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 ――記述者の無い世界記録①―― 4

「たぁだいまぁ」


 夕暮れ前に、恭介は玄関から自宅の内へと声を掛ける。気配で分かっていた、ココアが帰ることなく未だ部屋に居ることを。


 彼は靴を脱いで玄関前の廊下を歩けば――ふと感じた匂いに鼻を鳴らす。


「なにこの芳醇で甘い匂い……ココアー! お菓子買ってきたならオレにもちょーだい!」


 不思議な匂いを感じて廊下を歩く恭介は、嗅いだ匂いの結論をお菓子と判断し、そしてココアが外出をしてお菓子を買って来たのだと思い、部屋の扉を開いて光景を眼にすると――。


 そこには、はだけたスウェット姿をしながらベッドでスヤスヤと眠るココアの姿と、ベッドの上で乱雑に散らばっているマンガたちが目に映る。


 他にも、テーブルの上に置かれた酒の空き缶と、捨てられてないレトルトパック、芯が凹んだ鉛筆や、角が無くなった消しゴム、沢山の黒い消しカス――そして、ベッドの周りに溢れんばかりのティッシュ。


 お菓子があると思った恭介は、匂いを辿れば発生源はココアの体とティッシュからだった。そして感じる匂いをお菓子ではないものとして分析すれば、甘さや芳醇の他に、汗や他の分泌物も含んでいるような香りだ。だが、汗だろうと分泌物だろうと、全くと言っていいほど臭さを感じない。部屋に漂う香りは匂いや臭さではなく香りであって、その香りは女の子と女性を混ぜ合わせたような可愛くも淫靡な香りであった。


 その匂いを感じながらもぬぼーっとした顔をしている恭介は、ベッドで寝ているココアのあられもない姿や漂う香りに当てられることもなく――――デコピンをして目を覚まさせる。


「……ぅぁ」


「『ぅぁ』じゃねーんだけど。お前さ、人が善意で貸してやったベッドで何してくれてるわけ?」


「オ○ニー…………あ。まだ、中ぬるぬるでじゅっぷりしてるから使って良いよ」


 ココアはそういうと、寝たまま唯一着ているスウェットの上着をたくし上げて、下半身や胸部を恭介へと曝け出す。


「じゃねぇんだわ」


「……お兄さん淡白だから、こっちの方が良いと思ったけど。もっとえっちなこと言ったほうが興奮する? お兄さん良く分からないから私も良く分からない。初めて」


「そういうことでもねぇんだわ。そんでお前がこれまでどんな生き方してたとか、どんな環境に身を置いてたかとかもどうでもいいんだわ。今のココアはココアだから」


 恭介の発言を、ココアは理解が出来ない。今の自分、過去の自分、とか、良く分からない。でも、何気なく言われた『ココアはココアだから』という発言が、どうしてか心に響――きそうになる前に再度デコピンをされた。


「でもそれはそれとして何してくれてんのお前。人ん家でハッスルすんなやおい、この布団も一昨日コインランドリーに持ってったばっかなんだぞ」


「お兄さん、どうして私のえっちなお乳やお股みたり、えっちな匂い嗅いだのにえっちな気分にならないの? 皆なるのに。

 男の人なのに接し方が分からない」


「その皆は人間の皆だろうケドこちとらその範疇外なんじゃい。逆に聞くけど、この甘ったるくて汗っぽいのにドエロイメスの匂いはお前の体臭なのか?  人が出して良い体臭かこれが?」


「私の汗もよだれもえっちなお汁も全部、男の人が大好きな匂いらしいよ。私には良く分からないけど」


 ココアが放つ香り、それこそ、彼女が今までにないほど淫猥な快楽を貪ったことで部屋中に漂う香りは、もし男があてられたら理性など吹き飛んでしまうほどの代物となっていた。


「お股直接嗅いでみてもいいよ。えっちしたくなったら言って、いっぱいご奉仕するから」


「別に奉仕はしなくて良いよ。でも匂い嗅がせて」


 恭介は、ココアのもちもちとしてふわふわとした太ももの付け根にある部分に鼻先を沿わせて匂いを確かめる。


「へー、凄いわ。オレの中でさ、ワースト……一番臭かったのは死んだザリガニが浮かんだ夏場の水槽で、一番良かったのが柑橘っぽい匂いだったんだよ。でも今一番が塗り変わった、今後も変わらないくらいにココアが一番」


