07.もうわからない、なんなのか
「あ……あの……何してるんですか……?」
「ん~? なんか死んじゃいけないっぽいから、電気で細胞溶かしてくっつけてるの」
「……えぇ、何ってるのか分からない……」
禍ツ等の森。その上空。そこに飛ぶのは複数のハーピー、そしてそのハーピー等の内二人の足に掴れて、イキョウとニコは空から景色を見下ろしていた。
何故こうなったのか。ハーピー達は、へたり込んだ仲間が二人を連れて飛び立とうとしている姿を見て、『何をしようとしているかは分からないけど、監視するため』に空へと飛び、その内イキョウがニコを抱え、二人を足で掴み飛んでいるハーピーに仲間の一人が『重くない……?』って聞いてニコを代わりに掴み、どうしてこうしてか自分達は何もされないままただ二人を運びながら森の上空を飛んでいた。そんなハーピー達を、森の民達も地上から追跡するように眺めていた。
空を飛ぶハーピー、その中でも一人、イキョウと直接言葉を交わした者だけが、唯一言葉を交わしていた。
「あ、ごめん。森出るまでは傷塞いじゃダメだよな……約束したもんな」
「いえ……別にしてないですけど……」
「待ってて、もう一回刺すから」
「わぁーーーー!! いいです、良いですから!! 痛いのやめてください!! 私達も何もしないんであなたも何もしないで!!」
「そう? 信じてくれてありがと」
「いいえ……信じるんじゃなくて……あんな傷で生きてる人を見てるとチグハグで気持ち悪くなるんで……本当に気持ち悪いんで……」
死ぬ傷を負って死ぬのはこの森でよく見ることだから当たり前だ、だったら、死ぬ傷を負っているのにも関わらず平然と生きている者を見るのは当たり前では無い。それが気持ち悪くて、嫌悪にも似た怖気を感じるのは、当然のことだろう。
その当然を持って、ハーピーの少女はイキョウの言葉に吐き気をもよおした青い顔を返す。
だというのに、二人は二人だけで、また、二人きりの会話を始めた。
「見ろよニコ、一面森だぜ? ここまでくると木が草に見えちまうな」
「イキョウが見えるならニコも一緒。木は草に見える。にこ」
「訳の分からない会話しますね……」
「じゃあ草は木?」
「でも木は木。キミはキミ、ニコはニコ。草、木じゃない。木、草じゃない。キミ、人なのにじゃない。ニコ、じゃないじゃない?」
「何かじゃないを否定するにはまず、ニコが何かにならなきゃいけないんだ。でもダイジョブ、オレの中じゃニコはもうニコに成り始めてる。あとはその体をヒトにしよう。役割を全うするだけの天使じゃなくて、自分がしたい事を探せるニコっていう存在になろう」
「新しい審判の抗い方。退ける、撃ち破る、違う。ニコも視たことない、方法。きっとキミは、主も理解できる。ニコ達より、世界より、キミこそが主を理解できる」
「主……主? 神のこと? いや神はぶっ殺すって決めてるから理解とかする必要ないし。そもそも一度も顔合わせすらしたこと無いからどういう奴とか分からんし」
「世界が求めて生まれた全能を理解するの、誰も無理。全能だから、それも知ってる。だから、私達に任せた。代わりに視る私が生まれた。キミは世界に要らない、だからきっと、キミが主に必要」
「ほわほわ……知らんわ。そんな自分勝手な奴を慮れるほどオレは優しくないからな。世界達の生まれたいっていう願いに答えて生み出された神が、今度は自分が願いを持ったからその為に世界壊してでも叶えるってのは可笑しな話だよ。誰かに相談すりゃ良いじゃん、泣き言の一つでも言ってこいよ。そんな事しないで自分一人でどうにしようとしてる奴、理解できない、なーんも分からない。分かれないから、オレの守りたいものを害するなら殺してやる」
「イキョウ、にこ」
