37.もう良くない
『もう、いいや』 そのイキョウの一言を聞いたティリスとレレイラは、何を言ってるのか分からなくて失笑する。
目の前の男は急に、何処からかダガーを取り出した。左手に持っていたロープから手を離して、ダガーを握って、無防備にただユラリと突っ立っている。
二人は思う。武器を持って精一杯に抵抗する気なんだろうと。
ただし、二人は負けることなど一切考えていない。寧ろ、この目の前にただ突っ立って武器すら構えない、構え方も知らなそうな無防備な男をどうやって屈服させるかだけを考えている。
調査を進展させるため、わざわざ一等級の自分達が打診をしているというのに、言うことを聞かずに減らず口を垂れるだけの男。アイツに対してどんな指導を行えば言うことを聞かせられるのかだけを考えていた。
しかし、そんなことを考えてるのも束の間。
「なあ金髪。その足元にあるのってなんだ」
「はぁ?」
イキョウはダガーを持ったまま顔を伏せ、平然と、それでいて何気なく手を軽く上げて指を落としたので、それにつられてティリスは自分の足元に目を落とす。
そこには、いつの間にかスローイングナイフが突き刺さっていた。
「なにこ――っ!!」
地面に目を落としたと同時に、ティリスの視界にはダガーがあった場所に突然人の足が現れた。
そして――意識外から脇腹に衝撃を受ける。
衝撃は横殴りではない。上から下へ、精密な動きで地面にひれ伏せさせるように叩きつけられた。
その衝撃に流されるように、ティリスの身体は無慈悲に地面へ叩きつけられて横たわせられる。
「ゲホォ、ゴホ!!」
鎧越しに受けたはずのその衝撃をティリスは受け流す事が出来ず、体の芯まで響く衝撃の揺らぎは臓器の機能を一時的に狂わせられた。痛む部位を抑えることも、痛みに悶えて蹲ることもできない。衝撃と嫌に強烈な痛みで全身を動かすことが出来ない。
そのせいで起こった咳は、何か液状のものを含んだ水っぽい音を発している。しかしその体には、一切の傷がない。外傷も内傷も、一切何も無い。ただ痛みだけが身体を駆け巡っている。そう仕向けられたことすら理解できずに、ティリスの体は痛みに支配された。
「なにが……起こったの?」
レレイラは顔を強張らせながら、錆び付いた金属のように首をゆっくりと動かし、視線を横へ向けた。
そこにはさっきまで並んで立っていたはずのティリスは立って居ない。居ないが、その代わりに一人の男がいつの間にか立っていた。
脱力にも、無気力にも思えるその立ち姿で、軽薄そうな目をしながら無感情に見下し足元に横たわるティリスを見ている。
その視線を見て、ようやくレレイラは地面へと視線を降ろした。何が起こったのか分からなくて、何が起こったのかを知り無くはなくて、ゆっくりと、時間を掛けて瞳を下ろす。
しかし、その瞳を下ろしきる事は叶わなかった。
「あんたもだよ」
イキョウは一歩を軽く踏み出して、レレイラの足を軽く払う。
それだけで――。
「えっ?」
――レレイラの身体はバランスを崩して地に伏した。仮にも一等級冒険者である者が、これほど簡単にあしらわれ、容易く体勢を崩される。
不意の落下により受身を取れず、右肩を強打しながら、それでもレレイラは目の前の光景を見て何が起こったのかを理解する。
目の前には、目にいっぱいの涙を溜めて苦痛に目を見開きながら呻き声を出し、それでも何も出来ずに居るリーダーが、無慈悲に横たわっていた。
「ティリ――ッ!!」
「金切り声は耳が痛くなるから辞めてね」
目の前の光景を目に写し、絶叫しそうになったレレイラの口に、イキョウは躊躇なくブーツの先をねじ込んで声を止める。そして――。
「<灰猟犬の牙爪>」
「ひッ――」