「…………一番?」


「一番」


 ココアは、今まで色々な男から賞賛や愛の言葉、口説き文句を聞かされ続けてきた。多くの言葉を並べられたり、本能的に求められたり、事前に考えてきたような自己満足のカッコいい言葉を向けられたりと。そんな数々の言葉は、ココアの心になんの影響も齎さなかった。そもそも気持ち悪いと思っている者達から放たれる言葉は何を言われようとも気持ち悪いだけだ。だが、この瞬間の、こんな行為をして、飾ること無く短い言葉を向けられた、『一番』という恭介の言葉は――今までのどんな言葉よりも、どんな金持ちや権力を持つ男から吐かれた言葉よりも、比べ物にならないくらいココアの心にはっきりと響く。


 心臓が暖かい、『一番』と言われて体が暖かい。でも、それが何によるものなのか、ココアには分からない。けど、ココアが温かさを感じている事は、自分でも自覚することが出来る。


 人はそれを『嬉しい』と理解することが出来る。だがココアは、それをどう表現すれば良いのか、そもそもこの暖かさはどうして暖かいのかが分からない。


 暖かい体で、ココアは呆然としながら胸に眼を向け心臓がある場所を撫でていた。ここに答えがある気はするが、口の無い心臓は言葉で答えを示してくれない。それでも体は、確かな暖かさを感じてもっと欲する。


「一番なら……使って良いよ? 使って…………?」


 今まで淡白で振幅のなかった彼女は、例えお店で働いていたときの演技ですら出したことの無い甘い声と、気持ち悪い男には絶対に向けることの無いメスを向けて、紅潮した頬と潤んだ目を、恭介へと向けた。


 だが、アホはどれだけ聡くてもアホだ。例え他人の気持ちが分かったとしてまず優先すべきは目の前のこと。そして今の恭介には優先すべきことが山ほどある。


「こちとらレポートも試験勉強も晩飯も部屋の換気もタバコもお前に渡すものも、も、も゛、もッ! やることありまくってんだよ! とりあえずお前は風呂入ってスウェット洗濯機にぶち込んでこい!」


 ココアは恭介によって抱え上げられ、脱衣所まで連行をされ始める。少し驚いたのは、恭介が意外と力持ちだということ。服のシルエットや立ち振る舞いから、長身でひょろひょろな体系だと思っていたが、意外にも自分を軽々持ち上げて尚余力があるように思えた。ガチムチの男性、ぶよぶよしたおじさんや、ジムに通ってるおじさん、スポーツマンだと自慢げに話す成人男性や同世代、特筆することも無い標準体型の男達、裕福な家庭で甘やかされて育った痩せ型の同世代、太り気味の同世代、記憶に上げれば色々な男が思い出せるが、ココアだからこそ恭介の体は根本から違うと体感で分かる。スポーツやジムで鍛えた力強さではなく、筋肉の余計な肥大も無く、肉体の芯から密度の濃く無駄の無い体が自分のことを軽々と抱えている。


 なんだか、安心する。見た目からは分からないのにこれだけ力強く、なのに自分へ一切危害を加えることは無い、嫌なこともしてこない。


 初めての感覚に、ココアは抱えられた猫の如く大人しく脱衣所まで運ばれ、優しく降ろされて風呂入れと言われる。言われたままに従うのではなく、言われたことをしたいなと思いながら、彼女は脱衣をしてスウェットを洗濯機に入れ、湯船に入る前にシャワーを浴びていれば――恭介が平然と風呂の扉を開けて声を掛けてくる。


「大学の知り合いに女向けの風呂用品聞いてきたからからこれ使って。合わなかったから言ってくれ」


 そう言って裸のココアは、シャンプー類やソープ、ボディスポンジ、ヘッドタオルなどを渡して『ごゆっくりー』と去って行く。


 受け取った物品を抱えるココアは、店と比べれば何段も落ちるグレードのそれらを、店にあった物達よりも大切そうに見て丁寧に使った。使っても補充されていたボトル類は、無くなったら嫌だなと思いながらプッシュし、体を洗うスポンジは磨耗しないよう優しく泡立ててなるべく滑らかに肌を磨いて、ヘッドタオルへは普段よりも丹念に髪をしまって湯船に浸かる。


