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37. ソフィー皇后は、レティシアを女官に任命する


「実はね、このままではいけないと思ったの。多くの民が住まうこの帝国も、ムサがあのままではダメになってしまう。これまで私はムサに苦言を呈する事はあっても、結局のところ強く出る事が出来なかった。民達が困らないよう、陰でこっそり私が補完的役割を果たせば何とかなってきたから」


 ソフィー皇后の呼吸に合わせて、レティシアの頬に当たる胸が柔らかく上下する。母らしい優しい香りが、レティシアの凝り固まった心をほぐした。


「でもね、アヌビスに言われたの。私のしている事はいずれは大きく民を傷つける事になる。そもそも私自身がムサをダメにしているんだって」

「アヌビス様が?」

「そう。私が何も分かっていなかったの。いくらムサの事を愛しているからって……私は一人の女である前に、この帝国の皇后だもの。もっと強くあるべきだったわ。……なんて、まだ幼い貴女に難しい事を言ってごめんなさい、レティシア」


 優しく、そして穏やかな声で謝る皇后に、レティシアはその胸の中で何度も頷いた。皇后のドレスの胸元が涙で濡れてしまうのを心配して身体を離そうとしたものの、ソフィー皇后は決してそれを許さなかった。

 皇后の柔らかなその身体は小刻みに震えていたから、幼いレティシアに涙を見られたく無かったのかも知れない。


「貴女も知っての通り、私の母国は遥か遠く離れた国よね。ここに嫁いで来た時には、ムサ以外私の味方は居ないと思っていたの。けれど、今はもうリュシアンも、貴女も、アヌビスだっているもの。それに嫁いで来た時には馴染まなかった大勢の民達も、今では私を慕ってくれている。いざとなれば……」


 ソフィー皇后はまだ五つのレティシアに話しても詳しい意味は分からないと思ったのだろうか。まるで独り言のように小さな声で言葉を漏らすと、もう一度レティシアの身体を強く抱き締める。


 しかしレティシアの魂はデビュタントを迎えた娘である。ソフィー皇后の今後の動き如何によっては、やがてこの帝国に大きな波乱を呼ぶ可能性がある事を理解して、その恐ろしい想像に背筋がゾクリと震えた。

 回帰した此処で、革命を起こすのはリュシアンでは無いかも知れない。

 

 実際にこの帝国では、皇后が時の皇帝を討って新たな君主になったという事実も存在すると、幼い頃に帝国フォレスティエの歴史で習ったのだから。


「私はムサを愛している。だからって盲目的に全てを赦していては、そのうち多くの物を失ってしまうわ。それでは遅いの。まだ幼い貴女にも、この意味は分かるかしら?」

「はい……多分」

「ふふっ……さすが。良い子ね、レティシア。愛には色々な形があるから、一見して分かりにくい事もあるのよ」

 

 愛というものは優しさや献身だけでは無い。時には激しく突き放したりする事もまた、愛なのだ。


「ソフィー様のお話、とても勉強になりました」

「まぁ、私の愚痴のようなものなのに、レティシアのお勉強になった? でも、そうね、レティシアももっと自信を持って。自分の外側にあるもの……他人の評価なんて気にしないで、自分の内側の心に耳を澄ませるの。良い子過ぎる貴女には必要な事だわ」


 レティシアは過去での出来事を振り返る。

 他人の目、評価、誰かからの意見を自分の軸にしているうち、いつの間にか大人達に都合の良い傀儡となってしまった。


 回帰した時、もう同じ運命は辿らないと、そう決心したのだ。


「ありがとうございます。私、これからは与えられた人生を、きちんと自分の思うように生きる事にします」

「そうよ。私も赤子を死産して思ったの。人は、いとも簡単に死んでしまう。一度きりの人生だもの、後悔しないよう思いっきり生きるべきねって」


 一度きりの人生……その言葉をレティシアはじっくりと噛み締める。

 

 自分には僥倖にも二度目を与えられた人生なのだから、ソフィー皇后以上に後悔せぬよう生きねばならないのだと、レティシアはその胸に固い決意を秘めた。


「いい? レティシア。リュシアンが何を思って婚約破棄を言い出したのかは分からないけれど、まずはきちんと二人で話し合いをするの。腹のうちを全て明かしてしまって、それでも駄目なら仕方がないけれど、今のあなた達にはそれが出来ていないと思うから」

「はい。ソフィー様」

リュシアン(あの子)と私が話したとしても、きっと遠回りになるだろうと思うの。だから直接二人で話してみて。あの子が逃げそうになっても、必ず捕まえて。貴女達は昔から仲が良いから、何があったのか、きっと話せば分かるわ」


 そう言って皇后はレティシアの身体をやっと解放し、まぁるい頬を優しく撫でた。


「これはね、ずっと考えていたの。貴女さえ良ければ皇后付きの女官になるのはどうかしら? そうなれば帝国始まって以来の最年少の女官だけれど、聡明な貴女なら皆納得するわ。それに、皇后付きの女官ともなればジェラン侯爵といえども下手に手を出せなくなるし」


 この帝国での皇后付き女官とは、侍女よりも上の位であり皇后の補助的な役割も果たす者の事である。

 彼女達は日常、皇后に仕えながら直接マナーや知識を学ぶ。帝国で一番高貴な立場である皇后から学べるという事は、貴族にとって特に栄誉ある事なのだ。

 

 大概は王妃の最も信用できる者が皇后付き女官に選ばれ、彼女達には様々な特権が与えられた。その者の待遇や縁談などの全ての事柄は、主である皇后のみが決める事が出来る。

 十代前半で嫁ぐ事もままあるこの帝国で、皇后付き女官の嫁ぎ先は他国の君主をも含むかなりの有力者ばかりと決まっていた。

 つまり女官というその地位につく事で将来は安泰、一族としても大変な誉れであり、令嬢ならば誰もが羨むものであったのだ。


 これまで帝国フォレスティエで女官に任命された令嬢の最年少は八歳。たった五歳で皇后付き女官に選ばれたのは、レティシアが史上初の事であった。


「そのような名誉ある地位に私を選んでくださり、心から感謝いたします」


 レティシアはこの帝国のどの令嬢にも負けない程の美しい所作で感謝の礼を尽くした。


「きっと今頃リュシアンは鍛錬場に居るわ。女官の件について、ムサとベリル侯爵家への知らせはすぐにしておくから。あの幼女趣味のいやらしいジェラン侯爵の事は心配せずに、行ってらっしゃい」

「はい、感謝いたします。それでは、行ってまいります」

 

 ソフィー皇后の元を訪れた時には思い詰めた表情だったレティシア。

 今向かうべき所が決まったところで、固い蕾がゆるゆると開花するように、愛らしくも美しい笑顔を皇后に披露した。

 


 


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