――突如、横たわったレレイラの首には獰猛な牙が触れ、体には爪が突き付けられる。牙は、爪は、皮膚の薄皮に刺さるように、しかし何時でも食い破り切り裂く意思を漂わせながら、レレイラの体を恐怖で支配する。その牙爪は、さながら主人の命を待つ番犬のようであり、同時に得物を捕らえた狂犬のようでもあった。
<灰猟犬の牙爪>
主に忠誠を誓った猟犬が焼かれても尚、その牙と爪だけは残り得物を捕らえるために仕えている。
狩人や盗賊、テイマー系の職業が習得可能なスキル。
効果は、対象の捕獲が成功した場合に捕縛の継続かダメージを選択する事が出来る。
イキョウはそのスキルを人体の急所へ的確に付き立てた。故にレレイラは、死を間近に突きつけられている恐怖に怯え、抗うことも動くことも出来ない。
一等級冒険者ともなれば死が迫る場面を何度も経験している。だからただの死ならば怯える事は無いだろう、ただの死であれば。
モンスターが突きつけてくる素直な死、盗賊や野盗たちが向けてくる下卑た死、危険地帯に蔓延る自然の死、これらは一等級からしてみれば慣れた死の傾向だ。しかし、惨たらしい死は、苦痛に塗れ心を陵辱され体を肉塊にされてようやく死に至れると思わせてくる死は、知らなかった。そして目の前の男は、それを平然とやってくると思わせる眼をしていた。懇願してでも生を手放したくなるような死を、死を侮辱するような死を、レレイラは突きつけられていた。
しかしイキョウは、殺意を持っているわけでは無い。他人の死にすら興味のない男が一々殺そうなどと思うことも無い。レレイラに対して殺意などなく、ただ死を突きつけてるだけだ。この場に留めるために殺意もなく死を向けてるだけ。たったそれだけ。
「喚くなよ。痛くないよう調節してやってるんだから」
痛くないように、それは優しさや慈悲などではなかった。イキョウの平坦な声の中に、気遣いなど感じられなかった。
レレイラは死を向けられて動けず、ティリスは悶えることさえ許されない痛みと臓器の狂いで動けず、結局二人は抵抗さえできない。抵抗を許されては居ない。何をすることも許されては居ない。
そして二人の首にはいつの間にかワイヤーが絡んでいて、それが無情に二人の首の肉を、殺すよりも貶めるために削ごうと――。
「キョ、キョー……」
――その声で。ワイヤーを操る左手には、勝手に動いた右手がダガーを付きたて刺した。イキョウは自らの体を自らが操ることなく独りでに刺した。
「……お前/大概にしろよ、こっちのオレに任せるんじゃなかったのかよ。大丈夫だぞピウ。お前には
何にもしないからな。 メンドクサイ上辺だな。勝手に喋ってんじゃねぇよ。
ピウが居るから、ピウの為。
最低限はな。それって-人だろう、それが人だろ+そういうもんか」
ピウは全身を震わせながらイキョウの名を呼んだ。しかし、その返答に異常さを覚える。言葉が繋がっているのに、ツギハギを向けられた様で。
自分の気配察知能力を超えて移動した男。弱いと思っていた男は、瞬きさえしない間に一瞬で二人を制圧した。その様相が、普段とは別人に見えて心の奥底から恐怖を覚える。
その男を明確に表す言葉は見つからない。得体の知れない何かがそこに居るようだった。だた、無理矢理一言に収めるならば、それは不気味だ。無意識にそんな思考をしてしまい、その不気味に気圧されたピウは、構えていたはずの短剣を地面へと落として目の前の男にただ怯えていた。
見て居ない。イキョウは、ピウを、見て居ない。誰も見て居ない。ただ、その暗い眼に景色だけを写していた。人さえ人として見て居ない。
「まずは金髪から」
誰が分かるだろう。自分勝手に分別を付けたイキョウは、地面に横たわっていたティリスを足で動かし仰向けにして、その上に馬乗りになる。
