09.イキョー、イキョーなの!!
マーメイド。スキュラ。
港町に住むものなら、漁業を生業にする者なら、船に乗る者なら、絶対に無視する事ができない隣人。それは海の民。共存と共生と協力をし、共に日常を生きる、決して蔑ろになどできはしない存在。
船員は察する、あの二人は人質だと。狡猾なクラーケンが、船を襲うために準備した、こちらへの対抗策だと。
砲弾や火薬樽の攻撃を防ぐ為、この船を確実に喰らう為、この船の全てを喰らう為、こしらえた脅しの手段だと。
攻撃が出来ができない、抵抗など持っての他、船を捨てて自分達が逃げれば海の民である二人の子供を見捨てることになってしまう。
船員達は身が竦む。単純に強大な者として目の前に居る巨大なモンスターの存在感と狡猾なクラーケンの手腕に、生存本能の恐怖と手段が絶たれて先の見えない絶望感を抱いてしまって。
「に……逃げるか……? 逃げられんのか……? あの子達を見捨てて……?」
「無理だろ……倒せやしねぇ、逃げらんねぇ。人質取るくらいあんなに頭良いんだ、逃げても食われるのがオチだろよ」
目の前の強大で狡猾な存在に、船員達は後ずさりすることすら出来ずに青い顔をしてただただその巨大な存在を見上げる。
対してクラーケンは、巨大な目を船へと向けて、喰らうに確信を持った瞳を船全体へと向けていた。
生生しい瞳に見られている船。その船の見張り台に立つ男は、体を強張らせながら、クラーケンへと悟られぬように眼を静かに動かし、小さく言葉を吐く。
「あ、あんちゃん達はこの船で唯一商いに無関係だ。良く聞け、船の後部に緊急用の小船がある、縄を切りゃ落ちるからそれに乗ってこっそり逃げろ。運が良けりゃ俺達が食われてる間に逃げられる」
「こっちは急いでるって言ってんだろ。船の奴等に任せたザマがこれかよ」
「信じろっつったのに悪いな……って、あ、おい!!」
見張りの男は、この場にそぐわない声を焦って出してしまう。なぜなら、座っていた男が少女を抱えてマストから飛び降りてしまったから。
「別に信じてないよ」
この高さから飛び降りるなど正気の沙汰では無い。傍から見れば、クラーケンの出現によって錯乱した者が、死ぬことも忘れて逃げようと咄嗟に飛び降りたとしか思えなかっただろう。故に見張り台の男は大声を出して、この場にそぐわない焦りの声を出してしまった。
しかし、その予想は外れた。確実に死ぬ高さから落下した男は、落下の衝撃を一切感じさせずに音も無く甲板へと降り立つ。
そして、その男は少女を優しく降ろし、甲板を歩き始め、周りはようやく気付く。青い顔を向けながら思う、この男は、何をしようとしてるのだろうと。
人が一人でクラーケンに勝てるはずも無い。何も出来るはずが無い。そう思う目は、何もできない者達が動けぬまま唯一動いてる男へと向けられる。
歴戦のクラーケンすら思っていた。小さなこの生き物達は、この状況で出来ることなどありやしない、と。
船員達の焦る呼吸と心音が静かに響き、クラーケンの触手がギチギチと船体を締め付ける音だけが響く中、男は音も立てずに、静かに歩く。そして、クラーケンの前に立つと。
「邪魔すんな」
それだけ言った。それだけの一言を言った。たったそれだけ、言葉を放っただけ。
その言葉を向けられなかった船員達には何をしたのか分からなかった、ただ言葉を言っただけにしか聞こえなかった。しかし、その言葉を向けられたクラーケンだけは違った。
クラーケンだというのに、全身に鳥肌が立ったように怖気が走り、本能が体を震わせる。汗をかかないというのに冷や汗のように体表に海水が流れて落ちる。
