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 ――記述者の無い世界記録①―― 3

 ココアは恭介からスウェットを借りたが、上はだぼだぼ下はぶかぶかで落ちてしまう。だから裸にだぼだぼスウェットの上だけを着て、眠りについた。恭介はコタツと座布団で睡眠を取り、ココアはベッドで寝て、夜は明ける。


 段々と覚醒する意識の中、寝ぼけ眼がボヤボヤと開く先では――恭介が朝の支度を終えて何処かへ出かけようとする姿があった。


「あ、起しちゃった?」


 彼は振り向く前に言葉を放ち、その後にベッドで眠るココアへ視線を向ける。


「ここどこ?」


「あるあるよね、慣れてないといつもと違う場所での寝起きそうなる」


「……あ」


 ココアは上半身を起して、部屋の内観、サイズの大きいスウェットの上だけを来ている姿、ベッドを見てようやく昨日の記憶が思い出される。


「ちょっと大学行ってくるけど、夕方前には帰ってくるから。オレが居ない間は部屋のモン好きに使ってて良いよ」


「あれも?」


 ココアが指を刺す先には、変な機械がある。見たことが無い、知らない機械。


「んぁ? ソーコンは今緊急不具合修正と大型メンテ同時に入ってるからむーりぃ~でも試験期間と被ってるから超らっきぃ~」


「そーこん?」


「……え!? ソーコン知らないの!? テレビやネットで大話題も大話題なのに!?」


「知らない。テレビ面白くないから見ないし、ぱそこんのいんたーねっと? も持ってない」


「ケータイは?」


「連絡用のあった。でも部屋に置いてきた」


「えぇ、ちょい待ち。ってなると他に暇潰せるようなモン…………クローゼットの中にマンガあるからそれで暇つぶしでもしてて。出かけるときや出て行くときは鍵閉めなくて良いから気軽にどーぞ」


「別に良い。何も考えないでボーっとしてれば時間潰せる」


「それ、時間つぶしてるんじゃなくて時間流してるだけだから。お前はちゃんと人間なんだから、人間らしく生きた方が良いと思うぜ~」


 そう言って恭介は部屋の扉を開けて大学へ向かおうとする。


「あ、腹減ったらキッチンの戸棚漁りな。ご馳走がわんさか溢れてっから」


 その言葉を最後に、恭介は手を振りながら扉を閉めた。


 閉ざされた扉へ、ココアは視線を向け続け――――ベッドへと体を倒して、ただただボーっとし始めた。


 ココアは生きる意味を持って居ない。生きることが出来ているからただ生きている彼女は、自らの時間に有意義というものを必要とはしていない。そして、何も考えないのは楽だった。彼女の生に楽しさは無い、あるのは楽だ。


 ただし、彼女は死にたい訳ではない。生きる意味も無く生き、生きることが出来ているから生きている彼女は、生と死を天秤に掛ければ生へ傾くくらいには、生き物としての意志はある。


 ボーっとしている彼女は、本当に何もせずベッドで横になっていた。しかし、何時もと違うことがある。この時間、日が出ている時間は、普段なら寝ている時間だ。だからか、締め切られているカーテンから入る日の光りに視線を向けてしまう。何時もは、カーテンを開けば夜が見えるはずの窓から光りが入ってきている。他にも、繁華街にあるビルの上階では感じられなかった、登校する子供の声や小鳥の鳴き声が耳に入る。