口ほどにも無いと思っていた男が脅威を振りまいて乗ってくる。その姿を、未だまともに呼吸を出来ないティリスは、怯えた顔で見つめた。
雰囲気が、出で立ちが、表情が、目が、全てが別人のように思えた。特に眼が、全てを飲み込むような虚ろな瞳が、ティリスの身を芯から震わせる。
その眼は決して、人がして良い類の眼ではなかった。暗く吸い込まれそうな、虚ろな目は、生きている者がして良い類のものではなかった。
ティリスの引きつって見開かれた目には、もう恐怖しか映していない。
「そんな怯えるなよ、殺しはしない、殺さないから喋ってね」
「ヒグッ、グッグッ、カゴッ」
痛みと内臓の痙攣により、まともに呼吸が出来ないというのに、恐怖の存在から言葉を、呼吸を促される。そのせいで何気なくしていたはず呼吸の仕方を忘れてしまい、喉が渇いて張り付いてしまった。
「確か、仰向けなら奥舌と軟口蓋だったか。そこが緊張すると収縮しちゃうんだってよ、呼吸がし辛いならべろ出して」
イキョウは感情の乗らない言葉を淡々と紡ぐ。無感情な声と表情は、心配そうな言葉裏腹に、相手への感情を移していない。ただ、殺さないから死ぬなと言っているようだった。
今のイキョウの言葉に、強い言葉や怒声は無い。そんな、力の無い者が虚勢を張る為に使う手段など必要ない。
ただイキョウは眼を、雰囲気を、相手に見せているだけだ。そこに力の誇示や威など一切無い。ただ、得体が知れず、何も分からない、全てが理解できない恐怖を顕現させているだけ。底の見えない湖面を覗き込むような、何かが這い出して来そうな底の深い穴の淵に経っているような恐怖を露にしているだけ。
人は、得体の知らないものに怯える本能を持っている。その本能を激しく揺さぶるほどの得体の知れないナニカがここに居るだけだ。
「ギュ……げ、べー」
目の前の男が何をしたいのかは分からない。分からないが、従わなければ殺される。そう思ったティリスは、素直に言葉に従ってべろを口の外へと大きく出した。
舌を出しながら、浅く呼吸を繰り返している姿は、媚びる犬のようだった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
「そうそう、良い感じ。いやな、ソーエンに良く言われるんだよ。脅すなら黙ってやれって。でもな、オレって人の感情ってのが良く分からないわけ。見てきて模倣は出来るし、教えて貰ったから知ってるけど、心の底じゃぜんぜん何も分かってない。だからさ、少しでも喋って知っておきたいんだよ。ね、分からないでしょ、分かれないでしょ」
口ぶりは軽やかだ。だが、感情が、表情が、その言葉には乗っていない。音と言葉の羅列をただただ聞かされているようだった。
そう話すイキョウの風体は人でありながら人形のような不和を生じさせる。ティリスの眼には異様な雰囲気の、人ではない何かを見せ付けられるように写していた。
人の真似をしようとしてる人型のなにか。の眼は、暗く虚ろでしかなく、感情など全く浮かんでいない。気持ち悪いほど黒いだけ。
「はっ、はっ、はっ、はッ……!!」
ティリスは何を言われてるのかが全く分からず、浅い呼吸を繰り返しながら、混乱によって溜まった涙を頬に流す。
「まだ教えてもらってないんだよ、泣き方だけは。なあ、お前ってどうやって泣いてるんだ。涙の流し方ってなにかコツでもあるのか」
ティリスの頭を混乱が支配する。ただ見下ろしてくる男が何を言ってるのかかが分からない。自分が何を問いかけられているのかが全く分からない。
得たいの知れない何かに身体中を、心を、思考を、脳を、這いずり回られるような感覚に陥らされる。
そのせいで、身体には過度な緊張がゆっくりと蓄積していく。ティリスは顕著に、喉へ、胃へ。
