第2話
日があるうちに森に入った。城までは約半日かかる。明日朝まで待つ手もあったが、そうすると明日のうちに戻れなくなる。どうせ森で一泊するなら、出発は早いほうがいいということになったのだ。
ウルクスと、黒髪のヨハンネスは、王都から来たという。里までは馬車の旅で5日、そこから徒歩で3日かけてやってきたそうだ。王都の人にしては、ウルクスもヨハンネスも、森の道を歩くのは比較的慣れているように見える。
「里にたどり着くまでが、思った以上に大変でした。地図で見るともっと近いように見えましたが、地形が複雑だ。すり鉢状になっていて、どこからも徒歩で峠を越える必要がある」
「はい。辺鄙な土地なので、旅人や商隊が行き来するのもひと苦労です。よその情報も入りにくくて」
その分、大きな戦乱に巻き込まれることもなく、平穏を保ってきた土地だ。いくつかの村が連なっており、人々は森から得られる動物や山菜、果物などで、ほぼ自給自足の生活をしてきた。逆に言えば、この森なくして営みは成り立たない。父親はいつも、「姫ん森に感謝の心を忘れるな。取りすぎてはいけない」と語っていた。
「時を忘れるような、のどかな里ですね」
ヨハンネスの品のいい微笑にノーラが見とれていると、「というより、まるで観光用の歴史保存地区だ。いまどき、ガス灯すらないとは」とウルクスが言った。その物言いに、どこかバカにするような響きを感じて、ノーラは少々ムッとする。
「王都の暮らしなんて、あたしには想像もつきません。ずいぶん変わった服装がはやっていらっしゃるみたいですし」
できる範囲で当てつけたつもりだったが、当のウルクスは「ああ、これか」と特に気にも留めない。
「西に留学したときに、現地から持ち帰ったものだから、王都でもまだ珍しいはずだ」
「ウルクス様の格好は、かなり個性的でいらっしゃいますよ。私なんかは、そのショールは箪笥の奥にしまったままです」
「これは軽いのに暖かいんだ。せっかく西の友人たちにもらったのに、宝の持ち腐れだな、ヨハンネス」
「おふたりは、一緒に西国に?」と尋ねたノーラに、ヨハンネスがうなずいた。
「ええ、2年ほど、科学技術を学びに。ですが私はウルクス様ほど優秀ではなかったし、馴染めませんでしたね。このお方、異国の人ともすぐに親しくなってしまうんですよ」
むっつりと口を横一文字に結んで、まっすぐ大股で歩き続けるウルクスの姿からは、異人と親しんでいるイメージが想像できなかった。
「おふたりは、ご学友ということなのでしょうか」
ノーラには、関係性がまだつかめない。ヨハンネスは目を細めた。
「ウルクス様とは、もっと昔からのお付き合いです。なにしろ、ウルクス様が生まれたときから見ていますから。僭越ながら、みっつ違いの幼なじみといったところでしょうか」
すかさずウルクスが言った。
「お目付役の間違いだろ」
ノーラは思わず、じっくりとふたりを見比べた。「なんだ?」とウルクスが怪訝な顔をする。
「ウルクス様のほうが、てっきり、ヨハンネス様より年上なのだと思っていました。様づけだし、それに」
ノーラが口ごもると、ウルクスは「それに、なんだ?」と急かす。
「見た目も、ヨハンネス様のほうが、お若く見えて……」
ヨハンネスがノーラとウルクスを交互に見たあと、こらえきれないというように噴き出した。
「どうせ俺は老けてるよ」
「ごめんなさい、そういう意味では。ただ、堂々としていらっしゃるから」
ウルクスの歩調が速くなる。ノーラは彼の頰が赤く染まっていることに気づいた。
「ノーラさん、ウルクス様は19ですよ。ぴちぴちの若者です」
「馬鹿にするな、ヨハンネス」
てっきり20代後半だと思っていたが、19歳なら、ノーラと1歳しか変わらない。話題を変えたいのか、「ところで、さっきから何をやってるんだ?」とウルクスが尋ねた。道に大きくせり出している木の枝があるたびに、ノーラは赤いリボンを結びつけていた。
「何かあったときのための、目印です」
「ここまで一本道だったと思うが」
「森では何があるかわかりませんから」
ウルクスは腑に落ちないという顔をしている。
「危険な森だとさんざん聞かされていたが、いざ入ってみたら、道は大して険しくない。危険そうな動物もいない。失踪者が出るようには思えない」
「――ここは、不思議な力に守られているんです」
