34. レティシア、リュシアンの回帰を知る
リュシアンが医務室を去った後、レティシアはアヌビスの勧めで、以前過呼吸を起こした時に運ばれた奥の部屋へと招かれた。
窓の無い薄暗い部屋には薬草の香りが漂っている。
「まぁまぁ、そこにお掛けなさい」
「ありがとうございます」
レティシアを椅子に腰掛けさせたアヌビスは、慣れた手付きでいつかのように、レティシアに温かい飲み物を淹れて手渡した。
「して、話とは何かの?」
アヌビスの黄金色の瞳がレティシアを射抜く。アヌビス老人の前では、この世の全ての秘密が簡単に曝け出されてしまいそうだ。
珍しく不思議な黄金色の瞳、吸い込まれそうなその虹彩の色合いを見ているうちに、レティシアは心が凪いでいくのを感じる。
「アヌビス様、私の身に起こった、とても不思議な話を聞いてくださいますか」
「ふぅむ、それは面白そうだ。是非話してみなさい」
レティシアは自分の身に起こった話を全てアヌビスに語った。
四歳のあの日、殺されたはずの自分が此処に回帰してきたという事実から始まり、過去にレティシアがどのような経緯で最期を迎える事になったのか。
そして、同じ未来を辿らない為に此処に来て自分がして来た事を。
「なるほどのぅ。レティシア嬢は確かに回帰した。されども何故時を逆行したのかは自身でも分からないと?」
「ええ、勿論私にそんな力はありませんし、イリナ嬢に殺されてしまった私が、どうして過去に戻れたのかは分からないのです」
「ほぅ、そうかそうか」
レティシアの話を穏やかに聞いていたアヌビスは、本人に聞けばどうやって回帰したのか判明するだろうと思っていたので、レティシア自身も分からないという意外な事実に内心驚いていた。
やはり別の時空に存在したアヌビスは、以前に聞き及んでいた通り、リュシアンだけを逆行させたのだ。
「このような話、すぐには信じられないですよね」
シュンとしたレティシアはアヌビスの反応が思ったより薄い事から、この現実離れした話を到底信じて貰えていないのだと考えた。
子どもの考える空想だと思い、適当に話を合わせてくれているのでは無いかと。
「フォッ、フォッ、フォッ……。ワシがあまり驚かないから不安になったかの? いや、レティシア嬢の話は十分に信じとるよ」
「本当ですか⁉︎」
「勿論じゃ。未だ不可解な事はあるにせよ、確かに条件さえ揃えば、時を遡る事が可能な事は分かっておる。ワシはレティシア嬢が経験した事象を引き起こす為の考究をしておった事があっての」
「えっ⁉︎ アヌビス様が、ですか?」
反対にレティシアを驚かせたアヌビスは、その黄金色の瞳を細めて笑う。
笑うとなお一層皺だらけになる顔は、レティシアには何故か少し寂しげにも見えたのである。
「今のワシは何も成しておらん。しかしレティシア嬢が元いた場所でのワシは、どうやら殿下を此処へ送り込む事に成功したらしい」
アヌビスの突然の告白に、レティシアはすぐにその意味を理解出来なかった。
少しの間を置いて、やっとその意味を理解したレティシアはくしゃりと顔を歪めて、澄んだ紫色の瞳から次々と涙を溢した。
「リュシアン様は……いつから……?」
「レティシア嬢がこちらへ来たのは四歳の頃、宮殿で意識を無くしてここへ運ばれた時であろう? 殿下の魂が変わったのは、皇后陛下が死産なさる少し前じゃ」
「ソフィー様の……死産の前に……」
「ある時、突然人が変わったように大人びた口ぶりとなった殿下は、ワシに皇后陛下の命を助けろと言って来ての。半信半疑ながら、殿下の言う通りにした。宮殿を離れる予定を取り止め、陛下に何かあった時の為に備えたんじゃ。ただ……死産に関しては赤子の寿命じゃったから、どうする事も出来なんだ」
「それじゃあ……リュシアン様は……っ、ソフィー様の命を助ける為に……?」
嗚咽混じりの質問に、アヌビスは一言「殿下にとっての陛下はかけがえのない人じゃ」と言って頷いた。
ただそれだけで、レティシアは過去にソフィー皇后を喪った時の辛さや、その後に変わってしまったリュシアンに対する色々な思いが一気に溢れ、堪えきれなくなった声を漏らし、涙を一層はらはらと流す。
「ただ、殿下が戻ったのはそれだけが理由では無いのだ。聞くところによると、寧ろ皇后陛下の死産前に戻られたのは奇跡的な偶然での。殿下が時を逆行した本来の目的はレティシア嬢……其方じゃよ」
「私……?」
レティシアはアヌビスの口から出た言葉が、俄には信じられなかった。
嫌われていた、憎まれていたはずのリュシアンが、まさか自分の為に過去へと逆行したのだという事を、受け入れるには突然過ぎたのだ。
「殿下から大体の事は聞いた。……というよりも全て吐き出させた。そしてワシは心から『愚か者』と殿下を叱った。しかし過去のワシがちゃあんと殿下のお側にずっと居たのなら、きちんと殿下を導いておったら、レティシア嬢に色々と辛い思いをさせる事は無かったやも知れん。すまなんだのぅ」
「そんな……私が……私が悪いのです。愚かで、弱くて……リュシアン様の気持ちを汲み取れなかったから」
