09.平和を愛する小市民
「なぁナトリ頼むよー。オレが来るなら行くって言ってたじゃーん」
「そうしたいのは山々なのであるがな、馬鹿からの要請で猫の出産時期が近いからと交代で夜番をすることとなった。産まれ次第すぐに向かおう」
「その約束破ってこっち来たらマジでお前の命無いから絶対守っとけ。訳が訳だからしゃーない。ナトリも子供を産む猫も、命を大事に、だ」
「ふはははははは!! 貴様が命をとほざくか、傑作、傑作である!!」
「子子子子子子子子子子子子ってあるじゃん。あれ最初読み方素でココココココココココココって思ってたわ」
「やめろ阿呆!! 腹が、腹が!! ふはははははは――!!」
「やったぜ」
(一人で何を話しているんだ……?)
夜の町。一軒の宿屋には、姿を隠す魔法を使用して透明化した騎手が壁に張り付いていた。
ランプの光だけが薄っすらと照らす一人部屋の中では、イキョウが酒を呑みながら誰かと話しているような様子が見て取れる。
その姿を、全身黒の衣装で包み、その上透明化をした騎手が、窓越しに顔だけ覗き込ませて訝しげに観察していた。
(もしやあの男、気狂いの類か? なんにせよ、話が聞こえないのでは張り込む意味が無い)
宿の窓越しでは、まるで聞かれないよう図られているかの如くイキョウが話している内容までは聞き取ることが出来ないため、調査も出来なければ弱みを握ることも出来ない。そのため騎手は趣向を変えることにする。
足音や衣擦れの音さえ立てず、存在を誰にも知られないまま宿内部へと忍び込み、木製の階段を上がって二階へ侵入する。
薄暗い廊下、客は全員寝静まっているのか物音一つない廊下を、物音一つ立てることすらない騎手が素早く移動する。
そして、外観から推測されるイキョウの部屋の前までたどり着くと、ふとあることに気付く。
(話し声が聞こえない)
この宿屋はお世辞にも立派とは言えない。言うなればどこにでもある一般的な町の宿屋だ。ならば、扉の前まで来れば人の話し声はくぐもった音になって聞こえてくるはずだ。
にも関わらず、扉の向こうからは何一つ聞こえてこない。
自分があんな男に気取られる訳が無いと思っている騎手は、扉越しに漏れる薄い明かりを見て判断する。
(寝て居る訳ではない。厠か? いや、すぐに侵入したのだから、部屋から出たのなら気配や物音で絶対に気付く。だったら話すのをやめただけか)
この男は、騎手の仕事を引き上げて以降、ずっと近くでイキョウのことを観察していた。
店で夕飯を食べているときは気付かれないよう変装をして、宿のロビーで客達と酒を呑んでいるときは離れた場所から後ろ目に。そしてようやく部屋に戻ったと思ったら、今度は一人でボーっと酒を呑み始め、途中で部屋を出てどこかへ行ったと思ったらベトベトになった手を拭きながら戻ってきて。そして小一時間たったところで急に話し始めた。
観察しながら、『酒を飲んでばかりではないかコイツ』と思ったりもしたが、口に出す事は無かった。
(気狂いならば気狂いで利用するだけだな。中を探るか)
騎手は音のしない扉へ静かに耳を這わせて、何をしているのかを探ろうとする。
呼吸を聞いて、もし酒を呑んだ末に寝落ちしているのならば忍び込んで探る、起きているようならまた外側に回って窓越しに観察するだけだ。
地道な作業。これこそが裏方の仕事の真髄であり、決して怠ってはいけない大切な作業であった。
任務遂行のため。そのためにはあの軟弱そうな男だろうが気が狂っていようが利用できるところは利用する、そして必要ならば貶める。
その事前準備として、今するべきは情報収集。そのために扉に耳を付けて中を探る。
しかし。
(呼吸音がしない……? それどころか気配が……)
騎手は、中から人の反応というものが全く伺えないことに混乱の表情を露にする。
ありえるはずが無い。この短時間で自分に気取られること無く部屋から出られるものなど、マクグリス隊長を除いて絶対に居るはずが無い。
心のそこからありえないという感情が溢れてきて、始めて騎手は表情というものを崩した。
長年務めてきた諜報員としての経験と実績、そしてマクグリスから信頼されている者という自信がこの騎手の中での絶対的な柱であり、その柱にヒビが入るということは、思わず混乱を表面にまで出してしまう出来事であった。
そしてその混乱をさらに乱すように。
「言ったよな。次はただじゃおかないって」
急に真横から声が聞こえてきて、間髪入れずそれと同時に脇腹へ容赦なく衝撃が走る。
混乱に続く意識外の出来事。自分の身に何が起きたのかは、蹴り飛ばされた体が、床に落ちて衝撃が背中へ伝わった後だった。
脇腹の滲む痛みと受けた衝撃から、自分は蹴られたということを、混乱した頭で必死に冷静に分析し理解する。
諜報員として、不測の事態にも冷静に対処できる訓練は積んでいた。だから、これほどの混乱に見舞われても分析することはやめない。
しかし、混乱がとめどなく襲ってきて冷静になる事は許されなかった。
(俺はまだ透明の状態のままだ。気配だって消している。何者であろうと補足など出来るはずが無い!! だってのに、誰が――!!)
