26.寂れた思い出は
町の住人は、門から、防壁から、溢れんばかりの人の群れでイキョウの姿を見ていた。
普段のバンダナなんて目に付かない、軽薄そうにフラフラとさえしていない、そして心身がボロボロになって歩く男の姿。
その男は、住人達が言葉を交わせる距離まで近付いていた。
見た目だけでも痛々しい、しかし、出で立ちすらも痛々しい男に、最初に声を掛けたのは、平和の旗印のリーダー、キンスだった。
「おめぇ……イキョウ……だよな?」
キンスの眼には、目の前の男が誰だか分からなくなりそうに写っている。たとえ、イキョウが普段の姿をしていても、キンス、引いては旗印のメンバーには同じ者には見えないだろう。何故ならば、今のイキョウの心が見えないから。読めないとか慮れないとかそう言った段階ですらなく、平和の旗印のメンバー達の目に、イキョウという者が映らない。まるで生きているだけの人形にしか見えない。
「そうだからどうだってんだよ。良いからどいて、邪魔」
キンスの問いかけにへ返された言葉には、感情が乗ってない。冷たく平坦な、無関心な声色だけが向けられた。
その無情な言葉に声を返したのは、他の冒険者、特にイキョウを良く知る者達だった。
「邪魔って……そんな言い方無いじゃない!!」
「そうだにゃ。皆、イキョウが帰ってくるのを待ってたにゃ!!」
「ど、同士……いつもみたいに……ふにゃって、して、わーわーしながら、てきとーな、色んな説明……とか……」
「そうよぉ~、世界を敵に回すようなおバカな貴方の事情を、面白おかしく説明して欲しいわぁ……何時も通り……に……」
「ですです……。街の皆、待ってて……」
「色んな話をしたよ。あーだこーだ言い合って、どうせまた君がバカなことしたんだって……何やってんだろうって……」
「キョー……? 怪我してお話しし辛いならティリスが治すよ? だからゆっくりお話しよ?」
「我々はそれを待っている。皆、待ち焦がれている。頼むイキョウよ、どうか……」
誰が何を話しても、イキョウの目には誰が誰だか分からない。
「――」
町の皆が望むような返答が、皆が望んだ男が、帰ってこない。
誰だって、皆だって、分かってた。イキョウだけがバカをして、ソーエンはバカな事をしていない。ニコチイの二人が、そろってバカをしてないとなったら、皆察していた。
それでも、街の皆は期待していた。イキョウがバカな言い訳をギャーギャ騒いで、無為な反抗をしてくることを。
「イキョウさん……。今なら、私、お説教しません、お酒飲みながらふざけて話して、それで終わりにしましょう……」
「そーですよ! 私だって今日ばかりはローザさんに告げ口しませんから!! 失礼な事もしません!!」
「滞在証、切れてただろ。査問無しで通してやるから遠慮せず入れ。今日ばかりは見逃してやるから……絶対にまた作り直して持ってくぞ」
言葉は次々波及し、街の者達全てがイキョウへと言葉を投げかける。その言葉は温かいものであり、アステルには世界の敵になったイキョウを拒むものなど居ないと表す光景だった。
群衆の声は全てイキョウへと向けられ、皆がイキョウの帰りを待っていた意を告げる。
歓声ににも、呼びかけにも、訴えかけにも、願うようにも、聞こえてくるその声達は――。
「邪魔っつったよな」
――その一声だけで、黙らせられた。
静まり返った群衆。そして向けられていた声を断ち切り、切捨て、かつてのイキョウとは思えないほど冷たい男は、血を流しながら一歩踏み出す。それだけで、群衆は怖じ、門に集まった人々は、道を開けるように退こうとしてしまった。
しかし、それでも、硬い意思で立つ者達が居る。
「だ、ダメだ……ッ!! 今ここでおめぇを止めねぇと、二度と会えねぇ気がするんだ!!」
「けけ、けけけ……。ごめんね、イキョウ。俺達の我侭に付き合ってもらうよ」
「優しい、男だった……。お前、去ってはいけない」
それは、平和の旗印だった。実力の差なんて関係ない、目の前の男を止めるためだけに、自らの身を持って立ちはだかっている。恐怖すら抗い、ただイキョウの事を思って。
その背中に呼応したのは、冒険者達、街の住人達。皆も、怖じ様ともイキョウを止めるために、己が身を奮い立たせて立ちはだかる。
皆が知っているイキョウが、知ってるイキョウとしてアステルに帰って来て欲しいから、このままアステルの敷居を踏み越えさせる訳には行かない。
ただ、それは街の者達だけの思い出から生まれる思いだった。
「さっきから慣れ慣れしいけど、あんたら誰? 邪魔だからさっさとどけ」
――――その言葉で、アステルの者達の表情は凍りつく。
