第4話
休息を終えてまた1時間ほど歩き、あたりが暗くなる頃、川の近くにある岩陰に荷物を下ろし、火を熾した。今夜はここで野営し、明朝、日が昇ると同時に出発する。
夕飯は、家から持参したパンと、ゆでたジャガイモ、塩漬けにした鶏肉。さらにウルクスたちの干し肉や蒸留酒も少し分けてもらい、舌鼓を打つ。酒の力もあってか、ノーラは昼間よりもずっとリラックスして、男たちと話せていた。
話題は、王都の話や、留学していた西国の話、さらに彼らがこれまで旅してきたさまざまな土地の話にまで及んだ。土地それぞれの風習や文化は、どれもノーラには目新しく、新鮮に響く。
「本当にいろいろなところに行かれてるんですね」
「研究や調査という名目でね。友人には、騎士じゃなくて旅人じゃないかなんて言われていますよ」
ヨハンネスも少し酔っているのか、目じりがほんのり赤くなっている。
「あたし、王子様ってずっとお城の中にいるんだと思ってました」
ノーラが素直に言うと、ヨハンネスが意味ありげに笑った。
「いえ、基本的には城の中にいらっしゃいます。ウルクス様の場合は、特殊なのです」
「特殊?」
「ウルクス様は優秀かつ自立心旺盛でいらっしゃるので。侍従とふたりきりで、王子自ら地方の森を探検するなど、まずないことです」
ノーラは、燃える火越しに、ウルクスの顔を凝視した。彼は黙って酒をちびちびと飲んでいる。
確かに疑問に思ってはいたのだ。王子ともあろう者が、たかが地方病の解決のために、こんな僻地に乗り込むものだろうかと。普通は来るとしても役人がいいところだ。
「ですよね。勝手なイメージかもしれませんけど、王子様って、毎日晩餐会でごちそう食べたりしてるんだろうって思ってました」
「さすがに毎日ということはないですが、城にいると社交や付き合いで忙しいのは事実です。逆に言えば、ウルクス様は城内にとどまるには惜しいお方で――」
「ヨハンネス、喋りすぎだ」
ウルクスが話を遮る。
「失礼しました」とヨハンネスが肩をすくめた。沈黙を避けるため、ノーラはわざと明るく続けた。
「お城の話にしろ、旅の話にしろ、話を聞いてるだけでも楽しいです。こんな田舎に住んでるあたしみたいな貧乏人には、一生縁がない世界だし。それこそ、おとぎ話みたい」
お世辞ではなく本心だった。田舎の外れで、病身の父親とふたりでただ毎日を過ごすノーラには、彼らの暮らす場所はまぶしすぎる。こうして垣間見させてもらっただけで、僥倖というものだ。
「さっきの果物は、この森にしか生えていないのか?」
唐突にウルクスが尋ねる。今更なんだろうと、ノーラはいぶかしがりつつ答えた。
「いえ、森だけでなく、里一帯に自生しています。このあたりではそれほど珍しくない果物です」
「あれは王都でも需要があるはずだ。きちんと栽培すれば商売になる。安定的に稼ぐことができる」
「栽培、ですか」
ノーラはぽかんとしてしまった。果物は木になっている分をその都度取るものであり、計画的に育てて売るなどというイメージはまったくない。
「そんな知識ないですし、あたしは最低限の生活ができれば十分です。商売なんて」
「金は大事だぞ。そして、商いはいやしいものではない」
「もちろんそうですけど……別に栽培しなくとも、自然に取れた分を売ればいいんじゃ?」
ウルクスは鼻で笑った。
「自然にまかせると不確定要素が多すぎる。天候や条件で大きく左右されては、安定した商売にはならない。だからこそ、きちんと栽培する必要があると言っているんだ」
自然と共存している里の生活を否定されたようで、ノーラは内心カチンとくる。それでも相手を刺激しないように、慎重に言葉を選んだ。
「なんだか、そういう考え方は、あたしには畏れ多いっていうか……」
「また“畏れ多い”か。伝統を盲目的に信じていたいなら、止めはしない。だが魔術を見てみろ、属人性が高すぎて廃れたいい例だ。農業だろうと林業だろうと、いやそういった分野こそ、合理化しなければこの先やっていけない。そのために科学がある。科学は、一度仕組みをつくってしまえば、より多くの人に公平に機会を与えられる。文句ばかり言って状況を変えようとしない保守的な奴らは、その事実がわかっていないんだ」
言いきってふうと息を吐いたウルクスが、思い出したように付け加えた。
「別に、お前が特別愚かだと言っているわけではない。貴族だってそういう人間ばかりなのだから、庶民ならなおのことだろう」
ノーラの目の端に、苦悶の表情のヨハンネスが、そっと顔を伏せたのが見えた。その行動には、「フォローしたいが、しきれない」というメッセージがにじみ出ていた。
ノーラは後悔した。ウルクスのことをいい人かもしれないと、少しでも思ったことを。王子だろうが何だろうが、こんな男においそれとひれ伏すことはできない。
