八、
八、
「わあ…。」
「おお、いつまで階段が続くのかと思ったが…、ここは天体観測所の跡だったんだな。」
もう、ほとんど太陽は隠れてしまった。暮れ始めた森林は不気味なほどに深淵を表したがる。しかし、階段を上がった先にあったものは、ゴーストの恐ろしさも催涙された木の実のかつんと言う奇妙さもない、よく空の見える円筒形の建物の屋上だった。
屋上は、人が落ちないように作られたのだろう私の腰辺りまであるブロック塀で囲まれている。目の前には、一つ。星空を遊泳する望遠鏡だけが置かれていた。
「ゴミもついていない、壊れてもいない。綺麗に残っていたもんだな。」
彼は、望遠鏡に近づくと、何やら高さを変えたり、のぞき込んだりと、機械をいじり始めた。
「…。」
夢中になって、望遠鏡の前にしゃがみ込む彼の姿を見て、私は微笑む。冷たさに温度をはらんだ風。遠くのフクロウは、ホーッホーッっと、鳴きだしたのを聞き、気付けば夕日は既に沈んでいた。
「ふふ。」
カーディガンのすそを手繰り寄せ、笑んでしまう口元を隠す。彼の黒い影の様子な姿は幻想白熱灯を吹き消し、代わりに勾配のある二十日鼠となって私に寄り添ったのだった。
「すまないな。放っておいてしまって。」
「いいよ。」
コンクリートの屋上で火を起こし、彼が渡してくれた簡易的な食べ物を食べる。黒猫は自らに苦笑しつつも、まだちらちらと天体観測の機械を見つめていた。
「機械が好きなの?」
気になって、私は尋ねた。ぱくっと、カロリーメイトの色をした、色素体循環植物を食べる。彼は、首を振って栄養補給品をかじりつつ、黒鉛に包み込まれているガラパゴス色の空を指さした。
「星だよ。俺が好きなのは、宇宙だ。」
「宇宙…。」
紫の色素が身体中に染み込んでくる。銀河、ブラックホールに磁場重力。水王天中星は、私の想像だ。
古代に消えていく、海洋生物の死骸から生まれた霜雪。隕石に吹き上げられるマントル。グウゴウと音叉を鳴らす以外はたぐいまれな閑静に身を留めておく。見たことのない遠い世界。
キラキラした昆虫培養液を卓越してもいいはずだが、どうしてか。彼の瞳は、横顔は悲しそうに見えた。
「俺は星を愛してた。生まれてから一度だって本物の星を見たことはなかったはずなのに、憧れたのは宇宙だった。この世界で、ただ一つの人が住む国で、煙が立ち込める空を誰よりも見つめていた。」
燦然と輝く乙女座α星をなぞる。彼はニヤリと私を見て、そしてすぐちょっとした擽りを覚える表情に戻った。
「星を見上げることの意味を、その尊さを誰も覚えていないんだ。だから、何もない空ばかり見上げて、牡牛座のメガロポリスばかり、数えている俺はいつしか一人になっていた。」
銀河フィラメントは連なり、遥か数億光年先、直径1mmほどの恐ろしいほどの美を称えた岩石を指し示す。オーロラは天空都市を懐古するように刻み込まれ、浮かばれない熱は融点を越えて、荒廃したアルキメデスの法則をも凌駕する。パラグアイを南として反戦を期すグレートウォール人は、隣でくたりと横たわった彼の頭を包み込んで、その心臓に惑星への愛を優しく諭した。けれど、それは彼の孤独を増幅させる副作用を持つだけではなかった。彼の心を黒猫とし、私に引き合わせたのである。
それが、良いか悪いかなんて分かるはずもなかった。
「人間は鉱物を美しいと言った。ILLUMINATIONに幸せを求めた。最低限のものを享受し、雷鳴には怯え、夜の明かりは手元のランプと、空を覆い尽くす星々の輝き。そんな、生活を人々はたった一つの不幸のために失くしてしまったんだよ。」
私の手を握る。彼が、体を起き上げて私の耳元に息を吹き掛けた。
「俺の言いたいこと、分かるか?」
私は一呼吸おいて、ゆっくりと頷いた。
