第5話
鳥の鳴き声とともに目が覚めた。一瞬、自分がどこにいるのかを忘れていた。眼を開けると、白い朝の光がまぶしい。澄んだ空気がひんやりとノーラの頬をなでる。
起き上がると、持参した毛布の上にかかっていたショールがふわりと落ちた。薄いのに暖かい、精緻な刺繍がほどこされた、なめらかな手触りの異国風のショール。手に取ったとき、近くに横たわる男と目が合った。
「おは、ようございます」
「おはよう」
ウルクスが眉間にしわを寄せ、上半身を折って起き上がる。
昨夜はウルクスの話相手となって、彼の気が済むまであらゆることを話した。話し疲れて、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「あの、これ、ありがとうございました。かけていただいたんですね」
ノーラがショールを手渡すと、「冷えなかったか?」とウルクスが尋ねる。
「おかげさまでまったく」
「ならいい」
ノーラはショールを回収したウルクスの横顔をじっと見た。ヨハンネスがウルクスを敬愛している理由。それが、少しずつだがわかってきたような気がする。ウルクスは、せっかちで傲慢だが、一方で不器用なほど真面目で公平だ。そしてなにより、やさしい。
「なんだ?」
「いいえ、別に」
背後から「おはようございます」と声がして、ヨハンネスが現れた。野宿したと思えないほど、きちんとした格好をしている。
簡単な朝食をとり、支度を整える。ヨハンネスが「水筒に水を汲んできます」と、ウルクスとノーラを残して川へ歩いて行った。
すっきりとした快晴の、気持ちのいい朝だった。このまま日光浴しながらのんびりしたいくらいだが、これから一世一代の仕事が待ち受けている。100年間眠り続けるお姫様を起こす。この地に住む自分にとっては、守り神のような姫を。
改めてそのことを考えると、背筋がざわついた。心配を追い払うように、ノーラはウルクスに声をかける。
「野宿なんて、初めてだったんじゃないですか? よく眠れましたか」
「似たような経験は何度かあるし、ここは気候が安定しているから安眠できた。夢さえ見た」
「あら、どんな夢ですか」
軽い気持ちで尋ねたノーラと裏腹に、ウルクスは至極真面目な顔をして答えた。
「城の晩餐会に出ていた。お前と一緒に」
突飛な内容に、ノーラはしばし言葉を失う。
「それは……おもしろい夢ですね」
「ああ、なかなか楽しかった。大臣たちが目を白黒させていてな。もう少し見ていたかったくらいだ」
珍しく、ウルクスがふっと笑った。
きっとウルクスは、見たこと思ったことをそのまま口にしているだけで、大した意味などないのだろう。村娘であるノーラが、城の晩餐会など出られるはずがないのに。まさに、夢でしかない。だが夢でもそこにいられたということに、ノーラはふわふわと浮いているような気持ちになった。ウルクスは晩餐会では、どんな格好をするのだろう。正装したウルクスの姿を想像すると、妙にドキドキした。
夢の話の続きを乞おうと口を開こうとしたとき、ウルクスが険しい顔であたりを見回した。
「ヨハンネスが帰ってこない」
言われてみれば、水を汲みに行ったにしては、時間が経ちすぎている。
「迷っていらっしゃるんでしょうか?」
「馬鹿な。川はすぐそこのはずだ」
言い終わるのを待たずに、ウルクスが川のほうへ向かった。慌ててノーラも追いかける。辿り着いた小川は静かに日光を反射するばかりで、人の気配は感じられなかった。
「ヨハンネス、どこだ!」
声を張り上げながらしばらくあたりを探すも、侍従の姿は見当たらない。
「元の地点に戻ってみませんか。ヨハンネス様もお帰りかもしれない」
「ああ……」
冷静さを装っているが、ウルクスの焦燥が見てとれる。ヨハンネスはいったいどこに行ってしまったのだろう。ノーラの心臓の鼓動も早くなる。
野宿した場所へと足早に戻る途中、風にまぎれて「ウルクス様」というかすかな声が聞こえた。生い茂る緑をかき分けると、木に手をついて、こちらをうつろな目で見つめるヨハンネスがいた。
「ヨハンネス!」
「ああ、本物のウルクス様ですね? よかった」
いつも冷静なヨハンネスが、心ここにあらずといった様子でつぶやく。
「本物に決まっている。いったいどうした。何があった」
「川のほとりで、鹿に出会って」
ヨハンネスは一拍おいて、「それはそれは美しい雌鹿で……それが、喋ったのです。しかも、エミレアの声で」と続けた。
信じがたい内容に、ノーラはウルクスを見上げた。ウルクスは難しい顔のまま、辛抱強く話を聞いている。
「穏やかな声音で『こっちに来て』と言われて、惹き込まれるように着いて行ってしまいました。もう少しで鹿に手が届きそうというところで、崖から足を踏み外し、我に返ったときには鹿はもう消えていました。なんとか這い上がり、ノーラさんが木に結び付けていた目印を頼りに、ここまで戻ってきたのです」
「怪我は」
ヨハンネスが無念そうに首を横に振り、右足を差し出した。
「あいにく、崖から落ちたときに捻挫してしまいました。ここまでたどり着くのもやっとで……申し訳ございません」
「生きて戻ってこれただけで十分だ」
ウルクスが、横に立つノーラに顔を向ける。
「お前の目印がなかったら、ヨハンネスはここまでたどり着けなかっただろう。礼を言う」
「あたしはなにも」
「確かにここは魔法の森らしい。見くびっていた」
苦々しさと不甲斐なさがウルクスの表情に表れていた。ヨハンネスを支えながら、荷物のある場所へ戻る。
回復するのを待つ余裕はないため、ヨハンネスをここに残し、城へはウルクスとノーラのふたりで向かうことになった。道行きが急激に恐ろしく感じられ、ノーラは両手をぎゅっと握りしめた。次は自分が、魔法にかどわかされて、どうにかなってしまうかもしれない。眠れる姫を起こすのは、そのくらい恐ろしいことなのだ。やっぱり自分にはできないのではないか。
逃げてしまいたい気持ちを、ノーラは必死に上書きする。城へ案内できるのは自分しかいない。一度引き受けた仕事は、最後までやりきらなければ。それに言われたじゃないか。ウルクスに、お前は旅の仲間だと。
「ノーラさん」
ヨハンネスに呼びかけられ、ノーラははっと振り返った。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。あなたに負担をかけたくはなかったのですが」
「いえ、そんなこと」
ヨハンネスの存在がどれだけ心強かったか、改めて思い知らされる。つい不安を吐露した。
「ただ、ふたりきりで、ちゃんとお役にたてるかどうか」
「大丈夫です。ウルクス様は気の強い女性がお好きですから」
ノーラの目が丸くなる。
「今、そんな話してましたっけ?」
「冗談ですよ。いえ、あながち冗談でもないのですけど」
あははと軽やかに笑ったあと、ヨハンネスは真顔に戻り、頭を下げた。
「どうか、ウルクス様をよろしくお願いします」
ノーラも「はい」と頷き、ウルクスの傍へと向かった。