「大丈夫。お前の事はちゃんと守ってやるからな。約束したからさ、絶対にさ」
「難しそうなお話してます……」
イキョウとニコは、他のハーピー達を無視して二人だけで会話をする。
何も知りえる事のない二人の会話は、それでもその内に気になる言葉が出てきた。
天使の逃亡を助ける者が、神を殺すと言っている。それは可笑しな話だ。世界を崩壊に招く天使を助けているというのに、神は殺そうとしてる。それでは辻褄が合わない。
それは二人の周囲に居るハーピーや、地上に居る耳の良い者なら、総じて覚える違和感だった。その違和感を抱いて、ハーピーの少女は声を上げる。
「えと……ウキヨさん、イキョウ、さん?」
「ウキヨは逃亡名、水晶で聞いたんでしょ? でももう今のオレはイキョウ、親友との思い出が詰まってる名前なんだ。そっちで呼んでもらった方が嬉しい。もう、本当の名前なんて忘れたからさ」
ヘラヘラと語るイキョウの言葉は、表情が見えない故に、どんな感情で語っているかが分からない。真意も感情も、誰もが分かれない。
「はぁ……? あ、イキョウさんって、世界を壊したくて天使に加担してるんじゃないんですか? 手配書には……世界の裏切り者、愚かな忌むべき嘲笑すらできぬ存在、とか、書かれてましたけど……」
「じゃあ他から見たオレはそれで合ってるんじゃない?」
「は……?」
疑問の答えにならない返答を受けて、少女は、引いては周囲のハーピーは、地上で追跡する耳の良い者達は、腑に落ちない表情を露にする。
「別にお前等からどう見られようとか知らんし。どーでも良いからどーでも良い。それよりオレ達運んでくれてありがとな、飴舐める?」
「え、は、いや、え? 待ってください、え、え? それよりじゃないんですけど……」
「どーでも良い事にそれより以外何もないから。ほら、口開けて、羽ばたいて貰ってる代わりにオレが食べさせるから。最近ニコと作った濃厚ピーチバニラだ」
「……あまぁ……美味しい……」
半ば無理矢理にお口に飴を押し込まれたハーピーは、口内に満ちる甘さに浸る。
森には純粋な甘味というモノが少ない。自然な天然の果物は豊富にあれど、菓子という娯楽の食は少なく、更に少ない中で美味しさに浸れる物は一つとしてなかった。
普通だったらありえない。世界の敵を自ら運び、その者の胸中を聞こうとして、不意に食べさせられた物を警戒することなく味わうなど、ありえることではなかった。故に周囲のハーピー達は、飴を舐めて甘さに浸る仲間を見て、なにやら特殊な洗脳を受けたのでは無いかと疑う。
懐疑的な目を向けるハーピー達。その中で、ニコは自らを掴み吊るしているハーピーの足を引き。
「あれ、ニコとイキョウ、一緒に作った。食べてみて」
「そーゆーことならニコ。ほれ」
ニコの言葉へ懐疑的な表情を浮かべるハーピーを他所に、イキョウは右手で飴を的確に投げ、ニコへと受け取らせた。
「はい、あーん」
そしてニコは、包み紙を剥がし頭上に羽ばたくハーピーへと、その手に持つ飴を掲げる。
懐疑的な顔をしているハーピーは、もしこの菓子を拒んだことで二人の反感を買い生の陵辱を受けるくらいならと、おそるおそる、冷や汗を滲ませながら口を運び、覚悟にも似た決断を受け入れる……が……。
「ぁ、美味しい……」
口腔に広がる純粋な味に、一言小さくつぶやく。
「だってさ、ニコ。オレ達が作った飴が美味しいって言ってもらえたよ。料理なんて味しないのにな」
「ニコ、にこ。……ニコ、造ったもの、褒められた。こういうときも、ありがと?」