「聞いてるよな、答えてよ。聞いてんだから、答えろよ」
淀んだ瞳が、不気味な無表情が、自分に向けられる。自分だけに向けられて、逃げることが出来なくなっている。言葉の意味を知っているはずなのに、わけの分からない言語を一方的に言われるような気がして。姿形は同じなのに、別人のような様相を突きつけられる。
「はっ、はっ、げぇぇぇ」
訳が分からない。何も分からない。現実のはずなのに、現実に居てはいけないモノを見た。その不協和音を突きつけられたティリスは、痛みとストレスにより仰向けになりながら嘔吐をした。
自分の状況が理解できず、この後に何が行われるのかも予測できず、目の前に居る者が本当に人なのかも分からず、心は余裕が無くなり不安と恐怖が代わりに染めて行く。
「仰向けでそれは危険だってさ。ほら、座って良いから吐き切りな」
ティリスの姿を見たイキョウは、あっさりとその身をどかしてティリスが吐きやすいような姿勢を取らせようとする。
が、それすらもティリスには理解できない。イキョウが何をしたいのかが全く分からなくて、吐瀉物を口に溜めながら顔を歪めて泣き始める。ティリスは静かに恐慌状態へと陥っていた。
「泣いてる暇があったら吐けって」
気道を確保することすら出来なくてパニックになっているティリスの身体を、イキョウはうつ伏せに転がしてから軽く持ち上げた。
中腰で雑に身体を持ち上げるイキョウ。ティリスはその腕に胴体を垂らしながら力無く垂れさがって、口から吐瀉物を垂らしながら咽び泣く。
パニックになっているから思考は動いていない。しかし本能で、自分は何をさせられているのだろうと考えて怯えずには居られなかった。
「よ
し、吐ききったな。これで ちゃんとお喋りができる」
淡々と事をこなすイキョウは、再度ティリスの身体を仰向けにして馬乗りになりながらまた顔を見つめた。
「お前から聞きたい言葉はごめんなさいって言葉だけ。それを言われたら許してあげなければいけない。そう教わったから、オレも良く使う」
「ひゅっ……あ、ぁ」
「使っても許してもらえない事もあるから難しいよ。でもお前らは許すよ、ピウの仲間だからな。こっちのオレでも最低限だ、オレは普通だオレは普通だ」
名前を出されたピウは、反応を示す事が出来にない。全身が強張って、何もする事が出来ない。
「ごめんなさいって言ってみろ。それだけで終わるから」
「ご……ごめん……な……ケホ」
「言えっつってんだろ」
そう言ってイキョウは、何処からともなく取り出したスローングダガーを左手に持って、ティリスの掌へと突きたてる。
「ああああああ!!」
「声出るじゃん。
見てたから知ってる、お前って回復魔法使えるよな。刺されたってそれで治せば良いだけの話じゃん。痛がる必要あるのか。痛いよなぁ。辛いよなぁ。悪いな、苦しませちゃって」
イキョウはそっとティリスの頭を撫でて宥める。その行動も何をしたいのかが分からないのに、その異質な態度にティリスの心は少しだけ揺らいだ。
不協和音の中の、異質な優しさはそれだけで縋りたくなってしまう。たとえそれが、相手がおかしな奴だとしても。例えそれが、イキョウの術中に嵌り始めていると知らなくても。
しかし、その直後。ティリスの鎖骨に走った手が、指が、体の内へと強く押し込まれ、そして――。
「ッ――!! ああああああああああああああああああああ!!」
骨をへし折られた。痛みによる絶叫が、この森にこだまする。その絶叫により、折られた鎖骨に痛みが走るが、それでも叫ばすには居られなかった。そして、傷みと心の揺らぎによって無理矢理恐慌状態を治められる。それは幸いなのか、それとも不幸なことなのか。
「……あ、んた……何がしたい、の……」