騎手は痛みで鈍りそうになる思考を、訓練された冷静さで必死に押さえつけて考える。
何も無かったはずの暗闇から不意に蹴り飛ばされて床に横たわっていた身体を、痛みを我慢しながら騎手は気合で起こし――そして目に入った者は。
(こ、コイツは仮面部隊の――!!)
……暗闇の向こう。そこには緑色のバンダナをした、人を嘲笑うかのような仮面をつけている男が立っていた。
しかし、騎手はその正体を知ることが出来ない。似た姿を見たことがあるというのに、その男の情報と目の前の存在の情報が頭の中で照合することを忘れてしまったかのように一切結びつかない。
(何故件の奴がここに居る。何故だ、何故!! 知らなかった?見逃した? この俺がこんな重大な情報を逃してたってのか!?)
騎手は現れた存在を見て、さらに混乱が加速する。
しかし声は出さない。気配を消すことも忘れない。冷静な判断を崩さない。
(バカめ。この暗闇で透明、そして気配は消している。蹴り飛ばしたことが仇になったな、このまま闇に乗じて逃げれば俺の正体は知られない)
もし顔を知られてしまったら終わりだ。諜報員としての名に傷がつき、その上カフスに対して探りを入れていたことが露呈してしまう。そしたら今度はあちら側にカードが渡ってしまう可能性だってあった。
たとえ拷問されようとも正体や命令に関して話す気は無い。しかし、自分は帝国側から派遣された騎手という事実は持っている。諜報員としての情報は漏れずとも、顔がばれれば帝国から派遣された騎手としての情報が露になってしまう。それだけで帝国側に落ち度があった事になってしまう。
(まさか気取られるとは思っても見なかった。堂々と近くで監視することにしたが失敗だったな。まさか仮面部隊が、この俺を一度でも捕捉出来るほどの実力を持っていたとは。あまつさえこの町に居たことすら分からないほど巧妙に移動していたなんて)
騎手は、透明化の状態で背後から不意に襲って仮面を剥ぎ取り正体を掴むことよりも、この場は撤退して体制を立て直した方が得策と判断した。
逃げに徹すれば確実に見つからない。闇夜というのは身を隠すものにとってのテリトリーであり、それはこの男も例外ではなかった。それに加えて騎手は手練の諜報員でもある、故により隠れる力を有している。
だったら目の前の男から逃げるなんて造作も無いことだ。
混乱していた頭もようやく落ち着きを取り戻し始め、その思考を持って冷静な判断をした騎手は瞬時に立ち上がり、無音で逃走を始めようとする――――が。
「舐めてんだろお前」
その一言で体が強張り足が止まる。まるで『逃げるな』と言われたようで。
おかしい、見えていないはずだ、気取られてないはずだ。なのに目の前の男はしっかりとこちらを見て言葉を言い放った。
普通の者ならば、その目にはうす暗がりの廊下しか写らない。普通の者ならば、俺が逃げようとしていることなんて絶対に分からないはず。
なのに目の前の男は、俺が見えているような視線で、何をしようとしたのかが分かったような口ぶりで、こちらを観てくる。
(そんなはずは無い。蹴り飛ばした感覚から大まかな距離や方向を計算し、俺が取るであろう行動を予測してハッタリを効かせただけだ)
仮面の男の言葉をハッタリと判断した騎手は、これ以上は時間の無駄だと判断してすぐさま身を翻し、無音の逃走を図ろうとする。
「分かれないか、お前程度じゃ」
が、しかし。一歩踏み出した直後――仮面の男の声と共に、体の力が抜け、体が床へと堕ちる、今度は背中ではなく、体の前面が無慈悲にも。
まるで、あらかじめ仕掛けられていた罠に掛った獣のように、騎手の体はここに囚われる。
それは一瞬の出来事であり、すぐさま身体は元の自由を取り戻したが、騎手は己の身に何が起きたのかが一切分からない。折角落ち着きを取り戻しつつあった思考回路は再度混乱へと誘われる。
そしてそれに拍車をかけるように。
「なにオレから逃げようとしちゃってるワケ?」
その言葉と共に、うつ伏せで床に這い蹲っていた騎手の視線の両端に、足が降ろされる。