「前にも野菜おすそ分けしてもらっただろ? 誰かから何かを受け取ったときに、ありがとうって言いたくなったらありがとうなんだよ。何の決まりもなくて、絶対にこうしろってのもなくて、自分が言いたくなったら言うのがありがとなんだよ。『楽しい』や『嬉しい』は誰かと共有するものだからオレと一緒で良いんだ、でも『ありがと』は伝えるものだからオレと一緒じゃダメ、ありがとは、ニコが決めるんだ」
「……難しい」
ハーピー達は思う。この二人は何を話しているんだ、と。たった二人がずっとする会話は、決して世界を崩壊に齎す者達の会話には聞こえなかった。
『ありがとう』など、生きている者は無意識に放つ言葉だ。赤子の頃から成長するまで、その言葉に意識など向けたことが無い。心が反射的に言いたくなる言葉が、他者への感謝としての『ありがとう』なのだ。そんなこと、一々考えずとも心がちゃんと言う。
感謝の言葉は、生きてるならば必然的に生まれてしまうもの。言いたくなってしまうもの、無意識のうちに反射的に言ってしまうもの。尊い者や敬謙なる者、年長者は『ありがとう』の先にある『ありがたい』を説く。しかし、『ありがとう』はどんな者であろうと根源に存在するのだ。悪人であろうと、善人であろうと、軽口であろうと、本心であろうと。
それを『難しい』と表現する者が居るのならば、悩める者が居てしまうのなら――ヒトであらずとも、それはヒトの言葉を表出しようとしてるから。
どうでもいいと断ち切るように切り捨てる者よりも、よほどヒトであろうとしている。
「……ニコ、決めた。イキョウと一緒に造った飴、美味しいって言ってもらえた。もらえた、だから、ありがと、にこ」
ニコを掴むハーピーは、見上げる少女が自らの指を用いて口角を上げる姿を目にする。それと同時に、感謝の言葉を耳にする。
よもや世界の敵から感謝を告げられるとは思って居なかった。世界を壊そうとし、自分達が殺そうとしてる者が、何を考えているのかが全く分からなくなる。
だからこそ、二人が気持ち悪い。ここに居るはずなのに何も分からず読み取れず、感情と言葉が噛み合わない。
「…………。貴方達二人は何を成そうとしてるんですか。逃亡の果てに何を求めてるんですか」
故に問う。森に住まう純粋な民は、二人から悪意と言う者が一切感じ取ることが出来ず、しかし、明らかに世界の敵となる行為をしてる悪事を働いている為、その本心を聞くために。
「オレはただこの子が人で在れるようになって欲しいだけ。その為にこの子を生かす。邪魔する奴が居るなら容赦なく生かしてやる」
「ニコは天使、抗いを視る、最期まで。でもニコは、ニコになってみたい。イキョウと一緒に笑ってみたい……ニコの願い、そう。キミと笑ってみたい」
「願うなら約束してやる。人になれたら、そんときは二人で存分に笑おうな」
「にこ」
「またいつの間にか二人の世界に……」
ハーピーの少女は、ハーピー達は、二人の会話を聞き、そしてまた二人が会話で会話をし始めたことに呆れる。……それと同時に、沈んだ笑いも浮かべる。『何が、笑い合いたい』だ、と。
イキョウの眼で混乱していた頭は、ようやくのときを持って冷静になった。まるで、冷や水を被せられたかのように。
「……はは、おかしいですよ。アルフローレン、あなた、自分を倒さなきゃ世界が壊れるって言ってたじゃないですか。空のヒビが世界を割るって言ってましたよね? 貴方達天使が、そしてその主である神が、世界を審判するって言ってました。だから私達は必死に戦って世界を守ろうとしてるんですよ? あの戦いで森の民達の中でも死者がでました。貴方が殺したんです。なのに、貴方は、言うんですね、誰かと笑い合いたい、だなんて」
もし、二人が訳の分からないままで居てくれたなら、パーピーたちは困惑したまま二人を運んだだろう。真意が読めず、何をしたいのかも分からないままだったから。しかし知った、アルフローレンの一端を知った。願いを知った。