心が揺らいだおかげで油断してた心の隙に、痛みを差し込まれ、情動の反復によってようやく思考が出来たティリスは、イキョウへ行動の目的を問う。
イキョウが思い描いた通りに、目論見通りに。苦と痛を操り、話せるように。
「言ったじゃん。ごめんなさいって言って欲しいだけ。オレの仲間を侮辱したんだから、ちゃんと謝って欲しいだけ」
「だったら言ってやるわよ!! 悪かったわね!!」
骨が折れたくらいで、手に穴が開いたくらいで、心が折れるほど一等級冒険者というのは弱いものではない。だから、ティリスは痛みを我慢して精一杯反論する。少し冷静になれたから、いつもの気取った態度で言葉を発した。
「わねじゃねぇんだよ」
そう吐き捨てて、イキョウは躊躇無くティリスの鎧を貫通させて肩口へナイフを突き刺した。
「ああああああああああ!!」
ただ、イキョウの齎す痛みは、戦いで負う様な偶然の傷ではない。人の痛みを、人の苦痛を知っている、殺す痛みではなく人を痛めつける為の痛みだ。その痛みをティリスは知らない。モンスターと戦う冒険者は、人を貶める為の痛みなんて知らなかった。
「うるさいよ。そんな声上げられるならまず謝ってね。痛いだろ、熱いだろ。なんだろ。なあ、どうなの。痛いのか。熱いのか。ごめんな。なんだろ、会話するんだった」
「ひぐ……本当になんなのよぉ……」
「聞いてんだけど」
イキョウは肩に刺さったナイフに指先を添えて、グリグリと回しながら再度質問を繰り返す。
「いやあああああ!! やめてやめてやめて!! 痛いです!!熱いの!!」
「だよな。ごめんな、辛い思いさせちゃって」
痛みを訴えたティリスの声を聞くと、イキョウはすぐに指を離してティリスの顔に左手を添える。
その手はそっと優しく、苦しみの中で唯一縋るしかないような温かみを齎せながら。しかしそれと同時に、おかしな目がこちらを見てくる。ティリスはその目で見つめられると、心の全てを見透かされているような気がしてならない。侵食するように、心を蝕むように、向けられたその眼には、抗うことが出来ない。
「なに、なんなのよ……やめて、そんな目で私を見ないで……」
「お前は恐怖よりもこっちの方が良いな、そんな人間なんだろう、それがお前ってもんなんだろう」
イキョウは一人で納得したような言葉を呟く。その呟きには確信と、ただ合理的だから選んだという無情さを孕んでいた。
「何言ってるのよ、イミワカンナイ……」
ティリスはイキョウから目を背けながらも、その顔は添えられた手からは離れることはなかった。くすぐるように優しく撫でてくる手は、人のぬくもりというものを一切感じないのに、人の心をくすぐってくる。
「でさ、こんだけ喋れるなら言えるだろ。さっさと言ってよ」
「わ……悪かったわね……。あんたの仲間を貶した事は謝るわ」
ティリスはイキョウから顔を背けながらツンと謝罪をした。それはティリスの精一杯の謝罪だった。
「だからさ」
その謝罪を受けたイキョウは左手を離し、右手のダガーを逆手に持ってティリスの顔にそっと突きつける。
「そうじゃねぇって言ってんでしょ」
そしてそのダガーの切っ先を、ティリスの眼球へとじわじわ接近させていく。
その切っ先に迷いはない。だから、ティリスは近づいて来る刃に視線を向けて、怯えることしか出来なかった。
「いや、やめて、言った!! 謝ったから許して!!」
淡々とことを進めるイキョウへ、懇願するようにティリスは告げる。が。
「次だ」
イキョウは再度ナイフを突き刺した。しかしそれは目ではない。右手のダガーは眼球に触れる前に止まっている。
しかし意識外の、予想外の、左腹部から刺された痛みを感じたティリスは、その痛みに顔を歪ませ絶叫を上げた。