1年中あまり気候が変わることがなく、常に豊かな自然がある。だが、きれいだからと奥へ奥へと進んでしまうと、いつの間にか迷ってしまう。気づかないうちに、ぐるぐると同じ場所を回っていた、という者も少なくない。里の者でもそうなのだから、よそから来た旅人はなおさらだ。
城への道案内ができると見得を切ったが、実際のところ、確実にたどり着く自信はなかった。かつてたどり着いたのは一度きり。無事に戻ったものの、父親と、当時まだ生きていた母親からこっぴどく怒られた。
不意に母親のことを思い出し、ノーラの鼻の奥がつんとする。体の弱かった母親は、数年前に風邪をこじらせて亡くなっている。このうえ、もし父親までいなくなってしまったら。兄はとうの昔に、この里を捨てて、もっと大きな町へ出て行った。だがノーラには、ほかに行くところがない。
「不思議な力か。呪われた魔法の間違いだろう」
吐き捨てるようなウルクスの言葉に、ノーラは現実に引き戻される。
「眠り続ける姫のために、何人犠牲になったというんだ」
ノーラは立ち止まり、眉根を寄せて、ウルクスとヨハンネスの全身をまじまじと見た。
彼らのことは、高価な身なりや立ち振る舞いから、興味本位でやって来た、暇を持て余した金持ち貴族だろうと思っていた。「美しいいにしえの姫が眠る、深い森の城」に、肝試し感覚で来たのだろうと。
数歩行ってから、ヨハンネスが「どうかしましたか?」と振り返った。つられてウルクスも足を止める。
出会ったときにウルクスが言った、「それでも行く必要がある」というセリフが脳内でリフレインした。
「おふたりは、城の中まで入るおつもりで……?」
「そうだが」
こともなげにウルクスが答える。ノーラは急激に冷汗をかくのを感じた。
「あそこは、普通の人間が土足で踏み入っていいような場所じゃないです。遠目で見る程度だと思っていましたが、もし何か城から取ったり、傷つけたりするつもりなら……あたし、これ以上おともはできません」
声を震わせながらも、はっきりと告げた。困り顔のヨハンネスが、ウルクスの表情を伺う。ウルクスはとくに顔色を変えることなく、つかつかとノーラの前に歩み寄った。
「それ以上のつもりだ。俺たちは姫の眠りを覚ますために来た」
ノーラは息をのみ、それから首をぶんぶんと振った。
「そんな畏れ多いこと、絶対にダメです!」
「畏れ多い? 自然の摂理に反する呪いは、誰かが解かないといけない。100年も死なずに眠り続けるなんてのはどう考えても異常だ。そのせいでこの土地に歪みが生じている、と俺たちは考えている」
「歪みなんて。暮らしていけるだけの食糧が得られるのは、姫ん森のおかげです」
何も知らないよそ者のウルクスに、なぜこんなことを言われなければいけないのか。ノーラは恐怖を通り越して、だんだん腹が立ってきた。
「自然の恵み豊かなオーロランディアの森、か。なら、なぜ里はさびれている? 地形のせいだけではあるまい。かつては人口がもっと多く、栄えていたと聞く。それが変わったのは、治療法のない奇病が蔓延してからだ」
そんな話、ここで聞きたくないのに。固まったノーラにお構いなしに、ウルクスは強い口調で続ける。
「奇病のおかげで、あたり一帯は廃れ、今じゃ国の中でも忘れ去られた土地と化している。なのに、なにが『姫ん森』だ」
パシッ! と気持ちのいい音がした。ノーラの右手が、ウルクスの左頬を打っていた。
ウルクスの背後にいるヨハンネスが、あんぐりと口をあけた。叩かれた本人に至っては、何が起きたかまったくわからないという表情をしている。
興奮のあまり肩で息をしながら、ノーラはウルクスをきっと見上げた。
「さっきから偉そうになによ。お金持ちだかなんだか知らないけど、そんなこと言われる筋合いないわ。関係ないよそ者のくせに!」
割って入ろうとしたヨハンネスを、ウルクスは手で制し、代わりに目配せをした。ヨハンネスは頷き、ケープの内側に手をやる。ぶら下げていたらしい短刀がノーラの目に映った。
斬って捨てられる――。ノーラが唾を飲み込んだとき、ウルクスが低い声で言った。
「確かに俺はこの土地の住人ではないが、無関係ではない。ついでに、さっき普通の人間がどうとか言っていたが、ある意味で俺は普通の人間ではない。少なくとも、姫とは対等な立場だ」
ウルクスが頭のターバンをつかみ、がばっと取り去った。ノーラは目を見開く。現れたのは、まるで獅子のたてがみのような、豊満な金色の髪。日の光を浴びて、キラキラと輝いている。
田舎者のノーラだってさすがに知っている。この国で金髪をもつことが、何を意味しているのか。