世界中の者達が二人を追うのは、世界が崩壊するから。それよりももっと追う理由がある。何にも変えられない理由、換えがたい訳。――自分達の仲間、隣人、家族が、あの戦いで命を落としたからだ。
散った仲間が守ろうとした世界を、守る。死んで行った仲間達が守ろうとした世界の為に、天使を殺す。そして天使の逃亡に加担している裏切り者も、殺す。裏切り者のイキョウこそ、死んで行った者達を侮辱しているようにしか思えない。
今が絶好のチャンスだった。二人によって生み出されたこの状況は、森の民達にとって好機だった。
今やアルフローレンの力は感じない、衰え、ただの少女でしかない。例えイキョウに抗われようとも、今ここから落とせばアルフローレンは確実に死ぬ。
そうすれば、自分達は凄惨な生を与えられることなど理解してる。でも、そうすれば、殺したい者を確実に殺せる。たとえ、自分達がどうなろうとも。
その認識は、ハーピー、そして地上の森の民達に伝播する。『何を殺しあぐねていたんだ』と、『何を怯えていたんだ』と。
最初に抱いていた覚悟は、あの目によって呑まれた。だが、しかし、それでもやらなければいけない。『笑いたい』と言った者は、自分たちの仲間を殺して笑い合えなくした。その思いは感情となり、感情は復讐となり、そして森の民達を再燃させた。覚悟とは違う、復讐の熱さをその身に宿す。
あとは、アルフローレンを掴んでいる足を離すだけ。その後に起きることなどは考えない。この一瞬が全てであり、後先は考えない。
「……言ったよな。何もしないなら何もしないって」
「先にされたのは私達の方です。仲間、殺されたんです。もうとっくに、されてるんですよ」
イキョウの平然とした言葉に、ハーピーの少女は冷たい眼で応える。飴を吐き捨てながら。
「うけけ……。そっか、そうなのか。傍から見ればニコはアルフローレンで、だから生にケチが付けられる」
「何笑ってんですか、気持ち悪い」
「また、間違ったんだな。オレは生かすんじゃなくて、殺せば。良かったんだ。そうすればオレにヘイトが向く」
「笑い方も気持ち悪い、初めからずっと気持ち悪い」
理解できない男がヘラヘラと語る姿は、周囲に嫌悪と苛立ちを覚えさせた。世界の裏切り者、死んで行った者達への裏切り行為をしている男が、ヘラヘラしていたらそれは、当然のことだろう。
「――でも、ダメだ。それもきっと間違ってる。何が正しいんだろうな。ソーエン……」
「何コイツ。キモ」
その言葉が森の民達の全てだった、最後だった。その言葉が合図かのように、イキョウを掴んでいたハーピーの少女の足に強力な力が加わり放さんとする。助けに生かせないために。アルフローレンを掴んでいたハーピーの足が開かれる。落として殺すために。羽のないニコに、空を飛ぶ手段は無い。羽のないイキョウに空を駆けて助けに行く手段などない。
森の民達は確信した。これで、アルフローレンは殺せたと。この後に起こるのは、イキョウの暴走か、それとも復讐か。仮にそれが起きようとも、森の民達は抗う覚悟があった。復讐対象の加担者にむざむざと殺されるほど、残された者達の復讐の炎は冷たくは無い。
森の民達が抱いていた覚悟は、イキョウによって呑まれ、しかし復讐の炎が盛って二人へ牙を向いた。
アルフローレンは風にたゆたいながらその身を地へと落とす。イキョウはそれを助けさせまいとしたハーピー達に迫られる、地上から弓や魔法を向けられる。地に落ちる天使は、群がれるイキョウにとってニコだ。誰一人としてニコをニコとして視て居ないこの場で、それでもイキョウはニコを視る。
「ニコ、絶対に守るからな」
その言葉。それを聞いたハーピーの少女の足に、限界を超えた力が込められる。放さないという意思は、イキョウの肩を突き破らんばかりに爪を食い込ませる。