あまりにも他人行儀過ぎる言葉と冷たい態度は、町の住人達の脳裏に静かで冷たい衝撃を走らせた。
「あ……あんた……まさか、私達のこと……?」
「どけ」
ティリスの言葉にイキョウは答えず、周囲に糸を展開させて住人全てを縛る。その行為こそが、町の者達が抱く疑問への答えだった。
あのイキョウが平然と自分達に手を上げた。それ以上に勝る証拠などありやしない。
「あ……ズレが開いてダメになった」
事実を事実だと信じられない住民達の前で……イキョウの左腕がズルリと落ちた。
「もうちょいだけ持ってくれよ」
そして、イキョウは淡々と腕を拾い上げ、また取り付ける。その光景は、町の住人達を恐怖させ――そして心配させた。
「ど、どうし……もしかして、腕、ぎ、義手……」
誰もまさか、簡単に外れた腕が一応はホンモノの腕とは思うまい。
糸に縛られながらも、イキョウを心配するような声を出したサンカの疑問を、イキョウは一瞥も暮れずに通り過ぎて、ただ目指すべき場所へと歩き始める。
その歩くイキョウへ、住民達は声を掛けるが……誰一人としてその足を止めさせることなど出来やしなかった。それほどまでに、今のイキョウにはどうでも良い存在と成り果ててしまっていたから。
誰も止める事の出来ない男の歩みは、たった一人で続いてゆく。その背後には、血の筋が痛ましく辿るように延びていた。
* * *
アステルにあるとある宿屋では――。
「ソーキスさん!! そこをどいてください!! イキョウさんが町に来てるんですよ!!」
「どいて!」「じゃましないで!!」
「ふへー……だめー。絶対に行かせない。<スライムドーム>」
「ソーキスちゃん!! なんでこんなことするの!!」
「皆が行ったら、おにいさんが悲しんじゃうことになる。それだけは絶対にさせないよ」
――ソーキスが全身全霊をとして、イキョウが守りたい者達を守っていた。
* * *
「……」
「待っていたよ、イキョウ君」
イキョウが進むアステルの町並み。その通りに、四人の者達が立って、イキョウの帰りを待っていた。
その者達は、大悪魔と呼ばれる者達。テモフォーバ、サイコキーマ、シュエー、ロトサラの四人だった。
「……なんと哀れな姿なんでしょうかね、クソガキ……」
「……誰」
目の前の男が返した冷たい言葉に、ロトサラは顔をしかめる。こんな冷たい言葉を返されるくらいなら、いつもみたいに喧嘩していたほうがマシだった。
「イキョウ、詳しい話はルナトリック殿とカフス様から窺っております。どうぞこの先へ、町の住人が居ない事はこちらで確認しております故」
「言われなくても分かってるよ」
サイコキーマの言葉にも冷たく返したイキョウは、血の筋を作りながら歩む。
その背後には、四人の大悪魔達がつき従っていた。
「なに」
「イキョウはんから懐かしい香りを感じんす。遠い昔、ワッチ達が仕えていたような、遠い遠いお方と似た香りが」
「私達大悪魔は朽ちては生まれる存在。きっと遥か昔に、誰かを見送る事ができなかったんだろうね」
「だからせめて、代わりに見送らせてください。そして、私達がよく知っていた君のことも」
「スノーケア様から承った命に準じるので後の事は気にしないで下さいね、クソガキ」
「そう」
大悪魔達が放った言葉に返した言葉は、それだけだった。……ただし、その返事は同意や付く事を許した返事ではない。
「――ソーエンに言われたんだよ、一人で行けってさ」
イキョウは、振り返ることなく言葉を放つ。その言葉と共に放たれた虚ろな圧は……大悪魔共を跪かせた。
重圧では無い圧、威圧ではない圧、暗闇の底へ引きずりこまれるような虚ろな圧に、大悪魔達は反射的に体を動かしてしまった。この圧と似たものを、大悪魔達は知っている。底の見えない虚ろに似るものとは、深淵の恐怖だろう。
「こ……れは……」
「頭、に、名が……ゲゼ――」
「それでいい」
テモフォーバとシュエーを初めとし、大悪魔達は自分達の根源にあるおぼろげな記憶を揺り動かされ、膝を付きながら迫真の表情をする。されどそんなこと、イキョウにとってはどうでもいいこと。今重要なのは、一人で歩む事、ニコを人にする事。
「ま、待ってくださいクソガキ!! 貴方、もしかして人ですら無――」
ゆえにイキョウはまだ歩く――この世界で始めてニコと会った、思い出の場所をおぼろげな記憶に乗せて――。
* * *
「カフス、チクマよ。刻限だ。阿呆の結末を引き金としよう」
「ん。この世界の事はロトサラたちに任せた。憂いは無い、大丈夫」
「――私も問題ない。心苦しい別れよりも、イキョウが死ぬ方がよっぽど狂う。始めようではないか――神殺しを」