 ココアはボーっとしているはずだった。ボーっとしていられるはずだった。しかし、勝手に体が起き上がり、カーテンへと手が伸びて、目が外を向いてしまう。


 向けた視線の先には、ランドセルを背負った子供が、友達と共に走りながら登校する姿が目に映った。


 その光景を目にした彼女は――顔を動かしコタツを見る。そこには、昨日買った小学生用の教材、と、買った覚えの無い鉛筆や消しゴムが置いてあった。


 彼女はボーっとしていれば良かったはずだ、先程も自分でそう言ったはずだ。


 しかし、本当にそうであれば彼女はここには居ない。今日もまた、何時もと変わらない日々を送って男を悦ばせる夜を迎えていたはずだ。


 ココアは、考えよりも先に気持ちが体を動かしたかのように、それはまるで独りでに体が動いたように、ゆっくりとベッドから離れてコタツへ座る。


 彼女とて、無学であっても無知ではない。人とは違う人生を歩んできた中での蓄積がある。ひらがなと、簡単な漢字の読み書きは出来る。二桁程度なら暗算だってできる。夜に纏わる単語ならそこいらの者達よりも豊富に知っている。


 ならば何故、十七歳の彼女が小学一年生程度のドリルを前にして分からないというのか。これに関しては、本当に分からないのだ。勉強などしたことが無い、学校なんて行った事も無い、教材など触れたことが無い。


 ココアは、無知ではなくても無学ではあるのだ。彼女にとって、教材は難解で組み立て方すら分からないパズルと同義だ。彼女が口にする“分からない”は、やり方が分からないという根本的な部分を指した“分からない”だった。


 彼女の根本的認識は一般的な学習を経ていないことを顕著に表すとするならば、“本とは読むもの”“読んで知識を得るもの”という認識だ。彼女はドリルと言うモノを買ったとて、彼女の中では『本を買った』という認識だった。だが、彼女が買ったのは“本”であるよりも前に“教材”だ。普通であれば、ドリルを前にした小学生は鉛筆を手に取る。それは小学校で習うことであり、“本にラクガキをしてはいけない、汚してはいけない”という一般的な常識よりも、“学習の為に書き込む”ことを、教師から明言されずとも教わることだから。


 だが、ココアにとっては手にした物はあくまで“本”であり、教材という概念すら知らない彼女にとって、目の前にしている物品は訳の分からない物と化している。


 勿論、彼女は文字が書けない、書いた事がない訳ではない。書類のサインや、名紙の裏に誘い文句を書くことがあり、店側からも字体には愛らしさをとの指導も受けていたので『ひらがなと簡単な漢字』は相応の字体を持って書く事ができる。だが、本に文字を書いたことが無い、絵本を二三冊くらいしか読んだことが無い彼女にとって、目の前にしている書籍は自分が知っている“本”ではなくて訳が分からないのだ。


 だからこそ、教材の側に何故か置かれている鉛筆と消しゴムの意味も分からない。だが、でも、それでも、彼女は一番上に乗っている漢字ドリルの表紙を開いて、みる。――みる、見た、目に映った。


『いっぱい書け、たくさん書け! お前が自分で買ったんだから好きなだけよごせ! この本は書いて良い本だからさ!

 べんきょうしようとするのはとってもえらい! オレはべんきょうなんざごめんだけどなうけけけけけ!』


 ――――文字が書かれた紙が、本に挟まっていた。まるで、見透かしているような言葉のように……あんなアホ面なのに、分かられているように。


「うけけけけけ……?」


 文字列を見たココアは、最後の文字が何を意味しているのかは分からない。それでも書かれている事を読んだココアは、側に置かれている鉛筆と消しゴムの意味を知る。


 この本は、書いて良い本なんだ、と。


 ココアは、無学であっても馬鹿ではない、阿呆でもない。だが初めて知れることは沢山ある。


 彼女が開いていたのは、ひらがな・漢字ドリルだった。そこで彼女は知る、文字に書く順番が存在していたことを。今まで何気なく形を真似て文字を書いていたが、文字の形にも正しさはあって、その正しさには『とめ、はね、はらい』が存在している。


 ココアにとって今までとは違う書き順で書く文字は、手の動きに違和感が走る。が、何も考えず何となく書いていた文字にも意味が生まれるのは――――楽しい。


 その楽しさを自覚した訳ではない、そもそも楽しいという感覚は知らない。だが、ドリルを前にして一生懸命に手を動かす彼女の手つきは、唇を締め視線を注ぐ姿は、“楽しさ”を知らずとも“夢中”と表現するに値する姿だった。