「させやしない!! 何があっても絶対にお前を放さな――」
ただし。この男が話を聞くものか。目を向けて居ないものの話を聞くことなど絶対にない。
誰もがイキョウに目を向けていた。アルフローレンの死を邪魔させない為に。しかし、誰もが見ていたというのに――いつの間にか、ハーピーの少女の足は切断されていた。掴んでいたはずの足は、痛みにも気付けないまま、断面を持っていつの間にか分離させられている。
そしてイキョウは、躊躇なくハーピーの顔面を蹴りつけて勢いをつける。落下するアルフローレンを助ける為に。
跳躍したイキョウの目にニコ以外は映って居ない。空を突き進むイキョウは、ニコ以外目に映って居ない。その手を、ニコへと伸ばす。
「空の旅、楽しかった?」
「空の風、木は草に視えた、飴、ありがとだった。ニコの楽しかったぞ、だった」
「良かった良かった」
イキョウはニコしか視ないまま、その肩についてる鳥の脚を放って、抱き締める。
「その足さっさと付ければぴったりくっつくから」
「あし……? あし……あし!? 私のあし!?」
イキョウの言葉でようやく、ハーピーの少女は自らの足が切断されていることに気付く。言われなければ気づけない、そんな切断はこの男だから可能なこと。
イキョウとニコは落下する。たった二人で、寄り添って。ハーピー達は滑空する。二人を殺すために。森の民達は狙う、落ちる二人を。
「はぁ……永いよ、永い。こんな森、寄り道程度でしかないんだからさっさと通らせてよ」
冷めた男は、熱のある視線達へめんどくさそうな言葉を吐く。
勢いの付いた二人は、その背にある森を流れる川へと叩きつけられようとしていた。普通の人間ならば生き残る事はありえないだろう。
ただし、相手はアルフローレンを相手に戦った仮面部隊の一人。ならば森の民達はあの男が受身を取り、水に着水をして生き延びるとでも思っている。そこを迎撃しようとしている。
しかし、イキョウはアルフローレンを抱いたまま動かない。背中から叩きつけられる体勢のまま、動こうとはしない。
まだ――いつ――ずっと、そのまま。そして、イキョウの背中は水面に叩きつけられた。巨大な水しぶきと轟音を上げて、無抵抗のまま背中から叩きつけられる。
その姿に、あの男が生きようとする意志が見えない。気持ち悪い。生き様が生きようとしていなくて気持ち悪い。
大量の水の飛沫には血が混ざり、眼前すら覆う豪雨となり、冷ややかな森の民達の目を更に冷めさせる。
「ふん……なんだアイツ。死んだか」
「何をしたかったんだか、世界をかき乱す愉快犯にでもなりたかったのか? ……気色悪い。皆、一応アルフローレンを探せ、息があるなら必ずトドメを刺すのだ!!」
血を含んだ豪雨の中、森の民達の声が飛び交う。飛沫が血を纏うほどだ、体はバラバラになり、決しては生きて居ないと直感させる。
自ら体に穴を空け、最後には抵抗もせずに水面へと叩きつけられた男。その行為に生の執着が見えない。見えないから、日々を生きようとしている森の民達からは侮蔑にも似た感情を向けられる。
結局、何がしたかったのか分からなかった男。生きたくないのならば勝手に死んでいろ。そう思いながら、森の民達は飛沫の雨が晴れるのを待つ。
血と水の流れは匂いを消し、降る轟音は音を消し、視界は赤い水に塗れ。しかし五感で感じずとも分かる。この雨が晴れたら、目に映るのは二人の亡骸だろう、と。
降る雨の量が減る。段々と、減っていく。ならば視界に写るのは、バラバラになった二人の亡骸だろう。そうでなければ、おかしかった。
「傷開いちまったよ……。骨も筋肉もズタズタだ」