「痛い痛い痛い痛い!! なんでやめて!! いやだ!! やだよママ!! 助けてレレイラ、ピウ!!」
「仲間に助けを請う暇があったら謝りな。請われた方も困るから、お前がごめんないって言えば良いのに言わないからこうなってるだけ。オレはそれだけが聞きたいだけ、余計な言葉は要らないから。邪魔だから」
「……もう、許して……」
ティリスはただ無力に、嗚咽を上げながら謝る。何度も何度も謝ったのに、また謝る。
「話し聞いてたかお前。別に屈服させようとしてるわけじゃない。ごめんなさいが聞きたいんだ。ただ謝ってほしいだけなんだ。よかったな、お前がピウの仲間で。これだけで終れるんだ」
イキョウはまた新しく取り出したナイフを左手に持って、ティリスの視界にちらつかせた。
「いやっ、も、もうっ、止めて……」
「泣いてる。人が、どうでもいいなら。どうでも良いんだから、邪魔すんなよオレ」
「ご、ごめんっ、なさ、い……」
「謝罪……あぁ……うん。もういいよ、終わり、ちゃんと後悔しているようだしもう終了。良く頑張りました」
ティリスの言葉に応じて、イキョウはナイフをしまってニッコリと笑いながら顔へと手を伸ばす。ただのハリボテの笑顔を浮かべる。心に無い感情を顔に浮かべる。暗い目に、作った笑みを浮かべている。感情の無い笑みは、ある意味では不気味、そしてある意味では虚しさを感じる神秘さがあった。
「ひっ……!!」
笑みを浮かべ、手を伸ばして来たイキョウ。その手にティリスは一瞬怯えた。また痛いことをされるのでは、恐怖を植えつけられるのではないのかと思ってしまって。
が、しかし。予想に反して、イキョウのてはティリスの頭を優しく撫でる。その手に人の温もりなど一切感じない。しかし、頭を優しく撫でられると、心の中が温かい気持ちで満たされた。満たされてしまった。こんな状況で、そんな事をされたから、不覚にも。
恐怖に漬けた後に見せる優しさ。それは、この男が行う掌握術の一つだった。純粋で、日頃から虚勢を張っているティリスにはそれが効果的だった。たとえの手段が、道徳や人道に反していても。人の心をもてあぞぶ冒涜的な行為であっても。
「痛いの嫌だったか」
「は、はい……」
無機質な、しかし優しい声色の問いかけに、惹き寄せられながら答える。どうして自分の心が、こんな訳の分からない奴に動かされてるのかが、もう自分自身でも理解が出来ない。
この状況も、相手の男も、自分の心も何も分からないから、少しでも縋れるものがあるとそれに縋ってしまう。暗闇に閉じ込められ、誰にも自分の伸ばした手や助けを求める声が届かない最中、優しく手を掴んでくれる者に縋ってしまう。例えそれが暗闇に閉じ込めた相手だったとしても。否、むしろ、酷い事をされたあとに優しくされてしまったからこそ、心の反復は大きくなり、相手へ縋ってしまう。
ティリスは年上の男に憧れている乙女だ。それは、一等級冒険者として周りを引っ張る存在で居なければならない、頼られる存在で居なければならないと強く思っていて、常に気が張っている。だからこそ、常に素の自分を見せて甘えられて、手を引っ張って貰えるような余裕のある男の人に憧れている。そんな男に、自分の上に立って欲しかった。男の人に頼りたかった。
故にティリスはその心を弄ばれる。痛みと恐怖で消耗した心に漬け込まれる。ぼーっと、ぽーっと、イキョウを見てしまう。
その様子を、イキョウは無関心そうに見下ろしていた。ただ淡々と見落としていた。掌握するために、人の心理を揺さぶる為に、この行為を行っていた。この女の願いなど、内に入り込んだときから見えていた。だから利用した。乙女の心を冒涜した。心を壊すよりも冷酷で、命を殺すよりも残酷なことを。心を、歪めた。