一声だ、一声だけの言葉はそこに圧倒的な開きを見せる。『邪魔すんな』その言葉を突きつけられたクラーケンが出来ることとは、その言葉に従うことのみであった。震える触手を船体から引かせて、抱えていた海の民二人を怯えるように甲板に下ろす。こうしなければ死ぬから、では無い。こうしなければならないと、死を考える暇もなくそう得ざるを得なかった。
生物の根源たる恐怖である死、それよりも恐ろしい者を前にして、クラーケンという生物は本能的に逆らう事を止めた。
ここから立ち去ることも、逃げることも許されないクラーケン。その姿を見て船の者達は皆感じる、このクラーケンは目の前の一人の男に怯えていると。
「に、にいちゃん何したんだ……」
「何もして無いよ、こんな奴程度に何もする事は無い。ほらクラーケン、お前のせいでこの船止まったんだよ。自分がすべき事は分かるよな?」
男の言葉に、クラーケンはイカだというのに胴体をコクコクと頷かせたあと、船を止めた責任を取るようにすぐさま船の後方に付き、その巨体と触手で船を押し進め始めた。
その光景に、船員達はあっけに取られる。
「一体……何が起こってやがんだ。クラ公が人の言うこと聞くなんて聞いた事――」
「あ゛ーーーー助けてくれてありがとぉぉおおおお!!」
「なのーーーー!!」
現状に困惑し、うろたえる人々、波の音だけが静かに響く船上。その静けさを掻き消すように、二人の少女の声が甲板上に響き渡った。その声の主は、クラーケンに捕まっていた二人の少女達だ。
少女二人は大声を出すと共に、助けてくれた男へと飛びついて安心の涙を流しながら感謝する。
マーメイドに抱きつかれ、スキュラに撒きつかれる男は、その行為に一切反応せずに、先ほどまで抱えていた少女の下へ戻ろうと歩みを進めようとした。
「なのなのなのなの……。怖かったの、ありがとなの。なのなのなのなの」
「命の恩人さんだよぉ、食べられちゃうかと思ったぁ!!」
震えるスキュラとガシっとしがみつくマーメイドの少女たち。だが、男は何の反応もしない。しがみつかれても意に介さずに歩く。
ただ、船上の様子とは裏腹に騒がしい二人はまだまだ話し続けた。
「なのなのなのなの……なの? この絡み付き感、覚えてるの。イキョー、イキョーなの!!」
「うっそだー、そんな訳無いじゃん。イキョウの声ってもっと煩くて賑やかだもん!! 絶対違うよ!!」
「イキョーなの、絶対そうなの!! 無視しないで欲しいの、どーして黙って歩くの!!」
「もしこの人がイキョウだとしても成長した私達に気付かなそー、だってイキョウおバカだもん」
「否めないの、確かに一理あるの。大海原を旅してオトナになったの、おバカなイキョウに教えてあげるの」
「違うと思うけどねー。ねね、おにいさん、私ギャラだよ!! よろしくね!!」
「オトナになったアルなの、えっへんなの」
「あっそ……あっそ? あっそじゃねぇわ。え? マジじゃん、ギャラとアルじゃん、久しぶりだなおい。二人共全然変わってねぇなぁ」
「あーー!! イキョウの声だ!! ホントだったよアル!! イキョウだったよ!!」
「だから言ったの、えっへんなの!!」
「やめいアル、腹が顔に当たってるわ。あ、でも子供特有のぷにぷに感、癖になるわ」
船上の空気を他所に、きゃいきゃいと声を上げるギャラとアル。静かな船を物ともしない二人の声に、多少は抑揚が戻った一人の男の声が乗る。
絡みつくスキュラは小さな胸を大きく張り、抱きつくマーメイドは魚の尾をジタバタと嬉しそうに動かし……。しかし、船上に居る船乗り達は皆、耳を疑って少女二人の声を聞いていた。
「おい……今あの子達なんつったよ……。聞こえてきちゃいけねぇ名前聞いた気すんぜ」
「流石に空耳だろ、んなわけねぇって、指名手配犯がこの船に乗ってるわけがねぇ……」
クラーケンの恐怖が覚めやらない中、青い顔をしている船員達は、新しい問題が浮上してきたことを逃避する。
