46. リュシアンの考え、イリナのこと
レティシアもリュシアンと会うのは暫くぶりである。皇太子宮へは時々アヌビスの使いとして訪れる事があったが、皇太子としての公務に追われ多忙なリュシアンは不在の事も多かった。
優しい風が吹く昼下がりの庭園は、様々な花がゆらゆらと揺れており、時折甘い匂いをレティシアに届ける。リュシアンに届けるのはアヌビスからの書簡で、その中身はレティシアも知らないものであった。
時々二人は書簡でのやり取りをしているようで、レティシアがその橋渡しをする事も多い。
侍従にリュシアンへの取り次ぎを頼み、案内をされたレティシアは皇太子執務室へと足を踏み入れた。
「リュシアン様、アヌビス様からの書簡をお持ちいたしました」
「あぁ、ありがとうレティシア。少し時間があるのなら、茶の準備をさせよう。ちょうど休憩しようと思っていたところだ」
「はい、ありがとうございます」
執務机の上には膨大な量の書類の山があり、リュシアンは目頭を揉むと立ち上がった。
皇太子であるリュシアンの役割は多い。むしろ幼い頃から優秀であったリュシアンには、皇帝よりも多くの書類仕事を任されている。
皇后が選んだ優秀な侍従を、皇帝のそばよりも多く皇太子宮に仕えさせているとはいえ、やはりリュシアン自身にかかる負担も大きい。
「本日はディーン様からの伝言もございます。『イリナはもう二度と鍛錬場には来ないでしょう。遠慮なくお越しください』と」
「ほう、何かあったのか?」
レティシアは勧められたお茶の芳しい香りを嗅ぎながら、何やら面白い事があったのでは無いかと胸躍らせる様子のリュシアンに、事の次第を話して聞かせた。
「なるほどな。思った通りになって安心した。少し前から俺も考えていたんだ。過去でイリナは俺に騎士になりたいと言った。しかし本当にそうだったのかと」
「でも……イリナ嬢は確かに腕の立つ騎士でしたわ」
あの革命の時のイリナを思い出す。しかし、もうレティシアは以前のように、死に際の苦痛を思い出して辛く感じる事は無い。
ただ過去にあった出来事、そう思えるだけだった。
しかしリュシアンはサッと顔色を変え、勢いよく立ち上がる。そして驚くレティシアの元へと近付くと、その場に跪いて首を垂れた。
「すまない! レティシアには辛い事を思い出させてしまった。本当に、すまない」
悲痛な声で体を小さくさせるリュシアンの謝罪に、一瞬泣きそうな表情になったレティシアは、すぐさまその肩へと手を置いた。
「リュシアン様、平気です。私、もう過去についてはあまり気にしていません。だって今が一番大切なのですから。それに、私はあの時命を失ってこそ、幸せな今があるのだと思っているのです」
「レティシア……」
「それよりも、先ほどのお話の続きを聞かせてくださいませんか? 思った通りになった……とは?」
レティシアがリュシアンに椅子へと戻るよう促すと、リュシアンはフウッと息を吐いてからポツポツと話し始めた。
「過去で、イリナは俺と共にディーンに師事し、のちには騎士団で俺の片腕と言われるほどになった。皇后の座には興味が無いと言い、女騎士として生きていく事をジェラン侯爵に認められたいと。しかし今の俺がイリナを見れば、それが偽りだったと明白に分かる」
リュシアンはこの世界でイリナと接点を持つ事を意図的に避けた。するとリュシアンが鍛錬場に現れない事でイリナは鍛錬を怠るようになり、とても父親の反対を押し切ってまで騎士を目指しているようには見えない有様となる。
既に過去で剣の腕を磨いているリュシアンは、代わりに執務の時間を多く取ることにした。時にはイリナの居ない時間を選んでディーンと手合わせする事もあったが……。
そうすればするほどイリナの無気力さは顕著になり、ディーンから報告を受けているリュシアンは過去の自分の愚かさを思い知った。
そしてこれからはどうすべきかという事も。
「過去の俺は一体何を見ていたんだろうな。思い返せばイリナが皇后の座を狙っていた事は明白であるし、そんなイリナの偽りの言葉を信じて共に剣の腕を磨き、しまいにはその剣でレティシアを……」
「二度目だからこそ分かる事もあります。そうご自身を責めないでください。私はこうして生きているのですから」
レティシアはリュシアンに向かって微笑んで見せた。リュシアンはそんなレティシアを眩しそうに目を細め見つめると、ゆるゆると口元に笑み浮かべる。
そしてもう一度表情を引き締めた。
「俺は、同じ過ちを繰り返さない為に、まずはこの世界ではイリナに剣を持たせないようにしようと考えた。俺やレティシアの動き次第で、この世界の未来は変わる事が分かっている。イリナの状況も、変えられるのでは無いかと思った」
「なるほど。癇癪を起こし剣を捨てたイリナ嬢はディーン様の弟子となる事がなくなり、故に過去のように騎士になる可能性も無くなる……と」
「そうすれば、レティシアの身の安全も図れるだろう。これからどのように未来が変わっていくのかは分からない。しかし、少なくとも同じ事にはならないようにしなければならない」
レティシアに気付かれないよう、リュシアンはテーブルの下で強く拳を握り込んだ。