 そもそも、彼女にとってお風呂とは、売り物である体を綺麗にし、気持ち悪い男達から触られた不快感を洗剤で流して、中に吐き出された気持ち悪いものを掻き出す時間でしかなかった。だが、今日のお風呂は気持ちがいい。昨日の、体を温めたお風呂よりも、もっと何かが温まる気がする。


 お風呂って、こんなに気持ちが良いんだ。


 ココアが抱いたその実感は表情をほこばせ、普段では絶対にしない長風呂をすることとなった。


 ――


 体の芯まで温まったココアは、脱衣所に用意されていた衣類を身に着けて部屋へと戻る。


 扉を開けた彼女は、冬場でも暖かいモコモコパジャマを着ており、その姿を目にした恭介はコタツでタバコを吸いながら振り向いて、彼女へと視線を向けた。


「どーよ、サイズ丁度良いでしょ。んげー自慢だけどオレの目に掛かればこんなもんよ!」


「体綺麗にした」


 得意気な恭介を前に、ココアはパジャマの上をたくし上げ、下を下げ、恥ずかしげも無く上下の人には見せない部分を露にして見せる。その目は、匂い嗅いで確認してと言っているようであった。


「あら偉い」


「確認して?」


「ナイトブラやパンツはご所望?」


「お乳は苦しいからヤダ。ショーツもいい、寝るときくらいはお股自由にしたい」


「そー。

 そっちの紙袋には服と下着入ってるから。靴は二足買って靴箱においといたよ、好きに使って」


「うん。

 確認しないの?」


「する暇ないの」


 顔をコタツへ戻した恭介は、タバコに火をつけながら目の前のノートパソコンを弄りだす。パソコンの周囲には様々なレジュメや教科書が置かれていて、それを元にキーボードを叩いて入力を行っていた。


 ココアにとって、それが何をしているのかが分からない。分からないまま恭介の対面に座って、彼がパソコンへ向けている顔を見る。


 恭介を前にするとそわそわする。お話したいなって、思う。客の話に面倒と思いながら猫を被って付き合うのではなく、今は自分からお話したいと思えてしまう。


「ずっとバンダナしてる」


「する価値があるからね」


「何してるの?」


「ガッコーの先生に、こういうこと調べてまとめたよーって報告する資料を書いてるの」


「ペンと紙ないのに文字書けるの?」


「書けちゃうから凄いよね、頭良い人のおかげだよ」


 キーボードのカタカタとなる音を聞きながらココアは質問をして、恭介は周りの資料や教科書に目を向けながらパソコンの画面を一切見ずに言葉を返す。しまいには、ココアへ目を向けながら周りの文書やパソコンも見ずにキーボードを叩き始め、タバコの煙を吐きながら口を動かしていた。


 そして彼は、目をココアへと向けたまま指を動かして話を続ける。


「そういやお前さぁ、昼レトルトのカレーと酒だけで済ませたろ」


 その言葉を聞いたココアは、すぐに自分の目の前にあるドリルを開いて、一生懸命に書いた『ありがとう』の文字を恭介へと見せた。


「あらま、良いよ全然。寧ろ、テーブルのゴミ見て、もちょっとちゃんとご飯について教えとけばって思ったから逆にごめんな。

 ってかすげーなココア、鉛筆の芯限界ギリギリまで使ってたし、消しゴム沢山使ったし、お前超勉強熱心じゃん」


「気付いたらそうなってた」


「そうなるまで気付かなかったってだけでココアはすっごい偉いんだぞ。不真面目なオレには無理だ。

 でもココアだから、ちゃんと勉強してたのに、勉強できなくなっちゃったときは“暇”だって思ったろ。マンガ面白かったか?」


「面白い……は、分からないけど、気持ちよかった。いっぱい女の子居て、皆可愛かったからえっちだった」


「んまぁ細かいことは抜きにしておいて、お前のただ流れる時間が有意義なモノとなったのは良かったよ。でも流石に予想外だったよ? 流石に驚いたね、オレも。まさかそうなるとは思ってなかったもん。

 見ろよ部屋の隅にあるゴミ袋。あれお前のオナティッシュだけが入ってんだからな? 部屋換気してアレ纏めてようやく何時もの部屋の空気に戻ったんだからな?」


「もうしないほうが良い?」


「いや? ココアがしたいならして良いよ? けど、終わった後の処理は全部自分でしてくれや。世間の人間はお一人事情後に部屋の換気もティッシュの処理も自分でするらしいってのに、お前のドスケベ臭とドエロティッシュはオレが処理しろと?