と同時に、背中に誰かが馬乗りになっている感覚と、絶対的に見られているという感覚が身体を襲った。
気持ちの悪い視線。ヌラりとした何かが身体を這いずっているような感覚。
相手の顔を確認したわけではない。その視線を生み出す素顔を見たわけではない。しかし、一目見たときから確信があった。この上に乗っている男は仮面部隊が一人、嘲笑の仮面だということを。
「ほら、黙ってないで何か喋れよ」
馬乗りになった嘲笑の仮面は、騎手の頭に手を置き、押し付けて地面に擦らせながら言葉を放つ。
混乱してても諜報員の意地がある。だから騎手は何も喋らず透明化も解かない。
「んだよ、お前が謝ればそれだけで終わりだったのに。なーんも喋らないからこっちだって終われないじゃん。なあ?」
嘲笑の仮面はまるで普通に会話をするかのように平然とした声で問いかけてくる。その様は、この状態に何も感じていないかのように。故に、視線は捕えるような者の目のように感じるのに、どうしてか焦点が向けられているとは思えない不可解な気味の悪さを、騎手は嫌でも感じる。
「……だんまり続けんのか。すげーな帝国の諜報員って。根性あるじゃん」
その言葉を聞き、騎手の心臓がドクリと跳ね上がる。
嘲笑の仮面の言葉はまるで、こちらが何者なのかを把握しているかのような口ぶりだ。しかし予測できないわけではない。此度カフス達は、帝国の要請によって召集されている。だったら、この場合で正体不明の相手に探られた場合、帝国の者も可能性の一つには入ってくるわけだ。
だが、男の口ぶりが確定のように話してくるのがどうしても無視できない。が、それもこちらが何も反応を示さなければ良いだけの話だ。正体を直接見破られていなければ、自分が何者なのかを知るすべは無いだろう。
「安心しろって。結構ドタバタやったけど、宿屋のやつらは全員眠らせてあるから起きて来ねーよ。カフカフ…じゃなかった。カフスはソーキスに頼んで添い寝させてるから寝てて部屋から出てこない。つまり、こっちはいくらでもお前とおしゃべりできるってワケだ」
何気ない口調とは裏腹に淡々と話す嘲笑の仮面の言葉を聞いて、騎手は心臓の鼓動が止まらない。ただ激しさを増すばかり。
今の言葉を聞けば、自分の襲撃は予想されていて、尚且つ誘い込まれたなんてことは簡単に理解できる。
そして、自分がそのような状況に陥ってしまったことが、信じられなくて焦りと動機が止まらない。
騎手は初めてだった。誰かを掌で転がす事はあっても、自らが転がされる側に回ることなどたったの一度も経験したことが無かった。
「ほーらほーら、目的は? 命令してきたやつは? 好きな食べ物は? 黙ってちゃ何も始まらないよ。トークしよーよトーク(笑)」
仮面部隊の者は、どうでも良い事を質問するかのように、言葉を並べた。
煽るかの様な口調で、しかし淡々と話しかけてくるが、騎手の耳には何も入ってはこない。
現状をどうするか、何でこうなったか、どうすれば良いのか。焦りが心臓に早鐘を打たせる中、それでも必死に考え事をする。
「全然喋らねーじゃん。別にこっちとしてはどうでもいいんだよ。ただ、変なことに巻き込むなって言いたいわけ。そっちの事情は知らん、知らんから勝手にやってろ。だから干渉してくんな、面倒毎を持ち込むな。分かった?」
嘲笑の仮面の言葉に騎手は答えない。
声という情報すら渡さない。何があろうと相手に情報を与える事は、一切しない。
「マジかよ。謝ってくれなくても、せめて分かったって言ってくれれば開放したってのに、それすらしてくれないわけ? やだなぁ、暴力とかしたら仲間から怒られちまうよ……なあ、いねーじゃん……いねーんだよなぁ。だからこうなっちまうんだよなぁ」
今度は素っ頓狂な口調で淡々と話す嘲笑の仮面。そして――。
「なあ、騎手って何処怪我したら飛ばせなくなる? そこは避けるから」
「……は?」
ふいの問いに、騎手はふいに声を上げてしまった。
たった二文字の言葉に、騎手の頭は真っ白になって自然と声が出てしまった。
「ようやく喋って一文字? しかも『は?』 は? ……歯か。何で歯? 手綱噛んで乗ってるの?」
理解が追いつかない。