「……ウルクス様は、庶民をナメていらっしゃいませんか?」
「は?」
ウルクスが片眉を上げたが、ノーラの顔つきを見て、動きを止めた。ノーラはもてる力を振り絞り、口元だけは笑みをつくっているが、険しい目つきは隠しようがない。
「おっしゃったこと、そりゃ正論でしょうよ。優秀であらせられるウルクス様にとっては当然の話でしょうね。でも、ひとつ大事なことを忘れてませんか? 庶民は学はないかもしれないけど、人を見る目までないわけじゃありません」
「何が言いたい」
「頭でっかちで人の気持ちがわからない人には、誰もついていかないってことですよ!」
ウルクスが目を見開き、やがて眉間に大きなしわが走った。
「俺に、人の心がわからないと……?」
こうなりゃもう、とことん言ってやる。ノーラは腕を組んで、語気を強める。
「そうです。さっきから、なんで感じ悪い言い方しかできないんですか? そんな人、尊敬されると思いますか? そりゃ庶民は、お上の言うことには従わざるを得ません。でもただへつらってるだけじゃなくて、すばらしい方かそうじゃないか、こっちをナメているかどうかは、ちゃんと見てます! 従いながら、裏では舌を出す、庶民っていうのはそうやって生き抜いてるんです」
「俺は、貴族だから庶民だからと区別したことはない。その人間が優秀かどうか、事実で判断しているだけだ」
「そういうところですよ! 正論は結構。でも伝え方ってもんがあるでしょう? たくさんの人と接する機会がある人こそ、その努力が必要なんじゃないですか? 言いたいこと言い放ってなんでも受け入れられると思ってるなら、それこそ王子様ゆえの思い上がりですね。結局チヤホヤされてるからできることです。傲慢もたいがいにしてください!」
囲んでいる火が、ばちばち!と爆ぜた。ウルクスは何も言えないといった顔で、穴があくほどノーラを見つめている。ここで目をそらしたら負けだ。ノーラも思いきり睨み返した。
突然ウルクスが立ち上がる。身構えたノーラの横を大股で通り過ぎ、ずんずんと歩いていく。十数歩行ったところで、地面に大の字に寝っころがり、叫んだ。
「だーーーーーー!!!!」
ノーラが唖然としていると、近寄ってきたヨハンネスがささやく。
「心配無用です、あれは頭を冷やすときの行動ですから」
「大丈夫に見えないんですけど……。私、罰せられるんでしょうか」
「気にしないでください。ノーラさんにではなく、自分自身に怒っている感じですね。ノーラさんの話が相当こたえたのは確かでしょうけど」
長い両手両足を広げ、星空に向かって、子どものように大声を出すウルクスを見ていると、次第にノーラの体の力も抜けてきた。
「王子様って、みんなあんな感じなんですか?」
「申し上げたでしょう、ウルクス様は特殊だと」
小さい頃から体躯も立派ですし、努力家で俊才ですし、なによりあの真っすぐな性格ですし――と、ヨハンネスが続ける。
「ですので、慣習やしきたりを重んじる王宮は、ウルクス様には少し窮屈なところがあるのです」
自らあちこち旅しているのはこういう理由かと、ノーラは腑に落ちた。
「ご理解いただきたいのは、ウルクス様は本気で世の中をよくしたいと思って、自ら働かれているということです。言動が未熟な部分もありますが、経験とともに君主らしくなっていくはずです。先ほどの失礼は、私からも謝罪いたします」
「ヨハンネス様も大変ですね」
思わずノーラがこぼすと、ヨハンネスは破顔した。
「いいえ、まさか。ウルクス様に仕えられて、私は世界一幸せな家臣だと思っておりますよ」
ウルクスとヨハンネスには、強い絆があるらしい。ノーラは少しそれを羨ましく思った。
「それに今回の旅では、思わぬ副産物もあるようですし」
意味がわからずきょとんとしていると、ヨハンネスがまた笑った。ウルクスのほうを指差す。
「ほら、戻ってこられましたよ。ノーラさん、責任を取って付き合って差し上げてくださいね」
「何にです?」
そう話すノーラの目の前に、ウルクスがどかっと座る。そしてぎろりとノーラを見つめた。
「確かに、俺の言い方は間違っていた。反省の余地が大いにある」
「はあ」
「だから、教えてくれ。どうやって話せば聞いてもらえるのか、どうしたらうまく伝わるのか、人々はどんなことを求めているのか」
目をぱちくりさせるノーラに、ヨハンネスは手を振る。
「では、私は先に休ませていただきます」
「えっ、ヨハンネス様!」
ヨハンネスはあっさりと、岩陰の向こうに消えていった。ノーラは改めて目の前の男を正視する。火に照らされる真剣なまなざしを見ていると、なぜだかふと、笑みがこぼれた。
「わかりました。お付き合いします、ウルクス様」