五、
五、
「橋が…。」
世界は夕方のまま、象牙の砦を越え、ヒマラヤ山脈の女神と対峙する黎明に匹敵する時間を歩いたように感じた頃。浅い川にかかる橋を見た。
先は霞んで見えない。風来坊に侵された花壇の向こう側。赤茶けた午後を彷彿させる建造物でありながら、所謂ただの橋である。まだ、遥か遠くで構えている橋であるが、あの先には一体何があるのか…。なぜか、立ち止まってしまった猫を置いて、私は先へ進もうとした。
「待て…。」
猫が低い声で私に呼び掛ける。
「おい、待てよ!」
その必死さに何が起きたのかと思って振り向くと、彼が痛いくらいに強い力で私の手首を掴んできた。威嚇するように見開かれた瞳。銅色の髪が痛みに揺れているのを見て、彼はさすがに力を緩めたものの、カテゴライズされた標本をピンで留める寂しさを露にした表情は変わらなかった。
「ええと…。」
何を言えばいいのか分からず、先にある橋と、徐々に眉が下がり始めた黒猫とを交互に見やる。星が紡いだ群青は、霧も濃く、私の頬をペロリと舐めた。混乱したまま彼を見上げると、猫は唇を噛んでそっぽを向いた。
「ここから先へは、行きたくないんだ…。」
彼が吐き溜めた金平糖を、私の手を緩くつかんだまま、口にした。
「どうして?」
「それは…、この先には星がないから…。ない、というのは変だけれど、少なくとも俺が住んでいた頃、ここら辺りの様な星は見えなかったから。」
「?」
彼が何を言いたいのか分からなくて、首をかしげる。きっと、あの飛行士も、今の私と同じ感覚であったに違いない。
セパレート泡沫。ぼこりとした蜻蛉玉。よくわからないけど、頭の中で一番に浮かんだ疑問を黒猫に告げた。
「この先に、あなたは住んでいたの?」
「ああ。この惑星は、とても小さいから俺の気づかないうちに、世界を一周してしまったらしい。と言っても、この道に沿って、まっすぐ進んでいただけなんだが…。」
「そう。」
私は忌々しげに言葉を綴る彼に向かって、理解をしたと頷いた。そして、その事を踏まえた上で、私は彼にある提案をした。
「なら、この道をそれて、全く違う道を目指そう。」
彼が私をじっと見る。
「この先に進みたくないのなら道をそれてしまえばいい。別に無理していく必要もないしね。どうせ、進んだって私にとってもあなたにとっても、大切なものはないんでしょう?」
「…。」
黒猫は、掴んだままの私の手首を見た。
「ああ、そうだな。」
ふっと、低く笑って、私の手を離す。
「俺たちの信条も、信仰も、あの向こうにはない。」
きっと、解決したんだろう。私と同じ感覚の中で。そっと、黒猫は私の手首を撫でた。
「すまない。痛かっただろう?」
目を伏せて、申し訳なさそうに包帯や湿布をコートから取り出したのを見て、私は慌てて首を振った。
「大丈夫。見た目ほど痛くないから。気にしなくていいよ。」
「でも…、湿布だけでも。」
自分がつけてしまった傷に、罪悪感が生まれているのだろう。彼がいよいよ、湿布を貼り付けたのを見て、私は苦笑した。
「別にいいのに。でも、ありがとう。」
「ああ。」
黒猫は包帯を巻くのは断った私を不服そうに見ながらも、どこかほっとしたように頷いて、包帯と湿布の余りをコートにしまったのだった。
本日は四、が短かったので五、も投稿しました。
一、からここまで読んでくれている人がいらっしゃったら、本当にありがとうございます。
ようやく、ストーリーが半分終わりました。残り半分もぼちぼち投稿していきたいと思っているので、これからもよろしくお願いしますm(_ _"m)