何故この男は今回の襲撃者と騎手を結び付けられたのか。絶対に繋がるわけが無いのだ。何故なら、男の経歴を示すものは全てが、騎手に繋がるようなものしか残しては居ないし差し替えてある。また騎手からの情報も、この男本来の仕事に繋がるようなモノは一切無い。表向きは騎手として、日常的な行動や仕事態度はただの一般人に偽装している。
また、騎手としての気配と諜報員としての気配を使い分けていて、普段は品行方正で真面目な姿をしているから、その態度を見れば誰だって自分が諜報員だと気付かれる事は決してありえない。
現に、今日始めて会ったバカそうな男からもクソ真面目といわれる始末だ。そう評価されるようにわざと務めて生きてきた。
そして、その特徴のない見た目から、一度や二度顔を見たくらいでは印象に残らないように工作もしている。
だからどれだけ考えをめぐらそうと、今の姿無き男の正体に対する選択肢の中に、騎手だってことは決して浮かんでは来ないはずだった。
ここまで行くともはやブラフやハッタリではない。この仮面の男は確実に自分の正体に気が付いている。
負けた。初めて任務に失敗した。この仮面の男は今すぐここで自分を捕らえて、この身を帝国に持っていくことだろう。そしたらもう、騎手としての人生も、諜報員としての人生も終わる。厳しい制裁が待っている。
正体を知られてしまっては、自害したところで遺体が情報として残ってしまうので意味は無い。逃げ出そうとしたところで、もはや逃げられない。ならば、交渉をして帝国側が少しでも有利になるようにするしかない。
(まさか、内容としては比較的簡単なはずだった任務で人生初の失敗をすることになるとは……ッ!!)
しかし嘆いてる時間も悔いている暇も無い。今すべきはこの男と交渉をすることだ。
「じゃあまずは指外すわ。流石に折っちゃワイバーン引けなくなるだろから、一旦ね、一旦」
嘲笑の仮面は騎手の透明な手を掴んで背中側に引き上げる。まるで見えているかのように。
「待て!! 待ってくれ!! 降参だ!!」
だから、騎手はここへ来て始めて、姿を現し言葉を話す。うつ伏せで組み伏せられながら。
負けを認めた。つまり、相手に一旦主導権を全て渡した。だから相手は拷問じみた事は辞めて、会話、引いては交渉のターンが回ってくることだろう。
そのターンで今度は舌戦にてこちらの被害を最小限に抑える。それでも任務の失敗は失敗だ。失敗による被害を最小限に抑えても、マクグリスからは何らかの制裁を受けることだろう。
しかしそれでも、帝国の為に騎手はまだ戦う。ようやく口を割って降参の意を示したからには、相手もこちらの情報が欲しいだろう。だから、馬乗りになっている男に、次は言葉で立ち向かう。そう決心したとき――。
「じゃねぇんだよ」
その冷たい一言で騎手の右手の人差し指は外された。
「ッーーーーーー!」
予測のしなかった不意の脱臼。会話をするものだと思っていたのに、負けを認めたのに、何故か拷問が行われていた。
その注意外からの痛みは、痛みに対する心構えを作ることなく行われた為、余計に激痛が走る。
「はい次は」
「降参って言ってるじゃないか!! 話をしよう、そちらの望みは――」
「中指」
「ぐぅうううう!!」
嘲笑の仮面の男は止まらずに淡々と作業を行う。
「言っただろ。謝るか、もうしないって言ってくれたら終わるって。次は」
「……は? 言ってる意味が」
「薬指、と思わせて親指」
「何故だぁ!!」
騎手はこの男の言っている意味が分からない。情報を引き出すわけでもなく、交換条件を提示してくるわけでもなく、想定してない言葉しか言わない。
言葉だけ謝ったり約束するだけで終わるような生易しい世界など、この裏の世界には存在しなかったからだ。
「言わないならまだ続けるぞ、今度こそ薬指」
「待て、済まなかった!! もうこのような事は絶対にしない!! 約束する!!」
騎手は思う。この男は一旦上下関係を分からせた上で、このあとの交渉を始めるのだろうと。
こちらが絶対的に下、あちらは絶対的に上。つまり、隠し事なんてしようものなら、また今のような拷問をすると行動を持って分からせるつもりなのだと。
