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45. イリナ、騎士をやめる


 イリナは声の主を見るなり目を伏せ、赤い唇を少し尖らせた。レティシアは顔を真上に向けるようにして声の主人を確かめる。


「ディーン様……騒がしくしてしまい、申し訳ございません」


 二人のそばに立つのは眉をハの字にし、腰に手を当てた騎士団長ディーンであった。

 焦茶色をした凛々しい瞳は特に怒っている様子も無く、二人を前にして困ったような笑みを浮かべている。いかにも子どもの喧嘩を仲裁する大人のようなその素振りに、レティシアはしゅんとして謝罪の言葉を口にする。

 イリナは決して口を開かなかった。


「なんだイリナ。皆まだ休憩を取っていないぞ。どこか痛めたのか?」


 レティシアの持つ湿布入りの籠をチラリと見たディーンは、無造作に投げ捨てられた剣の隣で不貞腐れた様子のイリナに問う。

 その口調は決して令嬢に対するものでは無く、騎士達に対するものと同じだった。


 レティシアはイリナが騎士になる為にここで男達に混じって鍛錬に励んでいる事に対し、素直に尊敬の念を抱いていた。

 過去では同じ令嬢でありながら、リュシアンの片腕として剣を振るっていた女騎士イリナ。自分には決して真似が出来ない事だと思っていた。


「イリナ、返事をしろ」

「……いえ、別にどこも痛めておりませんわ」

「それなら何故こんな所で剣を放り投げて休んでいる? お前は自ら騎士になりたいと言ってここへ鍛錬に来ているのではなかったのか。一年間きちんと基礎訓練を欠かさなければ弟子にしてやると言ったあの約束は、無しにするのか?」

「……っ!」


 イリナは以前レティシアに向かって「ディーンに師事している」と言っていたが、どうやら未だ弟子になっているわけでは無いようだ。


「未だ基礎訓練を怠けてばかりで、まともに剣を振るう事も出来ないというのに」

 

 レティシアの前で思わぬ暴露をされてしまったイリナは、悔しそうに歯噛みする。そのうち白い小さな歯が、赤い唇にギリリと食い込んだ。


「もう結構です! 私、殿下がよくこちらにいらっしゃると言うから通っておりましたのに、ちっともお姿を見せませんし! それならばここに来る理由もありませんわ!」


 鍛錬の為なのだろう。身軽な服装で座り込んでいたイリナは、すくっと素早く立ち上がると剣をそこに置いたままディーンとレティシアの横を早足で通り抜ける。

 意表を突かれた出来事に暫し呆気に取られていたレティシアだったが、イリナが体作りに励んでいる騎士達の邪魔をするようにその間をツカツカと歩いていく背中を見て、堪らず声を上げた。


「お待ちください! イリナ嬢! そのような振る舞いは……」

「まぁまぁ、構いませんよ。どうせこうなるだろうとは思っていたのです」


 自然な動作で湿布入りの籠を受け取ったディーンは、レティシアを鍛錬場の片隅にある部屋へと案内した。

 控室のようなその場所にあるテーブルにコトリと籠を置くと、「さぁさぁ」と近くにあった簡素な椅子に腰掛けるよう勧め、椅子を引く。

 レティシアが礼を言い、木で出来た硬い座面の椅子へと腰掛けると、そのうちディーンも向かいの椅子に腰掛けた。


「まずは湿布を届けてくださって感謝する。いや、昨日全身をしこたま打ち付けましてな。アヌビス特製の湿布(コレ)が無ければ治りも遅い。助かりました」

「まぁ、全身を……それはお辛いですね」


 全身を打ち付けたと聞き、レティシアは思わず屈強なディーンの体を眺めた。よく見ればシャツの襟元から青あざや擦り傷のようなものが見え、痛々しい。


「ははっ! つい油断しました。今後は注意しますよ。それより、イリナから何かされたりはしませんでしたか? なかなか苛烈な性質ですからな。気付くのが遅れ、申し訳ありません」

「いえ、特には。それにしても、イリナ嬢は本当にもう剣を置いてしまわれるのでしょうか」


 あの場に打ち捨てられたイリナの剣は、他の騎士が拾って鍛錬場の隅に持って行くのを見た。

 剣というのは騎士にとって大切な物。それを放棄するという事は……。


「騎士になりたいという言葉は、元々鍛錬場に来る殿下との繋がりを持ちたいが為の理由付けに過ぎなかったのでしょう」


 イリナは過去で女騎士として大変な活躍をしていた。それを知るレティシアは、彼女が自分の崇高な目的の為に騎士の道を目指したのだと思っていたから、ディーンの言葉が俄かには信じられなかった。

 

「そのような事、本当にあるのでしょうか……。イリナ嬢の本心は騎士になるつもりなど無かったなどと……」


 過去のあの時、革命を起こしたリュシアンと共にレティシア達の目の前に現れたイリナは、自信に満ち溢れた表情で、恐怖よりも先に見事と思えるほどの剣捌きで皇帝を守る兵達を薙ぎ払った。

 目の前で剣を手に舞うような動作で兵を斬るイリナを見ても、レティシアは全く動く事が出来ず、その場に立ち竦んだのだった。


 そのイリナが、剣を放棄した事にレティシアは驚きを隠せない。

 過去で自らが刺殺されたのは、まさにイリナの手によるものだったのだから。

 

「剣を持たない者にとっては理解出来ないでしょうが、剣という物は騎士にとって特別なものです。自分の剣に名前をつける者まで居るほどに。本心から騎士を目指す者ならば分かるはず」


 そう語るディーンの眼差しは冷たく、厳しいものだった。イリナに対し、静かな怒りを覚えているのを感じる。


「それを、あのような扱いをするイリナには、もう二度と剣を持つ資格は無い。そもそも、剣を持って教えるまでに至っておりませんしな」

「騎士の心を慮らず、私の失言でした。申し訳ございません」

「いやいや、お気になさらず。頭の固い人間が多いのです。騎士というのは。はっはっはっ!」


 豪快に笑うディーンに、レティシアはホッと肩の力を抜いた。普段のディーンは明るくレティシアに対しても優しく接してくれるものの、あのような険しい表情ともなれば、纏う雰囲気は凄みを帯びていて思わず息を止めてしまうほどである。


「おお、そうだ。殿下はイリナを避けてこちらへ通っておられるのでな。イリナが帰ったと伝えねばなりません。良ければ殿下に伝えていただけませんかな?」

「はい、承知しました。ちょうどアヌビス様に頼まれてリュシアン様に届け物がありましたので」


 レティシアは鍛錬場をあとにして、おそらく執務中のリュシアンが居る皇太子宮を目指した。


 


 

 

 

 


 

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