 人様の性事情にとやかくいうほど無粋じゃないけど人様が勝手に発散した性をオレが片付けるのは対等じゃないんすよ」


「じゃあ、お兄さんのオナ○ー手伝う。ゴミの片付けも、おちんちんのお掃除も、私がする」


「そんなコト言われちゃぁオレが正常な人間の男なら、もう全身どエロくてクソほど可愛いお前にぞっこんで一生手放したくないくらいには執着するんだろなぁ。私的空間にココアと一緒に居ることこそ人生の勝ちと思っちゃうかもしれない」


 『うーん』と言いたげな表情をしながらキーボードを叩く恭介。彼から言葉を向けられたココアは、その言葉に温かさを感じて期待しながら、表情変化に乏しい顔でも伺うような目で視線を向ける。


「んまぁそうじゃない奴だからココアはここにいるんだろうし、オレがそんな奴だから対等にはならないっ! だからとにかくお前はやりたい事して良いケドヤった始末は自分でやれ!」


「掃除したことない……」


「別に掃除までとは言ってないよ。軽く換気してくれるだけでも良い。じゃないと、あの甘い匂いはお前のドエッチした匂いって知っちゃったオレが、今後帰ってくる度に困る」


「私とえっちしたいの?」


「オレもびっくり。お前とえっちしたいの。初めてカモ、ここまで性欲かきたたせられるの」


 そう語る恭介は、言葉や視線がかみ合わず、欲望的な言葉を言った割りに視線には熱などもなく、のほほんとした顔でタバコを咥えたままキーボードを叩いて、気持ち悪いよこしまさなど、そもそも邪さなど、感じさせないあっけらかんとした風貌をしている。


 もはや話しの流れで放った冗談とも思えるその姿ではあるが、ココアにとってその言葉は、体をそわそわうきうきさせてしまうものだった。嬉しい、それを実感できずとも、体が言葉や頭よりも最も具体的な表現をしていた。


「けどこちとらやる事有り余ってるからそっち優先で」


 また語る様相は軽薄で、ある種の断りとも思えてしまうが、深読みや裏読みをするよりも先に、その言葉を向けられただけでココアは肩を落とす。彼女はそれも知らない、期待や希望を知らなかった彼女は『落ち込む』という感情さえも初めての出来事故に“体が重くなった”程度の認識しかできない。


「すげぇなぁ、人って教えられなくても心が動くんだモンなぁ……。

 そうそう、さっき昼ごはんの話ししたじゃん?」


 軽薄で一本調子な口調は何を言っても変わることなく、全てが気軽な言葉として向けられ、ココアはその言葉に体が思いながらも返事を返す。


「今日のココアはしっかりと眠れて、予想外ではあるけど性も発散できて――――あ、人には三つのでっかい欲求があって、食べること、寝ること、えっちする事が、生きる中でとっても大切になるらしい」


「らしい……? うん」


 まるで他人行儀な言い草だが、ココアにとって知らない知識も言われてみれば納得できなくもない。ボロアパートで過ごしていたときも、どれだけ貧しかったとはいえ食事と睡眠は体が求めていた。性欲は、関わってきた男達の必死さで何となく理解できるし、何よりも今日感じたとってもえっちでとっても気持ち良いあの感覚で心から納得できる。


「でさ、今日のココアはしっかり眠れて、いっぱいえっちなことできたってのに、取った食事が暖めてないレトルトは寂しいじゃん? まぁカレーは冷めてても美味いけど、どうせだったらあったかホカホカな美味しいお店カレーの方が良いのよさ」


「うん……?」


「ってなわけで、さっきオレの大親友にお店カレー買って来るようお願いしたから晩御飯ちょっと待ってて。超ボリューミーでジャンキーで腹パンッパンになるまでかっ喰らおうぜ。残したらオレが食べるから限界までゴーゴー」


「……うん」


 恭介が掛ける言葉は、図ってか図らずか、男性を良く知るココアでも真意も本心も読み取れない。


 ココアにとって、夜の食事は食の中で最も嫌いなものだった。気持ち悪い男を相手にする前の時間帯、お店が始まる前に取る食事は、これからの気持ち悪さを思うと満足に体が受け付けない。例えお腹が空いてたとしても、お腹いっぱいに食べてしまえば気持ち悪さのせいで仕事中に吐き出しそうになるだろう。だがそれ以前に、例えお腹が空いていてもその後の仕事を考えれば、食べずとも食欲が失せてしまう。腹は満たされずとも、胸が不快感でいっぱいになってしまう。


