九、
九、
「行こうか。」
名残惜しそうに望遠鏡を撫でてていた彼は、夕方が昇る空をレンズ越しに見つめて、そう言った。
「うん。」
スカートの裾に付いていたゴミを払って、私は頷く。こちらを振り返った彼は、冷気に包まれて震える私を静かに見つめていた。
「ここ以外にも、こんなに鬱蒼とした樹海があるの?」
素足を傷付けないように黒猫の手を借りて、苔が柔らかい石の上を歩く。
「いや、聞いたことはないな。そもそも、この森林だって国じゃ知られていなかった。もっとも、連中は守られた国の外に出るような性質じゃなかったからな。知らなくて当然なんだが…。」
「そう。」
そよぐ星の色彩の音。藍色を放つ夜色のカーペットを仰ぐ。灼熱を越えてヴィトンの橙は荒野に続く因果律を講釈と呼ぶように、私の大気を覆い尽くしていく。
重なる糸は世界を混ぜるのに、言葉の綾が人を独りにするのに、可笑しいくらいに伝う泉の音は森林を巡っていく。
胸に抱く宝石をトパーズとして、私が歩く世界を幸いとするならば、広がる太古の森は再生だろう。疫病に犯された囚人の星で、プラネットを触媒とする気高い夜鳥に思わず心を寄せてしまいたくなった。
「痛っ!」
「おっと、大丈夫か?」
そんなことを考えながら歩いていたのがいけなかったのだろう。彼を引っ張るようにして足を滑らせ、尻餅をついた私は痛みにうめいた。
「注意しろよ。俺まで転ぶところだったぞ。」
「うん。ごめん。」
彼は転ばずに済んだらしい。繋いだままの手を引っ張って、私を立ち上がらせようとする。
「痛…。」
「え?」
しかし、立ち上がるとすぐに足の裏に痛みを覚え、座り込んでしまった。
「大丈夫か?…あー、怪我してるな。」
黒猫は、私を石の上に座らせるとコートから消毒液の様なものを取り出し、私の足の裏に振り掛けた。そして、袖口から取り出した包帯と、ガーゼで傷を保護してくれる。しんとした痛みは脳を打ったが、梅雨前線と同じ程度のもので、暫くすれば乾くだろうと思った。
「おい。」
そのまま、立ち上がって歩きだそうとする私の肩を彼が掴む。
「抱えってやる。また、転んでも困るだろ?」
「でも、」
「ほら、さっさとしろ。」
黒猫がすっと腕を広げた。
「あなた、猫なのに私を抱えられるの?」
「はぁ?」
黒々とした体が私の言葉に困惑を訴えかけてくる。音さえもない深夜時計。恍惚と垂れる草木が綺麗な水を散らし、私の髪を一房分濡らした。
「あー、成る程。」
黒猫が、がしがしと頭をかく。まるで、野良猫だ。締め付けられた葡萄の枝よりも、甘さを帯びた瞑想。彼は、ふっと息を吐くと面倒そうに私を腕に抱えた。
「お前なんて、黒猫の俺で十分だろうが。」
「そうだね。」
その答えに、私は大人しく彼に体を預けたのだった。
登場人物にケガを負わせると、いつも心が痛む…。
しばらくは、そのまま抱えて行ってあげてくれよ。黒猫さん。