「そっか。じゃあ、抜くときは大変だよな。ちょっとだけ和らげてやるよ」
そう言ってイキョウは、ティリスの頭を撫でていた手を少し離し、指先だけを頭皮に滑らせる。
「は? えっ、あっ、ナニコレ……」
「気持ち良いだろ。オレの目ってぶっ壊れてて、見ようと思えば人の微細な反応まで捕らえられるんだ。だから、ちょっと撫でれば何処が気持ち良いのかすぐに分かる」
イキョウは滑らせていた指を今度はティリスの顔、唇へとゆっくり移動させた。
「例えば――こういう風に」
「はっっっ……んっ」
イキョウの手が滑れば滑るほど、ティリスの身体に快感が蓄積されていく。
情動振幅と、思考鈍化と、快楽と、苦痛。それが、このイキョウが今用いている手段だ。殺すよりも、廃人にするよりも、人の尊厳を無視して支配し、利用する手段を用いる。殺すよりも難しく、殺すよりも利が多い手段を用ることを、機械的に行う。
その眼と手を向けられたティリスは、下腹部ではない。頭が、脳が、無意識に快楽を求めて浅ましくなってしまう。抗いたいのに、段々と快楽を求めてしまう自分がいる。体の痛みさえも快楽に変わっていく。
それが、自分の奥底にある願いに触れていたから。イキョウの行いは、ティリスが一等級になってからずっと願っていたことに触れているから。
そんなティリスの首元に、イキョウの指は移動していく。
「お前さ、禄でもない欲望持ってるな。自分でも気付いてない、根底の影に隠れたもんだ」
「あっ、そこ……だめっ、んっ…………」
「そうそう。気持ち良さの方に集中してて」
「ふぎゅ!!」
イキョウは言葉と共に漆黒のダガーをしまうと、空いた右手でティリスの掌に突き刺さってるナイフを一気に引き抜いた。
「はぁっ、はっ。はっ、んっ」
ティリスの手には痛みと熱さが混在している。しかしティリスはだらしなく口を開け、目を蕩けさせながら浅い呼吸を繰り返していた。
痛いはずなのに、熱いはずなのに、それすらも快感に混ざり合ってしまう。痛いから、熱いから、余計に刺激が増えて快感がより大きいものへと変化した。
「そうそう。上手い上手い、次も行ってみようか」
イキョウはティリスの下顎を指先でくすぐりながら、今度は脇腹に突き刺したナイフを引っこ抜く。
「んくっ!! ふーっ……!! ふーっ……」
その痛みもまた、快楽に混ざりこんだ。目を見開きながら、唇を突き出して荒い呼吸をする。
その快楽が荒い吐息を吐き出させながら、ティリスの身体は小刻みに震えている。
もう、次で終わることだろう。
「はいはい。快楽に素直になれて立派だな。最後は肩に刺したナイフ、これでお仕舞にしてやるから」
「あっ、ダメ、もう無理。ゼッタイに――」
「人って良いな、お前は気持ちよくなってさえいれば良いんだから」
ティリスの思考を誘うように、イキョウは優しい声色で話しかける。撫でている左手は耳へそっと這わせて移動させ、開いている左手は肩口のナイフをそっと摘みながら――。
「そこダメっ、気持ちよすぎて無理!! イっ、……ダメなの!! やだ!!怖いの!!」
「怖がる必要ないから。大丈夫だ、恥ずかしがることないから素直に言いなよ」
ずっと小刻みに震えながら快感の涙を流すティリスに向かって、イキョウは少し強い語気で言い放つ。
それが今度は強制をされているようで、頭の中を縛られているように錯覚させられて。上辺だけの抵抗をしていた理性はもう捕らえられて、その理性が本能へと溶け込まされてしまう。
「ひぎゅっ、む、無理。恥ずかしい……あっ」
「恥ずかしいなら恥ずかしいままいったほうが良いかもな、お前そう言うの好きだろ」
「そんなこと、んっ、ない……です……」
「そっぽ向いてないででオレだけ見てろ。顔は外すなよ、しっかりと目を見ながら晒せ」