 故にココアは、夜の時間は食事で腹が満たされることは無く、満たそうとも思わない。それが普通となっていて、それが苦痛とも思わない当たり前

だったというのに、目の前の青年に出会ってからは当たり前が当たり前ではなくなっている。


 ココアが有する当たり前は、無意識の諦めが先行して形成されたものだ。それもまた彼女が置かれた環境においての生きる術であった。しかし今の環境は、置かれた環境ではなく、閉鎖的な環境ではなく、この部屋も鳥かごではなく、彼女が自ら飛び出して辿りついた先の場所だ。無謀な博打のようにも思える行動は、幸福にも不幸にも続く荒野で奇跡的に『いつもへらへらしてる青年』に出会った。


 彼は道を作って先導してくれる者でも、深みの奥へ引き吊り降ろす者でもない。『一緒にやろーぜ!』と、共に歩いてくれる存在だ。ココアは友達を知らない、でも、彼は友達ではない気がする。自分が良く知っている関係性、お店の人やお客さんとも違う。親とも全然違う。彼女が感じる彼への関係性は、どう表現すれば良いものなのか、ココアは分からない。


 分からないけど、一緒に居るととっても安心する。


 鳥かごではないこの部屋、安心するこの場所で、二人は晩御飯までの時間を過ごす。恭介はココアに目を向けたまま作業を一切止めることなく手や口を動かし、ココアは向けられる言葉に返答をしたり漢字ドリルを見せてみたりしてみる。


 ――過ぎる時間は――


「へー、すっご。めっちゃ書いてるジャン。よくもまぁそこまで勉強できるわぁ、天才さんだわぁ」


「お兄さんも学校行ってお勉強してるんでしょ?」


「学校行くことと勉強することって絶対の関係じゃないんすよね。オレぁほとんど勉強してない、知り合い達から情報提供しまっくってもらってその場しのぎのギリギリ綱渡り繰り返してる」


「でも、今もお勉強してるよね。たくさん文字書いてる」


「これね、学校の先輩から借りたデータ……文書を、丸パクリはいけないから、頭の中で一回バラバラにしてそれっぽいものに組み立て直してるの。勉強ってよりは流用と低品質で及第点狙いの改竄かいざんって感じ」


「難しそうなことしてるんだね」


「クソ面倒なことしてるだけだよ――っと」


 ――交わす言葉の間に、スマホの通知音が鳴ったことで一旦の終わりを迎える。


 恭介はパソコンの側に置いてあったスマホの通知画面を目にすることはなく――この時は、視線を向けることなく画面を見たのではなく、その通知音が何を意味するかが分かっていたため見ることもしないで立ち上がった。


「おほほ~、来た来た~」


 浮ついた声と共に恭介はリビングを去って玄関へと向かう。内鍵を開けた直後には、恭介とは違う男の人の声がした。


 その声の主を、恭介は家へ迎え入れて部屋へと近づいてくる。


(やだな……)


 ココアが心の中で呟いた言葉には、二つの意味が込められていた。一つは、二人の時間だったのに……という思い。そしてもう一つは、例え信頼している恭介の知り合いであっても、男なら気持ち悪い目を向けてくるんだろうな、この部屋でもあの目に晒されるんだろうな、という思い。


 浮かない顔をして、テーブルに置かれた漢字ドリルに目を落としていたココアは、リビングの扉を開けられた音で客人が部屋へ立ち入ったことを把握する。いっそのこと、お店での接客態度――こんな、無機質な彼女ではなく猫を被りまくって男に媚び媚びな偽りの仮面でも被って、この場をやり過ごそうとさえ思ってしまう。だったら、落とした視線を上げる頃には接客スマイルを浮かべなければならない。お店に居たときは義務感で何も思わずやっていたことも、この部屋で行おうとすればどうしてか覚悟と気合が必要となってしまう。それでも、彼女は猫を被って表情を上げようとしたところで――


