36. 皇帝陛下の、婚約破棄届は不受理に
アヌビスと別れたレティシアは、リュシアンを探す前にソフィー皇后の所へと向かう事にした。
既に皇太子の婚約者では無いレティシアは、宮殿内を自由に歩けるわけでは無い。それに、リュシアンを探すにしたって、万が一にもジェラン侯爵に出くわしたりしないよう注意を払う必要があったからだ。
レティシアはとある決意を秘め、ソフィー皇后の居室を訪れた。
出迎えた皇后はレティシアを快く歓迎し、いつものようにソファーへ腰を下ろすと、笑顔でレティシアにも腰掛けるよう勧める。
しかし真剣な面持ちのレティシアは、その場に立ったままで口を開いた。
「ソフィー様、お話がございます」
「まぁ、そんな風に改まってどうしたの?」
「実は……」
正式な婚約破棄を皇帝から告げられた事、父の不正、ジェラン侯爵の愛妾になる話……その全てを話し終えた時、ソフィー皇后の怒りは凄まじかった。
そして「きっとベリル侯爵の不正というのも、何かの間違いよ」と力強く励ましてくれ、レティシアは本当に心からソフィー皇后が生きていてくれて良かったと感じた。
「婚約破棄に関してはリュシアンが何故急にそんな事を言い出したのか分かるまで、決して受理しないようと前もって教皇聖下に伝えてあるから、今の所レティシアは心配しなくていいわ」
「え……? そのような事が可能なのですか? でも……皇帝陛下は……」
「流石の皇帝陛下だって、あの教皇聖下には逆らえないもの。教皇聖下が許可しなければ、いくら皇族のものでも婚約破棄など成立しないわ」
この世界の多くの者が月の女神アルテミスを崇拝し、熱心に信仰する。
そして教皇は皇帝よりも遥かに力を持っていた。せいぜい枢機卿と皇帝の地位が同じ程度で、これは帝国フォレスティエや諸外国でも遥か昔から不変の事実である。
「わざわざソフィー様が教皇聖下にお願いしてくださったのですか?」
「ええ。ムサは知らないだろうけど、現在の教皇聖下は私と縁がある方なのよ。そもそも、教皇庁から婚約破棄の受理をしたという通知が届いていないのにも関わらず、よく気付かずにいるわよね」
今日のソフィー皇后は幼い頃から良く知るレティシアが驚くほどの毒舌であった。その後も皇帝への不満は止まらない。
ドレスが皺になる程強く握り締め、ソフィー皇后は鼻息を荒くした。
「ムサだって、昔はあんなじゃ無かったのよ。優しくて、穏やかで、跳ねっ返りの王女だった私の事をずっと大切にしてくれると約束したわ。それなのに! 私が何も言わないのをいい事に、あんな色気だけが取り柄の寵姫なんて囲い始めて! いい加減目を覚まさせないとならないようね!」
「私も……まさか皇帝陛下の名で届出を出したものが、そのように受理されないという事があるとは思いもよりませんでした」
「当然よ! 皇帝なんて世界中の信徒を束ねる教皇聖下にとっては、ただ一国の君主であるというだけの矮小な存在なのだから。それを、何を思い違いをしているのか知らないけれど、周囲に担ぎ上げられて調子に乗っているのだから可笑しいわよね」
もしかして皇帝との間に何かあったのだろうかとレティシアが思うほどに、皇后は珍しく怒りを露わにしている。
普段は本気で怒る事など無い人であるから、尚更余計にレティシアは衝撃を受けた。
「ソフィー様、もしかして……何かあったのですか?」
「なぁに? どうして?」
「いえ……あまりにもいつものソフィー様と違っているので、驚いてしまって」
そこでソフィー皇后はレティシアをソファーへと誘った。皇后の隣に座るようにと、ポンポンと座面を叩く。
レティシアが素直に従うと、その小さな身体を皇后は思い切り抱き締めた。苦しいほどの力で抱きすくめられ、レティシアは何も話す事が出来ないでいたが、ソフィー皇后の方がポツリポツリと語り始めた。




