
「さぁ、気分を切り替えていつもの業務に戻って。ほら、心配要らないわ」
レティシアの頬を優しく撫でた皇后は、ポンポンとその両肩を叩いて業務に戻るよう促した。
居室からレティシアが出て行った事を扉の音で確認した皇后は、そっと目を閉じるとフウッと大きく息を吐き出した。
やがてバッと大きく目を見開いた時、リュシアンと同じ青い瞳には強い光が宿っていた。
「リュシアンとレティシアの時代には、必ず帝国フォレスティエは民の為の国になる」
遠く異国から来た皇后はこの帝国に嫁いだ時から分かっていた。自分の夫は名君の器では無いのだと。
だからこそひたすらに皇后である自分が、民の為、帝国の為に努力してきた結果、なおさらに劣等感を強めた皇帝を追い詰める事になってしまった。
「だからそれまでに、この国に蔓延る膿を出し切らなければならない」
ソフィー皇后は広々としたバルコニーに出る。頬を撫でる風は少し冷たく、彼女の持つ美しいプラチナブロンドの前髪が乱れた。
美しい庭園、堅牢な城壁、その向こう側に広がる帝都の街並みを、皇后はリュシアンと同じ青い瞳に焼き付けた。