「殺すぞクソアマ」


 ――その心中を見抜かれたような冷たい言葉が、背筋を凍りつかせるようにココアの頭からぶっ掛けられた。


 性欲を向けられることはあっても、殺意を、ホンモノの殺意をむけられらことは一回もない。それ故にココアは怯えて反射的に顔を上げると――


「そうだ。それでいい」


 ――そこには、フード付きの冬用コートを着用し、マフラーとそのフードで顔を隠した男が立っていた。その姿は一つのファッションにも見えなくも無いが、どちらかと言えば顔を隠すためにそのような格好をしている気がしてならない。向けてきた殺意と冷たい態度、その風貌から自分と同系統の界隈に属する、一般人ではない者とも思うが……だが何よりも、ココアはほっとしてしまった。この男も、気持ち悪くない。冷たくて怖いけど、何より気持ち悪くないことが、心をほっとさせる。この部屋は、変わらず気持ち悪くない部屋だった故に。


「コイツがお前の言っていた、拾った女か」


「そそ、かわいーでしょ。

 ココア、こいつソーマっつってね、偏屈だけど根はバカな男の子」


 恭介は紹介交じりにコタツの上から物を退かせ始め、ソーマと紹介された男は禄に挨拶もせずに持っていたビニール袋をテーブルに置き冷蔵庫を漁って自分と恭介の分の酒を持ってくる。


 勝手知ったる仲で動く二人を、置いていかれるように眺めていたココアだったが、恭介を真似て自分もドリルをコタツから下げたらグッジョブをしてもらって嬉しくなった。


「ソーマ、酒一人分足りてねーぞワザとやってんのかボケ」


「チッ……」


 この男達。未成年の女性へ平然と、そして当たり前のように酒を出そうとするが、そもそも彼等も未成年だ。“大学生だから”ではない、健蔵の下で育った彼等は高校の頃からそういう奴等だった。


 舌打ちをしたソーマは、ぶっきらぼうに酒缶を取りに戻ってココアの前へ雑に置く。


「あ、ありがとお、ありがとう、ございます……」


「……」


 コタツへ座った彼からお礼の返答が無い。聞こえてくるのは缶を開ける音だけで、ココアには関心すら向けられていない。


 でも、それが良かった。気持ち悪さを向けられるよりも、無関心で居てくれたほうが良い。


「空気悪いなぁ」


 恭介は、キッチンからわざわざカレー用のスプーンを持ってきてコタツに付きつつ、袋を漁って中身を配膳しながら言葉を吐く。


 袋の中身は、カレー屋の持ち帰りメニュー。カツカレーと温泉卵、加えてサラダが入ったミニカップだ。ジャンキー且つ、『ザ・男のカレー!』と言わんばかりのボリューミーさは、ココアが受け取ったカレーの容器からそのずっしりとした重みを手へひしひしと伝えてくる。


「おい、カレー代は」


「へいへい。きっちりとお前の分のレポートも作っとくから、後でメールに添付して送るよ」


「なら良い」


 二人のやり取りを聞いて、ココアは思う。双間と呼ばれる男は口数があまり多くない、雰囲気からしても静かな人なのだろう、と。恭介とは正反対な人なのだろう、とも。


 寡黙であるなら、それで良い。ここはお店ではないので、無理矢理話をする必要も無いし、気を使ってこちらが場を回す必要も無い。寧ろ、寡黙故に余計に関わる必要も無いのだから、楽、ではあった。