――おかしかった。立ってた。男が、少女を抱えて、水面に立ってた。おかしかった。果たして、アレは平然と立っていられる姿なのだろうか。体の端々が歪み、臓器に穴が空き、漏れ、骨が皮膚を突き破る姿など、生きている者の姿では無い。
ダメだった。覚悟は呑まれた、そして灯した復讐の炎は、こんな奴に向けていられるほど歪んでは居なかった。仲間の死によって灯らせた憎き真っ直ぐな炎は、こんな気持ちの悪い男を殺すために燃えるわけじゃない。仲間の尊い死の恨みを、こんな訳の分からない気持ち悪い奴に向けてはいけない。
「別に勝手に復讐心に燃えるのは良いよ。でもさ、こちとら六体の天使と戦って、副次的にお前等助けてやってんだぜ」
イキョウはニコを抱えたまま、飛び出た臓器や骨を体に押し込めながら話す。
死に生きて立つ男の言葉に、森の民達は青い顔をしながら浅い呼吸でしか返せない。自分達は今、何を相手にしているんだろう、天使よりも、何を目の前にしているんだろうと言わんばかりの呼吸を浅く繰り返す。
「こんな傷くらい何度も負ったよ、あっちでも、こっちでも。でもな、死なせちゃくれない。生きなきゃいけない。オレはここに居るからオレがやる。でもさ、何でオレなの。誰か代わりになってくれても良いじゃん。生きたかったよ、死にたかったよ。そうやってオレは戦ってきて、今何もしてないお前等に刃を向けられてる。だからね、おすそ分けしてあげる。そんなに世界を守りたいなら、だったら生きたいお前等がもっと頑張っとけよ。オレは守りたいもの以外どうでもいいんだよ」
直後。そう言い放ったイキョウの言葉に呼応するように、その身から黒緑の泥が噴き出る。その泥は水を伝い、地面を伝い、空気を伝い、絶望が這いよるようにこの場に居る全ての者達へと這う。
その泥は、混沌。今のイキョウの痛みを有した混沌。身が裂け、骨が割れ、血が流れる男の痛みを寸分違わず有した、痛みの混沌。
おぞましかった、触れてはいけないと本能が叫んでいる。が、この男から逃げられるはずも無いだろう。
「き、もち、わる、いやああああああああああああああ!!」
「おぇ、お、あ、あ、おおおお、うううぶうぅぅぅ!!」
声が、森に響き渡る。
その混沌に触れた者は皆等しく痛みを味わう。身が裂ける強烈な鋭い痛みを、骨が割れる痺れ響く痛みを、血が流れ出していく冷たい痛みを。痛みの中、孤独でしか居られない冷たさを。
一回、たった一回でもこの痛みを知れば、もう立ち上がる気など起きない。痛みに発狂し、されど痛みは消えず。嗚咽しても消えず。もがく余裕さえ無く。混沌による痛みのおすそ分けは、怪我をしている訳ではないから死は無い。しかし、皆思う。もう、殺してくれと。それでも死ねない、死なない。そして痛みから逃げることすら許されない、だって、目の前の男は今も、そして今までも、傷を負っても尚戦い続けていたから。
「思ったよりも大反響のようで。……世界の為にとかいきまいてた奴等がこんなんでヘタるなよ、そんなんで良くこのオレに復讐心とか燃やせたな。オレの目如きで尻込みしてたお前等なんて、こんな痛みで膝を付くやつらなんて、結局『死んでも仲間を、世界を』止まりなんだよ」
絶望の阿鼻叫喚が響き渡る中、イキョウの言葉は静かに森の民達の中に沈みこむ。そこへイキョウは更に、おすそ分けをしてあげる。何かを理解させるように。
「これが、ガランドウルに貫かれて爆殺されたときの痛み」
森の民達に伝わる痛みは変わる。が、結局は阿鼻叫喚が続くだけだった。苦しみ、悶えるだけの叫びが、森に響き渡る。
「これがマリルフォールに溶かされながら胸に大穴を空けられた痛み。これがユーステラテスの魂の暴風を食らったときの痛み、これがギルガゴーレの爆発を受けた痛み、これがオルセプスに臓器を裂かれた痛み、これがフォルカトルと死なないだけの切り合いをした痛み」