「ホント? 絶対だかんな」
「ああ……、もうしない。お前の考えも理解している。さあ言え、答えられる限りの事は話そう」
「え、何覚悟決めてんの? もう良いよ、帰ってどーぞ」
騎手の思い返事に対して、嘲笑の仮面はあっさり返しながら立ち上がる。
「……は?」
だから再度、訳が分からなくなり、騎手はうつ伏せに寝たまま顔を横にし、目を嘲笑の仮面へと向けた。
「あ、悪い悪い。指そのままにして返すのは不味いよな」
「え、あ、いや……これくらいなら自力で……」
床に座り直した騎手は、自らの指に手を当て、少しずらすと骨を正しい位置にはめ込む。
「ッ、っぅー」
はめ込む際に多少の痛みはあったが、意識的に行ったことだから我慢できないほどではない。
「お見事。ほらいけ、さっさと寝ろ」
「えぇ……。こう言ってはなんだが、私から情報を引き出したり、告発しようとは思わないのか?」
「こちとら平和を愛する小市民だぞ。物騒なことには巻き込まれたくないし、告発なんてめんどそうな事もしない」
「せめて相手の弱みくらい握っておいたほうが……何故俺がこんなことを言わなくちゃならないんだ…アホか俺は」
「お前程度に言われるまでも無い。だってお前から情報引き出す必要ないもん。帝国も同じ。こっちに弓引いたら徹底的に腐らせるけど、まだ引かれちゃいない。だったらオレはカフスのお付きよろしくのほほんと旅を満喫させてもらうわ」
「あ、うん。そう、だな?」
「喧嘩を売る相手は選んでくれよ」
その言葉、その一瞬、仮面の言葉、そして動きからは、感情が抜け落ちた……ような気配を、騎手は僅かながら感じた。たった一瞬だったため、そのことに確証は持てないが、しかしその一瞬が、騎手の心を凍えさせる。この一瞬だけで、この男に関わるべきではなかったと理解させられる。たとえ任務であっても、だ。誰もが如何なるときでも、この男と、この男の周りにあるモノに手を出したならば、結末など、果てにしか無いだろう。
ただし、そう思わされたのも一瞬。その考えは、次の言葉を持って打ち消された。
「オレが怒ってんのは――? ああ、怒ってんだよ!! オレは怒ってるのはな、カフスとソーキスが折角二人一緒に旅行してるのにお前が邪魔したからだぞ。バーカ!! アーホ!! 無粋ヤロウが!!」
「えぇ……、えぇ……? なんだコイツ……」
雰囲気がガラリと変わった男を見て、騎手は先程の一瞬を忘却の彼方に消え去る。勘違い、深読み、そう言った思考のプロセスやバカバカしいなどの感情を心の中で無意識に浮かべ、自らが知らない内に忘れさせられる。
「あとマジで面倒毎にだけは巻き込まんといて!! もううんざり!! 見逃してやるんだからそれくらいしろや!! オレに非日常を齎すな、混ざるから!!」
「あ、はい……。なんだかんだ経歴に傷つかないで終わりそうだし……家族とも離れなくて済むし……? それくらいは……?」
なんだかもう訳が分からなくなってきた騎手は、ただ言われたことを困惑しながら聞いて返事をする。
「じゃ、おやすみ!!」
「あぁ、おやす……ちょっといいか?」
「んだこのボケ!!」
「こわぁ……。負けておいてなんだけど、少し質問したいことが……」
「この欲張りさんめ、聞いてやるよ」
「情緒が……いや。お前の正体って……」
「はいざんねーん、答えられません」
「仮面部隊というのは」
「はいざんねーん、答えられません」
「……こちらの狙いを読んで」
「知りませーん、知ったら巻き込まれそうなので聞きたくありませーん」
「…………最後に一つ。その部屋に泊まってる男は一体なんだ? 気狂いなのか?」
「かっこいい男」
「え?」
「最高にクールな男」
「ふぅ、分かったよ。答える気は無いってことだな、いいさ、俺は敗北した側だ。それくらいのおちょくり――」
「かっこいい、最高に、クールな男」
「え?」
「かっこいい、最高に、クールな男」
「……え?」
闇夜の薄暗い廊下。そこでは、騎手の男がハイと返事をするまでひたすらに同じ言葉を聞かされ続けた。