 ココアはなぞった文字を、書いた文字を、枠すら超えて本に書き、本を汚して次のページへと移り同じことを繰り返す。今まで行ってきた彼女にとっての学習とは、生きるため、客を離さないため、業務のため。あくまで義務的に行っていた学習であり、だが夜の蝶としては無知であるほうが男の得意げを誘える。


 尤も、夜の蝶たちは無知なフリをして男の得意げを誘う博識さを持ち合わせているが、ココアは例外だ。無知をひけらかす匙加減を本能で理解していた、知らずとも流して良い事と、知らない方が男に喜びを与える事と、知らないままの方が良い事、知らないのに知っているフリをすること。その知らないは、意味のある知らないだ。その知らないを天性の才能で相手へ悪印象を与えることなく、更には利用してお客の心を掴むことができる。


 だが、“漢字の書き順”など、人に見られなければ知らなくても良い事だ。それこそ文字は書いた内容が相手へ伝わればそれで文字としての役割は完遂されるのだ。書き順など、一般常識ではあっても絶対ではない、間違えたところで文字の完成が正しい形を持っていればその間違いに意味は生まれない。書き順など、無駄――ではないが、覚えなくとも読める文字を書ければいい、人が読める可愛い文字をちゃんと書けるココアにとって、生きる上で意味の無い学習にも分類される学びは……それでも、夢中になれるものだった。


 何ページも何ページも、鉛筆を走らせて文字を書く。ココアも初めてだった、こんなに沢山の文字を書くのは。でも『たくさん書け』ってことはもっともっと書いて良いってことだから、彼女はたくさんいっぱい書いて書いて書く。


 走る鉛筆の先は次第に磨耗し、平らになって書き辛くなる。ココアにとって、筆記用具とはペンだ。書類も名紙も、ペンでずっと書いていたから芯の磨耗など初めてだった。


 鉛筆を触ったことが無い彼女にとって、『削る』という発想は出てこない。インクの出が悪いペンならば振れば復活することもあるが、鉛筆は振っても何も起こらない。


「どうしよ……」


 用意されていた鉛筆はこの一本しかない。その一本をどうにかしなければ、続きが書けない。


 手にした鉛筆へ疑問を向けるココアだったが、気付けばいつの間にか時計は昼の時間を針で表していた。


 ドリルへ夢中になっていた彼女はここで自覚する、『お腹減った』と。


 何時もならば店の人が、栄養バランスと味が上等な質のご飯を持ってきてくれて、あてがわれたココアはそれを食べれば良かった。だが、今日は違う。ご飯が出てこない。しかしココアは飯を待ってひたすらに涎を垂らす家畜ではない。彼女はボロアパートでの日々を知っており、ご飯が無いなら自分で探すしかないことを幼少から知っている。


 そして思い出す、恭介が言っていた、ご馳走のことを。


 お腹が減ったココアは、だぼだぼのスウェットを揺らしながら立ち上がり、キッチンの戸棚へと歩いて開いてみる。


 開いた先にところせましと並んでいるのは――――レトルトのカレー、カレー、カレー、カレー、カレー、カレー、カレー、カレー、そして傍らにパックご飯。


 カレー自体のラインナップは豊富だが、種類としてはカレーしかなく、他にあるのはパックご飯だけ。対してココアは、レトルトなんて知らない。パックご飯も初めて見た。湯煎やレンジが必要とも知らない。


 だが流石に、並んでいるのが食料と言うことだけは理解している。始めて見るレトルトも、お菓子のように袋を開ければ、中にはパッケージに書いてある物が入ってるとは分かる。故にレトルトの一袋を手に持って、そして冷蔵庫には食料や飲料水が入っているのも知っているから開けてみる。