「いっやっ、んきゅ、はぁっ――あぁっ――……ッ、見ないで、ダメだって!!」
「そう言いながら見てくるんだもんなぁ。はい最後のナイフ」
「ああっ、止めて!! 来るから、来ちゃうからァ!!」
「一等級冒険者やってるくせに仲間の前で無様に晒すなんて惨めだな。さようなら」
イキョウはティリスの耳を指で優しく擦り続けながら、最後のナイフを引き抜いた。
快楽、羞恥、痛み、そして謗り。それらは同時にティリスに襲い掛かり、高潔な心を全て踏みにじる。
それと同時に――――。
「いきゅ、イッ――――――――くッ!!」
ティリスは全身を収縮させ、腰が大きく震え息が途切れて小刻みに吐き出された。
羞恥と快楽に顔が歪み、耳まで熱を帯びた赤らみを表しながら、瞳は虚空を見つめ、歯を食いしばって頭が壊れてしまわないよう必死に快楽の波を耐え続ける。
その快楽に溺れそうになってるティリスの頭を、イキョウは指を這わせるのではなく優しく撫でてあやしていた。
羞恥と快楽が鞭のように脳を叩き、温かい安心だけがティリスの脳を解きほぐしてくれる。
この瞬間だけは、ティリスの全てがイキョウに支配されていた。心も身体も、全部、余すことなく全て。
一時の快楽が終わった後も、ティリスは覚めやらぬ吐息を吐き出しながら、ぼーっとした目でイキョウのことだけを見つめている。無気力に開かれた口からは涎が垂れていて、放心にも近い状態へとなっていた。
ただし。この光景は普通ではない。ここに何も常識はない。ただ非常識に混沌とした光景が繰り広げられている。
「だらしない顔してるね。まあ、理性が戻ったらで良いからさっさと魔法で回復しておけよ、一等級冒険者さん。―――ピウの仲間か―――一々面倒だ。でもそこは守らなきゃな。そうだ、そう。守らなきゃ、大事だから」
事を終わらせたイキョウは、見放すかの如く無関心な態度を露にしながら立ち上がった。
そのイキョウの姿を、ティリスは放心しながら無意識に目で追うことしか出来ない。
また、この光景を、レレイラとピウは真っ赤になりながらただただ見ていることしか出来なかった。
いつも毅然と振舞っていたリーダーが、こんなに人前でだらしなく達する光景を見せ付けられ、思わず目を奪われていたから。あの何を考えてるのか分からない男が怖くて、普段は絶対に見ることのないリーダーの姿を見せられて恥ずかしくなって、でも絶対にあの男の標的になるのが恐怖でしかなくて、何も言葉を発せずにいた。恥と恐怖が混ざっていた。
それは二匹のクライブも同様だ。逃げれば良いのに逃げられない。視線は向けられていないのに、睨まれている感覚が甲羅を這っていて逃げ出すことが出来ない。
レレイラとピウには分かっている事がある。今のイキョウは人を侵食して内から侮辱する、それは躊躇いもなく、それでいて強かに。
「それは間違いだ」
その考えを否定するかのように、まるで人の心を呼んだかのように、イキョウは小さくつぶやいた。しかし、その声が二人に届くことはない。なぜなら、イキョウはその二人に聞かせていなかったから。だから、二人はその言葉に反応を示さなかった。
それよりも、二人は目の前の光景に囚われて動くことが出来ないでいた。ティリスのことは助けたかった。でも、何故だか体が言うことを聞いてくれない。まるで見えない何かによってその場に縛り付けられているかの如く……イキョウはティリスに目を向けていたから見られているはずが無いというのに、誰かにずっと見られている気がして、睨まれている気がして、足の先すら指の先すらも全く動かせなくなっていた。
壊れた目が、この場を呑み込んでいた。
イキョウはその壊れた眼をレレイラへとズルリと向ける。