脳が悲鳴をあげ、神経は引き伸ばされて擂られ、筋肉が割れ、骨が融解するするような苦痛を、森の民達は味わわせられる。
その後に残るのは、絶叫では無い。茫然自失にも似た、掠れた呼吸音だけだった。
「これくらいでくたばってるお前等の前に立ってる奴が今まで天使殺してきたんだよ。寧ろ運が良いんだよ、お前等は。オレ達が居なかったらお前等はあいつ等と戦ってとっくに全滅してるし、オレ達が居たからお前等はのうのうと生活して『たったこれだけの痛み』を味わって死ぬことを知らずに済んでるんだよ。今まで天使と戦ってこなかったお前等が今更天使を殺すなんていきまいて、結局コレだよ」
イキョウは片腕でニコを抱えながら、近くに倒れていた森の民に近付く。
「お前等さっき、仲間が死んだどうこう言ってたよな。逆だ、コレくらいで済んでるんだよ。オレ達が戦ってきたから、ようやくアルフローレンとの戦いで死人が出たんだよ、今更だよ今更。しかも、オレがお願いしたからアルフローレンは全人類を相手にせず戦えるものだけを相手にしたんだよ。分かるか? ここに居るお前等もお前等の家族も、生き残ってるやつ等は全員、死ぬことが確定してるはずだったんだよ。そんな未来にならないように、アーサー達が頑張ったんだ、オレ達の仲間も頑張ったんだ。だからオレも頑張ったんだ。だってのに今更参戦してきたお前等がよくもノコノコとこの子を殺すだとか復讐だとか言えたもんだ」
抑揚のない声で話し続けたイキョウは、その足をゆっくりと森の民の頭に置く。
「お前等が生きてるのは優しいアーサー達のおかげ、オレの仲間達が優しいおかげ、優しいこの子がオレのわがままを聞いてくれたおかげ。死んだ者を考えて憎しみを抱くより、今生きてる事を感謝しろよ。ここで帳尻合わせあげようか」
イキョウはその足に体重と力をかけようとする。この行為はニコの為では無い、殺意など一切篭って居ない。ただ、あるはずだった未来を今ここに再現しようとしてるだけ。
自失にも似た状態になった森の民達は、心がぼやけている故にイキョウの言葉が脳に響く。あのアルフローレンとの戦い、そこで皆は思っていた『仮面部隊が居れば勝てる』と。それは信頼であり、同時に他人任せでもあった。そしてあの戦いには『戦う者』だけが参戦し、そして死んで言った者達は『死ぬ覚悟』を持っていた者達ばかり。
ただし、それでも仲間が死んだ事実と感情は、消えはしない。たとえ目の前の男と、その仲間達が今まで人知れず天使を葬っていたとして、その感謝は仲間の死を帳消しできるものではない。たとえ天使が殺す者を限っていたとしても、殺された者が居ることには変わりは無い。
「憎しみを持つ奴らを全員殺せば憎しみは無くなるな、うん、そうすればニコの生にケチが付かない。これは正しいだろ」
その言葉を最後に、イキョウが森の民を手にかけようとした――が。
「イキョウが正しいならニコも正しい。これは、イキョウの楽しい? ニコも楽しい?」
ニコの放った言葉、その言葉でイキョウの足が止まる。
「……………………ニコの前でやることではなかったね……そうだよバカが、この子に笑っていて欲しいんだろ。そうだ、ニコは笑いたいって言ったんだから、笑える事をしなきゃ……。混沌使うとオレに呑まれてオレが居なくなりそうだ、オレが元に戻るだけだろ」
ニコの言葉にイキョウは独り言で独り会話し、そして足をどける。
森の民達はイキョウが足を退けようと、退けまいと、もはやその行為に反応する事は無かった。自失した精神は縋る者を追い求め、追い求め、追い求め
、そしてようやく
口が言葉をつぶやかせる
。
呆然とした口を、小さく動かしてつぶやく。