 酒、酒、酒、酒、酒、酒、つまみ、酒、酒、酒、酒、酒。


 ご飯どころか飲料水すら一切入っていない冷蔵庫は、人によっては引くだろう。だが、ココアにとっては酒とは飲み物だ。お店で幾度と無く口にし、美味しさが分からないまでも液体なら水分摂取が出来ると認識している。だからココアは温めても居ないレトルトカレーのパックを開けて吸い、水分の代わりに酒を摂取し昼食を終えた。


 ココアにとって食事は、満腹であることよりも胃に食べ物が入ったことが重要であり、腹を満たすことよりも飢餓感が訪れないならそれに越した事は無かった。食の順序は、不味い美味しい以前に最低限でも糧を得られることが優先で、味や腹を満たす事は恵みだと思っていた。


 そしてココア自身も自覚はある、普段提供されていた食事は、高級と呼べる類のご飯だったことを。故に彼女は、普段とは違う状況で食事を取り、暖めていないレトルトを口にしても一切の不満を感じることは無かった。


 食事を終えた彼女は、テーブルに放置しているレトルトのパックや酒缶、筆記用具を眺め……鉛筆を手に取った。


「……あ、り、が……と、お……お、じゃなくて、う……」


 ココアは、恭介が書いた表紙裏に文字を書く。消しゴムで消して、正しい文字を。


 何度も消しては書き直し、知った書き順と正しい形に何度も直して、自分が満足行くまで『ありがとう』を整える。


「ちょっと汚いかも……」


 消して。


「とめ、はね、はらい……」


 消して。


「きれい、なのかな。もー一回」


 書き直す。


 平らになった鉛筆の先で無理矢理書き、太い文字になってしまいながらも何度も何度も書き直して、ついには芯が凹んで満足に文字も書けなくなる。


「……」


 鉛筆で書けなければ、やる事は失われた。でも、最後の最後で、満足とは言わないまでも見せて良い文字を書けた。ココアは何度もその文字を見て、見せて良いのか、本当に良いのか、見せたらどんな反応をされるのか、色々と考えてしまう。


 ボーっとしているはずの彼女は、呆然で良かったはずの頭に色んな思考が沸いてしまう。


 文字を眺めているココアの口は、客に悦ばれるから得た偽りの笑顔ではなく、初めて、些細だが、薄っすらとした、心から生まれる口の歪みが生まれていた。鏡があったならその歪みを彼女も自覚しただろう、だが、鏡が無いからこそ自然と生まれた口の歪みを自覚することはない。


 そして鉛筆の芯が凹んみやれることを失った彼女は、次に出来る事が無くなった。店でしていた爪の手入れも、化粧も、予約の把握も、ここでは必要が無い。彼女にとっては今が非日常であり、初めての今は次が分からなかった。


 ならば、彼女はボーっとして時間が過ぎることを選ぶはずだった、が。


「……まんが……」


 ココアは恭介から言われた事を思い出して、クローゼットを開けて一冊の本を手に取る。


 彼女はマンガというものは知っている。絵と文字で構成された本という認識を持っていた。


 とりあえず、作品を知らずとも背表紙に『一』と書いてある巻を手に取り、ベッドへと腰掛けながら『マンガ』を開いて見る。


 その本は、ラブコメディがえがかれた作品であり、少し性的な表現が含まれている類のものだった。だが、ソレより、何より、内容より――ココアは目を見開いて絵へと視線を注ぐ。


 とっても可愛い女の子が、本の中に居る。店の絵画や現実では見ない姿の、とっても不思議でとっても可愛い女の子が本の中にたくさん居る。


 彼女は文字を読むよりも、ページを進め絵だけを見て不思議で可愛い女の子を目に焼き付けるように沢山見ていった。本には女の子が沢山、かわいいが沢山、可愛い女の子がいっぱい!


 ココアにとって、性的なものなど幼い頃から当たり前のことだった。故に彼女は人の部屋であっても躊躇せず、オーバーサイズのスウェット上だけを着ている体、それこそ一枚脱げば裸の体に、本を開いたまま手を這わせて。


 ――――


 ――

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