「殿下も同じような事を言っておったわ。ワシが言うのもおかしい事じゃが、殿下とレティシア嬢の間には色々と誤解があるようでの」
「誤解……ですか?」
「ああ、恐らく多くの誤解が複雑に絡まっておる。それをちゃんと話せと言うておるのに、殿下は話し合うより先に行動してしまったんじゃ。レティシア嬢の命を今度こそ誰にも奪わせまいと、婚約破棄という方法で早めに遠ざける事を選んだ。ほんに不器用で自分勝手で、傍迷惑な男じゃ」
突然遠ざけられ、婚約破棄を告げられ、レティシアはリュシアンに今世でも嫌われたのだと思っていた。
過去の時だってリュシアンはレティシアにとって五つも年上で、まだ子どもだったレティシアにはとても大人びて見えたものだ。
リュシアンは正しく、間違いなど犯さない。そのリュシアンに嫌われたのだとしたら、全て自分が悪いせいだと思い込んでいた節がある。
「リュシアン様はお心が強いのだと、決して過ちを犯したりしないのだと。私が勝手にそう思っていたのが、きっとそもそもの間違いだったのです。もっと……私が強く賢くあれば……」
「よいか、過去の事に関してはデビュタントを迎える前の、幼かったレティシア嬢のせいでは決して無い。そもそも、周りの大人達が悪いのじゃ。何故かは知らんが途中で行方不明になったという過去のワシも含めて、な」
過去でアヌビスとほとんど関わりの無かったレティシアは、行方不明になったという話も初耳であった。
それなのに、今のアヌビスはこうやって一番事情を分かってくれている。既に過去とは様々な事が違っているのだ。
「リュシアン様は、他に何とおっしゃってましたか? どうして私に何も話してくださらないのでしょう」
「ワシには其方の魂が本来の物では無いとすぐに分かったが、殿下はまだそれを知らん。単にこのままレティシア嬢に嫌われて、遠ざければ命を救えると思っておるのじゃろ。ほんに、阿呆じゃ」
「では、私が回帰した事を知っているのはアヌビス様だけなのですね? リュシアン様はご存知ないと」
「そうさの。だからまさかワシがレティシア嬢に、殿下も回帰していると言うことを話すとは思うとらんじゃろ。レティシア嬢がなぁんにも知らないと思って、一人で何とかしようとしとる。何なら『私は全て知っておりますよ』と、驚かしてみれば良い。いい気味じゃ」
アヌビスはおどけたように肩をすくめてそう言ったが、レティシアは真面目な顔を崩さない。
「リュシアン様は……私が死ぬ未来を変えようと……? あの時……イリナ嬢が私を刺したのは、リュシアン様の指示では無かった?」
今聞いた事をすぐに納得するにはあまりにも衝撃的である。ずっとそうだと思い込んできた事を、突然覆されたのだから。
「そのようじゃ。突然色々言われても困るじゃろうが、これは真の事。過去には色々と誤解があった。今に関しては殿下がレティシア嬢の回帰を知らぬから、自ら遠ざけようと一人で足掻いておる。あんなに辛そうな顔をしておきながら、好いた相手を自分から遠ざけるなどとカッコつけて笑えるがの」
アヌビスはわざとリュシアンを貶めるような言い方をしているが、その表情にはしっかりと優しさが見える。
まるで手のかかる自分の孫のように、リュシアンの事を心から思っているのだろうとレティシアには伝わった。
「リュシアン様は……不器用な方なのです」
そこでレティシアはハッとする。リュシアンがレティシアと同じように此処に回帰したのだとしたら……。
「もしかしたら……もしかすると、リュシアン様は、あちらの人生ではどのような理由かで亡くなってしまわれたという事でしょうか?」
そう考えるだけでズキンと心が痛んだレティシアは、ぎゅっと握った拳を胸に当て、急に真剣な眼差しになったアヌビスの返事を待った。
「レティシア嬢が彼方で逝去してからの事は、またいつか時が来れば殿下から全て聞けば良いと思う。しかし、その質問にだけは答えよう。殿下は民の為に帝国を平定した後、彼方のワシの力によって此方へ来なさった。その際には……レティシア嬢と同じく御命を犠牲になさったそうじゃ」
やっぱり……と、レティシアは背筋が凍る思いがした。魂を彼方に残したまま此方へ来る事は出来ない。
だとすれば、リュシアンは確かに一度命を落としたのだ。アヌビスの言う通りならば、それはレティシアの為に。
「リュシアン様……」
それを思うだけで、レティシアは再び胸に鋭い衝撃を受けた。悲しくて、辛くて、痛ましい。
レティシアはずっとリュシアンの事が好きだったのだ。子どもの頃から。嫌われても、遠ざけられても、ずっと。
人を好きという気持ちは自分でどうにか出来るものでは無く、嫌いになった方が余程楽だと思ったとしても、感情を自身で制御する事は難しい。
過去に、目の前でレティシアの命の灯火が消えようとした時、リュシアンの表情はどうだっただろうか。声は、どうだっただろう。
どうしてかそれを今ここで思い出さねばならぬ気がして、レティシアは朧げに残っている記憶の欠片をかき集める。