「ごめんなぁ、ココアぁ。コイツ育ちと口と頭は悪いけど悪い奴じゃないんだよ」


「別に……大丈夫。私邪魔なら、廊下でご飯食べる」


「んなことするくらいならコイツ廊下に出してそっちで食わせるわ。ソーマ、ゴー! 出て行け、帰れ!」


「折角カレーを買って来てやった大親友に対してなんだその態度は」


「ごめんちゃい」


「廊下に出て反省してろバカ」


「はい……」


 家主はトボトボと歩いていき、リビングの扉を開けて敷居越しに体育座りをしながら無言で視線を向けてくる。


 対して双間は恭介のことを放置し、カレーを開けて食べ始めた。


 ココアの目に映る奇妙な光景、に、拍車をかけるように、双間が行う奇妙な食べ方もまた奇妙だった。スプーンでカレーを掬い、マフラーの側で消えて無くなる光景が目に映る。


 だが関わり合わないようにしようとしているココアは、その食べ方に疑問を向けることなく、カレーを前にしてジッと座っていた。


「どーしたのココア? 食べないの?」


「お兄さん食べてないし……」


「見ろよソーマ、ココアめっちゃ良い子だぞ! 親友放置して無遠慮に飯食うお前とは大違いだよ!」


「黙って反省してろ」


「はぃ……。かれー、かれーたべたひぃ……」


 家主の情けない嘆きと、寡黙な客人が食事する音。その二つだけがリビングに流れ続ける。


 ココアは二人が一体どのような関係なのか、騒がしい男と寡黙な男が何故親友と呼び合うほど仲が良いのか、そもそも仲が良いのかすらも怪しく口先だけで険悪けんあくな関係なのか、上下関係があるのか、などなど、疑問を抱いてしまう。


 更に、寡黙な客人はカレーを食べ終えて一服を済ませると、コタツから出て勝手にテレビを点け、酒を横に置きゲームを遊び始めた。


「ソーマ……そーまぁ……」


「許可してやる」


「ありがとぉ……」


 ようやく家主がコタツへ戻ってくる頃には、カレーの熱も熱さからぬるさに変わる時間が経過していて、三人居るはずなのに食卓には二人しか座っていない。


「待たせちゃってごめんなココアぁ……。早速食おうぜ絶品ジャンキーカレー……ぬっる。

 丁度良いや」


 ようやくコタツに座った恭介は、すぐにカレーを手にして立ち上がるとココアへ手招きをしてキッチンへと呼び寄せる。二人の目の前には、一人暮らし用冷蔵庫の上に置かれた電子器具があった。


「これね、電子レンジって言って食べ物温める機械なの。そんでね」


 彼はカレーの容器をレンジの中へ入れると、ココアの手を取ってレンジへ触れさせる。


「ここをピッとして温める時間決めて、ここをピってすれば温まるから。明日からのご飯はこれを使って美味しくおたべ、作り方はちゃんとメモして置くから困ったときはそれ見てね」


「うん」


 ココアは、教えてもらえる。彼が側に居てくれて、知らないことをちゃんと教えてくれて、安心させて貰える。それが、体をそわそわさせる。


 恭介の分が温め終わったら、次は自分の分。今度は恭介から促されて、自分一人でやってみた。先程言われたことを、そのまま真似て見るだけ。たった、ボタンをピッピッって、するだけ。それでも。


「ココアお前……天才じゃん!」


 何故か横は自分よりも喜ぶ男が居て、それを見ると、心が暖かくなる。


 温まったカレーを前にコタツへ戻り、恭介と二人で顔を合わせながら、自分で温めた湯気が立ち上るカレーを食べてみれば、美味しい。お店で食べてきたどんな料理よりも、今食べてるご飯が一番美味しい。


「うんめぇ……っへへー……。ココアも美味しい?」


 カレーを口に運んだ彼女は、恭介からの言葉にすぐ首を縦に振って返した。


「そりゃぁ良かったぁ。

 コイツさぁ、気ぃ使ってくれたっぽいよ。自分と一緒だと不味いだろうって」


「そんなつもりは毛頭無い」


「オレがそう自己解釈したってことでここは何卒」


「そうか」


 恭介の言葉が正しいのか、双間の言葉が正しいのか、言葉少なげなやり取りで本当に分かり合っているのか。どれが正解かは、ココアには分からない。


 だが、一つだけ分かることがある。自分に気持ち悪さを向けてこない二人は人とは何かが違っていて、彼等は違う者同士だということだ。ただ、友達かどうかは分からない。


「お兄さん。双間さんとお友達なの?」


「親友だ、間違えるな」


 ココアが恭介へと向けた疑問は、背を向けてゲームをしている双間からの横槍によってすぐさま訂正される。


「ま、こーゆーことよ。

 初対面の奴等から“オレが”良く聞かれるよ、何で二人仲悪そうでタイプ全然違うのに一緒に居るの? って。そらそう思うわ、だってソーマの第一印象であればあるほどド最悪だもん。んまぁそれでもオレが周りとの関係取り持ってあげてる的なァ~~~~? でもちゃんと関われば分かるけどソーマって根本はバカな男子だから。それさえ知られりゃ周りからも『コイツ等同類やんけ!?』って分かって貰えるの」