「俺はウルキリオウス・オウデュオン。この国の第三王子だ」
「そして私はウルキリオウス様の第一侍従、ヨハンネス・ガイラダです」
ヨハンネスが掲げた精巧な細工の短刀には、王家の紋章がはっきりと刻まれていた。
ノーラの全身から力が抜けていく。地面にへたりこんだところで、ハッとした。体勢を直し、地面に両ひざと両手をついて平伏する。
「よせ、土下座なんかしなくていい」
ウルクスに強い力で肩をつかまれ、体を起こされた。呆然としながらノーラはなんとか両足で立ったが、まだ信じられない。目の前で自分をぎろりと見下ろしている男が、まさか王子様だなんて。
「まあ、驚くのも無理はない。あえて隠していたからな」
ウルクスは、生い茂った木々の間から空を見上げ、太陽の位置を確かめた。
「時間が惜しい。続きは歩きながら話すぞ」
奇病があたり一帯を蝕み始めたのは、60年ほど前にさかのぼる。
わかりやすく熱が出たり、出血したりする病気ではない。しかし発症したら最後、徐々に眠れなくなっていく。慢性的な不眠が体を苛み、精神に異常をきたし、はやくて1年、長くても10年ほどで死に至る。
18年生きてきたなかで、そうやって死んでいった里の人たちを、ノーラは何人も見てきた。患者は老人も子どもも、男も女も関係がなく、原因も不明。予防のしようがなく、人々はただ、発症しないことを祈るしかない。ノーラの母親が風邪をこじらせて亡くなったとき、むしろ「よかった」と言われたものだ。
「こんな奇病は、国内を探してもほかにない。外国でも聞いたことがない。この地域だけの風土病といっていい」
大股で歩きながら、よどみなくウルクスが話す。
「王宮も、『眠れずの病』として問題視はしてきた。ただ奇妙なことに、発症者はこの森周辺の地に限られていて、出入りの商人や旅人への感染例が確認されない。それもあって、原因究明が後手後手になっていた……というのが、正直なところだ」
「解決しようと努力はしてきましたが、医者や研究者を送っても、原因がわからなかったのです」とヨハンネスが補足した。
国から派遣される専門家に期待する段階は過ぎ、里の人たちは、これもまたこの地に住まう者の運命として、諦めながら受け入れている。
「俺は医者ではないが、医学の心得はある。これまでの報告書にくまなく目を通したが、調査に不備があったとは思えない。つまり現在の医学では対処できないということだ」
やっぱり、とため息をこぼしかけたノーラに、「だが」とウルクスが言う。
「世の中で起きることは、すべて原因と結果の連続だ。たとえば生き物が排泄するのは、食べるからだ。何も食べていないのに排泄することはない」
わかりやすいが、そんな直接的な例えを使わなくても、とノーラは思った。こちらの気持ちを悟ったのか、ヨハンネスも苦笑いを浮かべる。ノーラも苦笑で返そうとしたとき、突然「ノーラ」とウルクスに呼びかけられた。まさかこの国の第三王子が自分の下の名前を呼ぶとは思わず、「はいっ!?」と慌てて姿勢を正す。
「お前、1日の睡眠時間はどのくらいだ?」
「6時間……くらいでしょうか」
突然の問いかけに、ノーラはいぶかしみながら答えた。
「1日じゅう寝続けろと言われたら、できるか?」
「いえ、目が覚めてしまうと思います」
ウルクスはうなずく。
「それが自然の摂理だ。人は眠らないこともできないが、眠り続けることもできない。言い換えれば、人の眠りの容量、ひいては世界の眠りの容量は決まっている、ということだ。となれば、眠れずの病の患者たちが得るはずだった睡眠時間は、どこへ消えているのか」
ウルクスが何を言わんとしているのか、ノーラにはピンとこない。
「あたしに、そんな難しいことを言われましても……」
「単純な話だ。6人の村人が、10個ずつリンゴを持っているとする。だれかひとりが、残りの5人から2個ずつ奪えば、奪われた5人のリンゴは8個に、奪った6人目のリンゴは20個になる。眠りも同じことだ」
「誰かが、眠りを奪っていると?」
そう言って、ノーラは目を見開き、息を呑んだ。ウルクスが遠くをにらむ。生い茂る緑のずっと奥にそびえるはずの、魔法の城を見るように。
「呪われた姫は、自分の眠りを消費し尽くして、他人の眠りを吸い取って眠り続けている。それこそが奇病の原因であり、姫を起こさない限りこの病は解決できない――これが、俺の立てた仮説だ」
自然の摂理をゆがめて強制される眠りは、ときに死よりも呪われている。
「もう王女さまじゃない、眠る化け物だ」