「もう、世界は死んでいるんだ。」
「そうゆうこと。」
枯れた世界の鼓動を聞いて育った彼が、見つけてしまった唯一の光。それが、大地を揺るがすことも、コマドリを手懐けることも、北の少年を起こすこともない星と言うただそれだけの光だった。
「国の外に出たとき、満天の輝きを見た。午前二時のコーヒーを飲むよりも、青いスペクタクルを砕くよりも、ずっとずっと綺麗な空が俺を待っていた。」
もう一度彼は、その体を横たえた。パチパチとリアルな焚き火が瞳を濡らす。私も、その横に横たわろうとすると、彼は下にポケットから取り出した大きめの布をひいてくれた。
「私にも愛するものがある。」
喉から震えるように出た声は、案外しっかりとしていて、肘をついて私を覗き込んでる彼の表情を緩ませた。
「恒常風の青さを、寒空のパラサイト。アーキテクトを粉々に汐風は蝶を彷彿とする欠点を乞う。」
「ふーん。」
黒猫はすっと目を細めた。
「ガラパゴスについてでも語ったつもりか?良くできてるとは思うよ。お前が何を言いたいかは、さっぱりだけどな。」
やっぱり。
私は、恍惚とする心中を抑えるように微笑みを隠した。
彼は、わかってくれた。
「詩が好き。音が好き。言葉が好き。色が好き。何よりも、私の中にある文学を愛してる。気持ちが悪いと言われようと、誰もがレモンソーダを忘れ去った中でも、懸命に持ち続けたものなの。愛してるだけじゃなくて、大切で私を構築するもの。だよ。」
普通を好まない言葉選びは、彼と出会った私を作った。思案深げに私を見つめる銀河の瞳。真夜中をペールオレンジで噛るように身を捩った。
「素敵だな。俺なんかよりずっと、大事なものをもってる。」
黒猫はふっと笑った。
「お前にはちゃんと目には見えないものが見えてる。掛け替えのないものが何なのか、ちゃんと分かってる。」
すると、唐突に肘をついて私を見守っていた彼が、私の上に影を落とした。
遠くのふくろうの声。円柱形に空を突き刺していた木々。囲うように、私を睨んでいた森林が消え、代わりに黒猫の意地悪そうな顔が目の前にあった。
「なに?」
不機嫌さをこめて、彼をじろっと睨む。
「ふふ。」
黒猫はすっと、冷たい手で私の頬を撫でると、納得したように笑った。
「星の瞳だ。」
「え?」
聞き返す。
「星を瞳に司ってる。糸を引いたような金褐色だ。俺は、だからきっとお前を水から引き上げて、今こうして一緒にいるんだな。」
「…。」
何も言えず、いつまでもその格好のままの彼を見上げた。
「どいて。」
不器用にそう告げると、彼は可笑しそうに私を見ながら、どいてくれた。
一体何なのかと口にして、エメラルドグリーンの神秘性を確かめてしまいたいような気持ちを噛み締める。けれど、そんなことは彼にも黒猫にだってわからないんじゃないか。きっと、確実にそうなのだろう。そう、一人で頷いた私は彼に背を向けて布の上で丸まった。
「おやすみ。風邪引くなよ。」
コートを上に掛けてくれる。
「うん。」
もぞもぞと所在なさげに肩をすくめた私は、黒猫の寝息を聞きつつ、小さな火が燃えている焚き火と、彼が好きだと言った燦然銀河の天ノ川の星を数えて、眠りについたのだった。
昔、プラネタリウムを見たことがあります。ケンタウルスが会釈をする傍で、名前もない星々が遊覧する光景。時折入る、BGMと解説を聞きながら天上に広がる余りある輝きに目を見開きました。
そして、周りの人はどんなに驚嘆した顔でこれらを観察しているのだろうかと思い、後ろを振り返ったのですが…。自分以外の人が全員すやすやと眠っており、さらにびっくりしたことを覚えています。でも、確かに安眠効果がある空間だったので、今度行ったときは僕も寝てみようかな。