「私達はどうすれば良いのでしょう……チクマ様……」
「チクマ? あぁ……そっか。この森って……。
チクマ、ごめんな」
森の民の呟きを聞いたイキョウは、何かを察し、木々を見上げる。その眼は、ようやくニコ以外の光景を見た。
「……オレ、間違いそうだったんだ……。ニコ。お前のおかげで間違わずに済んだよ。ありがと、ニコ」
「イキョウのありがと、言われるとふわってなる。にこ」
「お前の笑顔でオレもふわってなるよ」
言葉を交わし、そしてイキョウは歩き出す。先ほど足を切ったハーピーの下へ、自らの足を抱えて呆然としてる少女の下へ。
先ほどのイキョウによる混沌で生気を欠いた少女。その足を、イキョウはニコを降ろしてその手に持つ。そして倒れている少女の足に切断された足を付けて、包帯を巻いた。それだけで、イキョウに切られた足はじきに元通りになる。
「殺そうとして、治してる。これは優しい?」
「こんなの優しさじゃないよ。ただチクマが助けた森の奴等が生きてるなら生かすだけ。死んでる奴らなんてどうでも良い、勝手に死んだんだから、生きてる奴等が勝手に心の整理しとけって思える奴に、優しさなんて在りはしない」
「在りはしないならイキョウは優しくない?」
「そうだよ。本当に優しい奴は皆に優しいんだ。その優しさを知ってるから、オレ如きは優しいなんてありえない」
包帯を巻き終えたイキョウは立ち上がり、ニコに右手を差し伸べる。もう、ここでやることなど残っていなく、そもそもここでやろうとしていたことなど一つも無くて、止まってた歩みを再会しようとしただけ。
「行こうか」
差し出された右手。それを、ニコは取らずにイキョウを見上げる。
「まだ。イキョウ、包帯巻いた。ニコも何かする。飴、全部欲しい」
「良いけど……?」
イキョウはキャンディーボックスを取り出し、箱をニコへと渡す。
その箱を受け取ったニコは、中に手を入れ次々飴を取り出し、入ってる飴を全てハーピーの少女の前に積み重ねた。
「何してるの? お供えモノ?」
「飴、美味しいって言ってくれた。ニコとキミが造った飴を褒めてもらえた。だから、ありがとの飴をいっぱいありがとした」
ニコの言葉に、イキョウは何も返さない。
ニコは、しゃがんでハーピーの顔を覗き込むと、お話しする。
「ニコはニコ。あなたのお名前は?」
その問いに、憔悴したハーピーは、無意識に答える。
「タラ……ウィム……」
「タラウィム、にこ」
ニコは指で口角を上げて笑いかける。その顔に、ハーピーの少女は何も返すことは無い。呆然とした眼で、何処か遠くを見ているだけだった。
しかし、例え反応があってもニコは変わらないだろう。その場から立ち上がり、今度は自ら左手を差し出して、イキョウと手を握ろうとする。その手をイキョウが拒むはずはなく、片方は優しく、片方はぎゅっと、二人で手を繋いだ。
「きっと……きっとさ、ニコは優しい人になれるよ。賢いお前は、オレよりもずっとまともな人になれる」
「きっと、きっとさ、それはイキョウがニコに優しくしてくれるからだよ。キミはキミだから、ニコもニコになりたいって思える」
「……オレは、決して優しくは無いんだよ」
「タラウィム、またね」
「その音が何かも分からないもの。それの名前なのか、何なのかも」
ニコは去り際に顔を振り向かせながら手を振り、イキョウはただニコだけを見ながら、二人は森を立ち去った。
ただ、森の民達は聞き逃さなかった。イキョウがチクマの名を呟いたこと、謝ったこと、そして――あれだけ殺そうとしていたアルフローレンが、飴を置いて『ありがとう』と『またね』と言ったことを。焦燥しきった無意識の自我に伝わる二人は、悪たる者達の姿だったはずなのに、決して悪行を行おうとしている姿には見えなかった。