その者達が視線を送る中、帽子とマフラーの男――イキョウは少女二人に引っ付かれながら、お人形さんのような黒髪ゴスロリ少女の下へと歩いて行く。周りの視線など、気にも留めず。
「見て見てニコ、コイツ等前に知り合ったロリマーメイドのアルとロリスキュラのアル。好奇心旺盛な子供達だ」
「視た、視てた。でも初めて見れた。ニコはニコ、始めまして? よろしくね?」
「そうそう、合ってる合ってる」
「にこ」
「こちらこそ始めましてだよ!!」
「なの!! イキョーとニコはこんなところで何してるの? 旅行してるの? それとも冒険者のお仕事?」
「ラリルレおねーちゃん達居る? コロロちゃん達は? ソーエンもいるの?」
「相変わらず唐突に現れた挙句次々質問飛んでくるなぁ……」
きゃいきゃいと騒がしい中、船員達はもう、確信めいた思いを抱くことしか出来ない。
イキョウとウキヨ、そしてニコとアルフローレン。二人の名は、町の者達が噂し、度々口にしていた。見た目の報告だって受けていた。いまや世界中が捜し求める二人。目の前に居る二人は、ようやく自らの名を明かしたことによって、この場に居る全て者に何者なのかを理解した。
今朝方二人が船員達の前に現れたとき、周りには多くの監視の目があった。しかしその眼の者達はこの二人に反応せず、二人も堂々と町中を歩き、そして一市民のように普通に船に乗った。
誰も気付けて居なかった。船員は愚か、血眼になって探してる者達ですら、この二人の存在に気付けて居なかった。
「冗談だろ……? なんで気付けなかったんだよ、おかしいだろ……こんなの……」
「ど、どうするよ」
「クラーケン御せる相手だぞ、手ぇ出したらこっちがやられちまう」
「とりあえずあの子達離さねぇとヤベぇだろ。じょ、譲ちゃん達!! そぉっと、ゆっくりとこっちに来なさい!!」
「なんでー?」
「その男は危険なんだ!!」
「そんなことないの。ふにゃふにゃしててワカメみたいなの」
「ねー!! イキョウが危ないわけないじゃん!!」
焦りを露にする船員達を他所に、ギャラとアルの二人はイキョウへニュルニュル絡みついたり尻尾でペチペチする。
(刺激しないでくれ) 船員達は口には出さずに皆一様に視線を向けている。目の前の存在達が、何時、どんなきっかけでこちらへ牙を向くかが分からなかったから。
「譲ちゃん達知らないのか!? ソイツ等は指名手配犯のイキョウと天使アルフローレンだ!!」
「うーん……? 何のこと? 指名手配?天使? 最近陸から離れて旅してたから陸の民達の事情はわっかんない」
「でもイキョウが悪い事したのは分かるの。また皆怒らせたの。船乗りさん達にごめんなさいするの!!」
「あー、うい。悪かったな、今後は気をつけるよ」
「世界壊れたら今後も何もなんだけど!?」
「先に言っておくよ。お前等が何もしないならオレ達だって何もしない、だから何もしようとするな。――ニコ、丁度良いし二人から海のお話聞かせてもらうぜ、ついでに後ろのクラーケンにはコイツ等二人に謝ってもらう」
「お話、海の中。にこ」
「やだー!! クラーケン怖い!!」
「食べられちゃうの、なのなのなのなの」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
イキョウは二人に引っ付かれたまま、ニコと手を繋いで船の後部へと歩き出した。周りの視線など無視をして、自分がやろうとしていることだけのために動き出す。
「なんだこの状況……この船……一体どうなっちまうんだよ……」
船の後方にはクラーケン、甲板には天使と世界の裏切り者。その状況を鑑みた船員の一人は、ポツリと言葉を発する。その言葉は、船に居る者達が皆一様に思っていることだった。




