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39. 父と娘、ここは……


 レティシアが屋敷に戻ると、帰って来るのを待っていたかのようにすぐに父親から呼び出しを受けた。

 ベリル侯爵の私室である執務室は回帰する前のレティシアにとっては、きつく叱咤されたり説教をされるというような、あまりいい思い出の無い部屋である。


 ただ時を逆行してからのベリル侯爵は、レティシアが幼い頃から優秀で、人並み以上に勉学に励んでいるからなのか、それともレティシアの態度が以前のように常に気後れするようなものでは無いからなのかは分からないが、あまりこの部屋にレティシアを呼ぶ事も叱ることも無かったのだった。

 

 その代わり、屋敷に居る時間よりも宮殿へ出仕している時間の方が長いのでは無いかというくらいに、勤めに忠実な様子なのだ。

 まるで過去とは別人のような変わりように、レティシアは不思議に思っていたところである。


「私の行動が変わった事で、周囲の人にも影響を及ぼしているのかしら?」


 母親である侯爵夫人も以前と違ってレティシアに口うるさく言う事もなく、どちらかといえば子供らしくないレティシアとどのように接したら良いのか分からずに、マヤに全てを任せっきりで遠ざけている風であった。

 代わりに弟パトリックを溺愛しているようだから、レティシアとしては良かったと、ほっと胸を撫で下ろしているのだ。


 パトリックは過去で両親から疎まれ、そのせいで自室に何年も引きこもってしまうようになったのだから。そんな弟にレティシアは、両親から放っておくように言われたからといって何もしてやれなかった事を後悔していた。

 此度の生ではきっと母親から愛され幸せになれるだろうと、そうレティシアは期待しているのだ。


 出来る事ならば父親である侯爵もパトリックを愛してくれれば良いのだが、パトリックが産まれてすぐにその瞳と髪の色味から夫人の不貞の子では無いかと疑ってかかったせいで、どうやらまだ夫婦間のわだかまりは根強く残っているように見えた。

 侯爵夫妻の夫婦仲があまり良くないのも、過去と違っている所である。

 

 侯爵に対して常にご機嫌取りのような態度をしていた夫人と、とにかく尊大に振る舞い、時には暴力で夫人やレティシアを思うがままに従えて来た侯爵は、すっかりその気質と関係性が過去と変わってしまっていた。

 今のパトリックだって幼い頃から何故だかレティシアを嫌っている風に思えるし、どういうわけなのかはまだ検討もつかないが、確かにレティシア以外の人間に何らかの変化が起こっている事は確かなのである。


「お父様、お呼びでしょうか。レティシアです」


 焦茶色で彫刻が施された重厚な扉の前にレティシアは立った。時に震えるほど怖かったこの扉の向こうが、今は不思議と怖くはない。

 侯爵は皇帝から婚約破棄を告げられて以降、不正の嫌疑をかけられた事もあってか塞ぎ込みがちになっていた。ほとんど家族と話そうとしない侯爵が、今何を思っているのかレティシアには分からない。


「入りなさい」


 部屋から聞こえた侯爵の声は、ここ最近の暗いものでは無くどこか機嫌が良さそうに聞こえた。

 レティシアは重さがある金のドアノブを回し、執務室へと足を踏み入れる。


「レティシア、一体何があったんだ? 皇后付きの女官に任命すると宮殿から急ぎで通達があって、急な事で驚いたぞ」

「私もとても驚いたのですが……ソフィー様がそのようにしてくださるとおっしゃって」

「お前はまだたったの五歳。いくら勉学については大人顔負けな程の知識を身に付けているのだとしても、その身体にとって負担ではないのか?」


 レティシアは侯爵の態度が意外であった。

 皇后付きの女官など頼んでもつけられるような地位でなく、帝国貴族にとっては末代にわたり誉となる事なのに、と。

 その地位に娘がつくとなれば、過去の侯爵であれば「よくやった」と手放しに褒める事さえすれども、娘の負担を心配するような人間では無かったのだから。


「お父様、もしかして……私を心配なさっているの?」

「当然だろう。いや、皇后付きの女官ともなればジェラン侯爵(ギヨーム)も下手にお前に手出しは出来んだろうが。しかし……なぁ」


 唸る侯爵は執務机に肘をつき、両手を組んで額に当てた。レティシアにとっては久方ぶりの父との会話だったが、まさか自分の身を心配してくれるような事があろうなどと、過去を鑑みればとても信じがたい事である。


「お父様、私出来ます。必ず皇后付きの女官として務めを果たします。だから心配なさらないで。それにお父様、前に皇帝陛下が言っていた事……あれは濡れ衣ですよね?」


 レティシアはずっと疑念を持っていた。過去ならばいざ知らず、この時間軸では家庭を顧みない程にあれほど真面目に出仕していた父が、政敵でもあるジェラン侯爵に弱みを握られるような不正をするだろうかと。

 そもそも、告発したのがジェラン侯爵というのも気にかかる。


「当たり前だ。私はこれまで、不正に手を染めた事など一度も無い。もちろん周囲の者も承知の上で、皆ギヨームの話は信じておらん。それはこの帝国の為、皇帝陛下の為に私が長年尽くしてきた事を皆が認めているからに他ならない」

「そうですよね。周囲の皆様が分かってくださっているならば幸いですわ」


 レティシアの生家であるベリル侯爵家とイリナの生家ジェラン侯爵家は帝国の貴族の中でも特に仲が悪い。

 帝国の歴史の中でも一二を争う程に由緒正しいベリル侯爵家に対し、ジェラン侯爵家は歴史も浅く、元を辿れば新興貴族である。

 ただいつからかこの二つの家門は敵対するようになり、帝国の貴族全体を二分するほどの力を持つようになった。

  

「しかし、よりにもよって官僚としての日々の仕事も適当に放り出し、皇帝陛下のご機嫌取りだけで出世してきたギヨームに告発されるなど、そのような事があってたまるか!」


 あの日の事を思い出したのか苛立ちの態度を隠せなくなった侯爵は、握った拳で頑丈なオーク材の執務机をガンと力強く叩いた。


「お父様、お怒りはごもっともですが、その机に罪はありませんわ。それに、お父様の手も痛んでしまいます」


 そう言ってレティシアはそっと父親の拳に自身の手を寄せた。過去ではこの拳で何度も殴られたし、手を繋いだ記憶など一度もない。常に恐怖の対象であったその手を、レティシアは今子どもの小さな手で優しく撫でている。


「レティシア……」

「一つお聞きしたい事があります。お父様は出世の為、家門の為ならば娘である私が犠牲になっても良いと思われた事はありますか? 私さえ犠牲になれば、家門が守られるとしたら?」


 過去にレティシアは父親から幾度となく言われて来た。「お前が将来の皇后ともなれば家門はより力を持ち、この帝国貴族の中で誰もベリル侯爵家に楯突くものは居なくなる。その為ならば、多少辛い思いをしたとしても我慢するのがベリル侯爵家に生まれたお前の使命だ」と。

 そうした事もあって、レティシアは懸命に両親の傀儡として生きたのだから。


「馬鹿な。娘を犠牲にしなければ家門を守れないような当主は能無しだ」


 幼い娘に手を握られた父は、確かにそう口にした。


 父のその言葉を、ゆっくりと噛み締めるようにして飲み込んで心に仕舞ったレティシアは、ポロリと一筋の涙を頬に伝わせる。

 彼女の回帰したこの世界がただの過去では無く、もはや並行世界とでも言うべきほどに全てが違っているのだと、そう思うと何故か次々と溢れて来る涙が止まらなくなったのだった。


「ありがとう、お父様」

 

 


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