51. 婚約破棄、していないと告げるレティシア
レティシアが振り向いた先に見えたのは、紺色。
あっという間に口元を塞がれたレティシアは、素早く背後に回った人物によって拘束され、空き部屋の一つへと拉致される。
「レティシア嬢、久しいな。其方は私を避けているようだが、ここで会ったのも運命。皇太子との婚約破棄でそのまま上手く私の手元に落ちてくると思っていたのに、まさか皇后付きの女官になるなんてなぁ」
口元を手で覆ったまま、その人物はレティシアの耳元で囁きかけた。
「んん……っ!」
「なんだ、あまり抵抗しても怪我をするだけだぞ。このように細い身体でいくら抵抗しようとも、男の力には敵うまい」
そう言って男はレティシアの身体を背後から抱きすくめるようにして耳元の匂いをスンスンと嗅いだ。
「ヒソップの香水か……。魔除けの植物、とはこのような時に不似合いだな。なぁ、レティシア嬢。ベリル侯爵の奴も近頃は女官となった娘のお陰で再び影響力を取り戻しているし、あの時せっかく不正の罪を被せても意味が無かったなぁ」
「う……」
やはり父親が不正を起こした事実など無かったのだと、レティシアはこのような状況であっても一つ安心した。しかしまだ自分の身が危うい状況なのは変わらない。
「あのように小さく幼かった其方が、やはり私の見立て通り美しく成長し、多くの令息から求婚を受けていると聞いて腑が煮えくりかえる所だったぞ。皇后付きの女官となってしまえば、こうやって手荒い事もそうそう出来ないからなぁ」
「んん……っ!」
「しかしこうやって運良く誰にも見つからずに拉致する事が出来るとは。私も運が良い。誰にも見つからなければ、それは無かった事になる。其方も、嫁入り前の身体に無体を働かれた令嬢などと言われたくは無いだろう?」
ぞわっと背筋を何か冷たいものが駆け上がる心地がした。レティシアは懸命に頭を横に振って口元を抑えていた指に狙いを定め、思いっきり噛み付くと、拘束の手が緩んだ。
レティシアは素早く駆け出して相手から距離を取る。
「ぐ……っ! 何をする⁉︎」
手を押さえ痛みに呻くのはやはり、イリナと同じ紺色の髪を持つジェラン侯爵であった。
「ジェラン侯爵! 皇后付き女官の私にこのような無礼な振る舞いをして、許されるとお思いですか⁉︎」
「はっ! 其方が話さねば分からぬ事。か弱い令嬢が、そのように将来の有望な縁談を遠ざけるような事を出来ますかな?」
「私は、卑劣な手を使う貴方を許しません! お父様の事も陥れ、その上このような……!」
レティシアはすぐにでもこの場から離れたいと思っていたが、ジェラン侯爵の背後に唯一の出入り口である扉がある為に、なかなか逃げ出す機会を見つけられないでいた。
「レティシア嬢……レティシア。其方は美しい。私のような力のある者こそ、其方の相手に相応しいのだよ。乳臭いガキどもになど、其方を嫁がせるのは勿体無い。私の愛妾となりなさい。そうすれば、不自由無く暮らせる事を約束しよう」
目の前の卑劣な男にレティシア、と名を呼ばれると同時に身体中に悪寒が巡った。
「やめて! そのような言葉、聞きたく無い!」
「皇太子に婚約破棄され、可哀想な其方を愛妾として引き受けようというのだ。そして不妊の妻に代わって我が子を孕めば……其方と、そしてフィリップにも良くしてやろう。あの生真面目で不器用な父親の事を思えば、悪い条件では無いだろう?」
レティシアは目の前が真っ赤になる程怒った。こんなに怒った事は無いほどに、頭が痛くなるくらいに目の前の男が憎いと思った。
女官になってから、ジェラン侯爵の悪業は次々とレティシアの耳に入ってくる。宮殿に勤める侍女を手篭めにしたり、働く使用人に罰と称して瀕死の重傷を負わせるといった事も。
それを聞いても何も出来ない自分に腹が立っていたところであった。リュシアンと共に、いつかこのジェラン侯爵には相応の償いを与えると、温厚なレティシアがそう決意するほどに、目の前の男は人でなしである。
「私は……私には婚約者がおります! 決して貴方の愛妾になる事などあり得ない!」
大きな怒りによって涙をポロポロと零すレティシアは、ついにそう叫んだ。リュシアンと未だ婚約が継続している事は、まだ公表していない。
だが、今ここでそれを話せば流石のジェラン侯爵も怯み、隙を見せるのでは無いかと考えたのだ。
「何だと⁉︎ 婚約者? 誰だそれは!」
思わぬレティシアの言葉に動揺を見せたジェラン侯爵は、それでも扉の前から退こうとはしない。
ただその黒い瞳には、爛々と燃える嫉妬の炎が見え隠れする。レティシアは心底目の前の男に嫌悪した。
「皇太子殿下と私の婚約は、婚約破棄を教皇庁に受理されておりません! お調べになれば分かる事です!」
「まさか! 皇帝陛下が婚約破棄を宣言したのだぞ⁉︎」
「教皇庁からの通知はご覧になったのですか? 故に、私は皇太子殿下、リュシアン様の婚約者です! それなのにこのような無体、許されませんよ!」
ジェラン侯爵の顔に動揺が走った。恐らく皇帝の無能ぶりを誰よりもよく知っている侯爵は、あのように皇帝が宣言したとしても、実は教皇庁が受理していないという可能性に気づいたのだ。
「まさか……!」
その時、ギリギリと奥歯が折れるのでは無いかと思うほど噛み締めたジェラン侯爵の背後の扉が、バンと勢いよく開いた。
レティシアの視線がそちらへ向くと同時に、ジェラン侯爵も振り返る。




