59. ファブリス・ド・アレル、アヌビスの過去
レティシアが持ち帰ったファブリスに関する本は、相当の年月が経っている事もあり、修復しながら読み進めていかねばならなかった。
女官の仕事とアヌビスの手伝いの合間にレティシアは少しずつ本を読み進め、魔術師ファブリス・ド・アレルという人物について詳細に知っていく。
そしてファブリスという数百年前に生きていた人物と、弟パトリックの存在が段々と繋がっていく事に、レティシアはえも言われぬ不安を抱くことになった。
「それじゃあ、そのファブリス・ド・アレルという魔術師はベリル侯爵夫人の生家、アレル子爵家の血筋だと」
「ええ、そうです。ニコラ殿下の口からアレルという家名を聞いた時、とても驚きました。でもその時はまだ半信半疑で……。けれど、アレル家の家系図を調べてみたら、約三百年前にファブリスという名の人物が存在したのです」
医務室の奥の部屋、薬草の香りが強く感じられるこの場所で、レティシアはリュシアンとアヌビスを前にして、ファブリスについて語った。
興味深い事実に前のめりになるリュシアンとは対照的に、アヌビスは未だのんびりとハーブティーを啜っている。
「パトリックの髪と瞳の色は先祖返りという事か。それも、かなり過去の先祖という事になるが」
「そうです。でも、そんなに昔の先祖の血が、突然蘇るだなんて不思議ですよね。アヌビス様、お聞きしたいのはその事なのです。そのような事、本当にあり得るのでしょうか?」
レティシアとリュシアンの視線が、相変わらずゆったりとハーブティーを楽しむアヌビスへと注がれた。
「あり得ない事は無いでしょうな。実際、レティシアの弟君は黒髪で黒い瞳を持っておるというのだとしたら、珍しい事ではあるがまさに先祖返りというべきでしょう」
目を閉じて、ハーブティーの香りを存分に楽しみながら、アヌビスはそう口にする。普段よりも更にゆったりとしたその様子は、レティシアの話を真面目に聞いているのかどうか疑わしいほどである。
「アヌビス、お前……何か隠し事をしているだろう」
「は……?」
突然、リュシアンが鋭い口調でアヌビスに問うた。
それにはアヌビス本人だけでなく、レティシアも驚いて、リュシアンの方を見る。
「まさか! そんな! 滅相もない! 何故ワシがそのような!」
大袈裟なほどの慌てぶりは明らかに動揺を隠せずにいて、レティシアも思わずごくりと唾を飲み込むと、リュシアンとアヌビスのやり取りを見守る。
「アヌビスが嘘を吐いたり、何かを誤魔化したりする時は、殊更動きが緩慢になる。これは昔からの癖だ。そうだろう?」
「ま、ま、ま、まさか、正直者で有名なワシに限ってそんなことは……」
「もういいから、諦めろ。何を隠しているのか、全て話せ」
リュシアンは確信を持ってアヌビスに詰め寄った。一方、レティシアは懇願するような視線をアヌビスへと送る。
「アヌビス様、ファブリス・ド・アレルについて何か知っている事があるなら、教えてくださいませんか? 私、長年続く両親の不仲を何とかしたいのです」
ここ二年ほど、ベリル侯爵夫妻の軋轢は一層ひどくなっていた。夫人は猫可愛がりするようにパトリックを屋敷の中から出さぬよう大切にし、七歳を過ぎれば他の令息のように剣術を習えという考えの侯爵との諍いが絶えなかったのである。
レティシアでさえほとんど言葉を交わす事が無いほど、パトリックは自室で過ごす時間が多い。
「アヌビス」
「んぐぐぐ……」
「アヌビス様」
「うううう……」
しばらく唸っていたアヌビスも、すがるような目でレティシアから見つめられては堪らんと、とうとう心を決めた様子で大きく息を吐いた。
「……ファブリス・ド・アレルは、ありし日のワシの弟子じゃった男でのぅ」
突然の思わぬ告白に、レティシアだけで無くリュシアンまでもがハッとする。
しかしその驚きようはリュシアンよりも明らかにレティシアの方が大きく、動揺のあまり思わずドレスを握りしめて立ち上がった。
「弟子って……でも……ファブリス・ド・アレルは三百年も前に生きていた人物ですよ?」
「まぁ、簡単に言うとワシは長生きの家系なんじゃ」
「そんな……! アヌビス様は一体……」
立ち上がったままのレティシアは、そのままリュシアンの方を見る。リュシアンはアヌビスの言葉に多少の驚きは見せたものの、アヌビスの年齢に関してはあまり驚いていない様子である。
「リュシアン様……」
「レティシア、アヌビスはただの人間では無い。説明が難しいのだが、少なくともこの帝国の数々の皇帝達を赤ん坊の頃から見てきたくらいには長命なんだ」
「リュシアン様はご存知だったのですね」
「まぁ、俺は幼い頃から聞かされていたからな。初めて聞いて驚くのも無理はない。アヌビス、ファブリス・ド・アレルについて知っている事を全て話せ」
まだ信じられない思いが強く、立ったまま呆然とするレティシアを、椅子に腰掛けるようリュシアンは優しく促した。
そしてアヌビスは、髭を触りながらありし日の事をポツリポツリと語り始めたのである。