「そう……なんだ」


「そそ。ココアの目にも、仲悪そうだしコイツ人ん家で好き勝手する失礼野郎って見えてるかもしれないけど、仲良いから無遠慮し合ってるだけなのよ」


「孤独なその女に友達を語っても分かるはずがないだろう」


「孤独な子だからお前は気ぃ使ってあげたんだもんなー」


「チッ」


 二人が交わした言葉に、ココアはドキリと心臓を鳴らす。双間とは初対面、禄に言葉を交わしていないというのに自分の内側を見抜かれてしまっているようで。


 だが何よりも、彼女が明確な意志で『嫌だ』と思ってしまうことがある。あんまり、自分のことを恭介に知られたくない。人に言えないようなお仕事をしてきたこと、色んな男と交わってきたこと、変態的な行為をたくさんしてきたこと、性しか取り得が無く中身なんて空っぽでつまらない人間であること。自分のことを何か一つでも知ってしまえば、恭介から嫌われて部屋から追い出されるかもしれない。普通の男の子なら、きっとこんな女汚いって思うだろうから、一緒に居てつまらないって思うだろうから。


 彼女は自分の過去を意図的に隠していた訳ではなかった、成り行きで言っていないだけだった。ただ、今は、隠したいという気持ちが心に生まれてしまった。


 彼女は手にしていたスプーンをテーブルにおいて、食事をめる。そのスプーンを見つめる視線は、落ち込みややましさのようなものを含んでいた。


「…………お兄さん、は、さ……」


 自分が何者なのか気にならないの、と、尋ねようとして口が止まってしまう。彼を前に隠しごとはしたくない、でも自分の事は語りたくない。だからその先の言葉は言えない。“察して”と言った思いと似た行為は、自分から言葉を語るよりも彼から聞きたい言葉を言って貰えるよう待っているようにも見えてしまう。


 対して恭介は――


「んぁ? オレ手品得意だから先回りして当てちゃーう。別にお前がどこの誰様とかどんな奴とかどうでも良いよ?」


 ――あっけらかんとした顔でカレーをもぐもぐ食べながら、裏表のない本心からの言葉を言い放ち…………ココアは、ほっとする。


 ココアはそれほど他人に興味が無い。だから、どうでも良い奴に向ける“どうでもいい”を知っている。だから、恭介の放ったどうでも良いは、ココアを“どうでも良い奴”と言っているのではなく、ココアがここに居るから他は別に“どうでもいい”って言ってくれてると分かる。


 彼女は今まで呆然と生きてきた。それはただ生きてるだけの人生を生きて、他に興味を向けることが無かったから、何かに疑問を向けることが無かったから。しかし恭介と出会ってからは、自分の中で微かに何かが変わり始めてきた気がしていることを実感する。今も、また食べ始めたカレーの味が美味しい、とっても美味しい。さっきよりも、恭介から言葉を貰った後のカレーは、とっても美味しい。


「カレー、美味しい?」


「……うん」


「そっか」


 恭介から尋ねられた言葉は、きっと、色々な意味を含んでいた気がする。でも、自分がたった二文字の返事を返しただけで、彼はニコって笑顔を返してくれた。


 ……ようやく、ようやく、彼女は理解する。この胸の温かさや、ご飯が美味しいこと、一緒に居ると暖かいことが、『嬉しい、楽しい』という感情なのだと。


 ココアは彼と話しながらカレーを食べる。何気ない話は、どんなお客と話してきたことよりも楽しい。


 双間は無言でゲームをし続ける中、二人だけで楽しく美味しく食べるご飯は――されど、量が多くてココアには食べ切れなかった。いっぱい、たくさん、美味しいを食べてお腹も心も満たされたけど、目の前にはカレーが半分以上余っている。


「残してもいいよ? オレが食べるから寧ろ食べたい下さい」


 彼からの言葉に、ココアは自分のカレーへ目を落としたあと……容器を持って立ち上がり、恭介の横に座った。


「あれ、どしたの」


「……あーん」


「あらぁ、どーもぉ。あーん」


「美味しい?」


「うま~~、ココアのあーんで美味さ倍増~」


 自分の美味しいは、相手も美味しいって思っている。あーんなんて、お客さんにはよくしていた事だ、だが、自分からしたいと思ったのは、喜んで欲しいって思ったのは、恭介が始めてだ。


 彼から貰える言葉が、反応が、嬉しい。


「お兄さんお兄さん、あーん」


「あーん」


 ――

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