第1話
窓の外に、季節はずれの淡いピンク色の花びらがひらひらと舞っていた。ノーラは部屋の中から手を伸ばし、そっとそれをつかむ。実際は秋も中盤で、そろそろ外套が必要な時期だ。まるで春そのもののような花びらは、手のひらのなかで茶色く褪せたかと思うと、あっという間に四散した。
この森では、こんなことがよく起こる。
「父さん、具合はどう?」
振り返って、ベッドに横たわる父親に声をかけると、彼は眉間にしわを寄せて頭を横に振った。たいていの病は眠ることが回復の近道だが、シーツにくるまっても、今の父親にはなんの効果もないようだった。
「ハーブティでも入れようか。ハチミツをうんとたらして。きっとよく眠れるわよ」
そのとき表の玄関が、低い音で揺れた気がした。でもまさか、こんな辺鄙な旅籠を訪ねる人間など滅多にいない。そう思って放っておいたら、立てつけの悪いドアが開き、野太い声がした。
「おい、誰かいないのか」
ノーラは慌てて前掛けで手を拭き、「はい、ただいま」と短い廊下を走る。三つ編みを揺らしながら内扉を開けると、まぶしい光を背にして、入口にふたりの男が立っていた。
「突然すみません。里の駐在に聞いたら、ここを案内されまして」
黒髪の、上品な男が言った。控えめだが質の良い、旅をしやすそうな灰色のケープを着ている。少し長めの黒髪は、やわらかくカールして、顔の輪郭を縁取っていた。いったいどこの貴公子だろうと思ったとき、先ほどの大きな声が思考を遮る。
「里一番の猟師がいると聞いた。その者は今いるのか」
こっちは、ずいぶんせっかちな人のようだ――自分の頭ふたつぶんほど背の高い男をノーラは見上げる。せっかちなだけでなく、見た目もずいぶん奇抜だ。本の中でしか見たことのない、西国風のターバンのような布を頭に巻いていて、髪の色はわからない。肌はよく日に焼けて浅黒く、肩にもやはり西国の宗教者のような、細かい刺繍のほどこされた布をマントのようにかけ、足元は薄いなめし革のショートブーツをはいている。
返事をする前に、さらに男は告げた。
「オーロランディアの森を案内してもらいたい」
一呼吸おいて、「それは、『姫ん森』のことですか」とノーラは尋ねる。男は右眉をへの字に曲げた。
「このあたりの人間は、そんな呼び方をするらしいな。国の正式名称では、オーロランディアの森だが」
「いにしえの魔法がかけられたという伝説をもつ、この森のことです」と、黒髪の男が続きを引き取る。「この森に詳しいという猟師に、城までの道案内をお願いしたいのです」
「それは確かに父さんのことだと思いますが、父さんは今……」
ノーラが言葉を濁したとき、奥から父親が現れた。
「どんな御用か知りませんが、むやみにこの森に入ろうとするもんじゃないだよ、お客さん」
「父さん」
「今までにも何度か、森の奥の城まで行くというよその人がやって来た。でも無事に帰ってきなさった例はない」
そう言う父親の体は小刻みに震えている。やはり具合がよくなさそうだ。ノーラはそっと父親の背中を支えた。
「険しい道のりは承知の上だ。それでも行く必要がある」
ターバンの男は懐から布袋を出し、テーブルの上に置く。中から重そうな金貨10枚がこぼれ、思わずノーラは目を見張った。
「だからこそ道案内を頼みたい。謝礼は払う」
「……あいにく、見ての通り老いぼれでしてね。せっかくの申し出だが、引き受けることは――」
「あたしが行く」
部屋にいる3人の男たちの視線が、いっせいにノーラに集まった。「ノーラ」と父親がうめく。
この男たちがいったいどんな酔狂か知らないが、これだけの金があれば、当面の生活費はまかなえる。滋養にいい食材や分厚い毛布も調達できる。
「あたしは猟師の娘です。生まれたときからここで暮らしてきました。父さんを除けば、里のほかのだれよりも森に詳しいのはあたしです」
「それは、確かですね?」
ノーラはこくこくと頷いた。
「いかがします、ウルクス様」
黒髪の男に尋ねられたターバンの男は、鋭い視線でノーラの全身をくまなく見回した。
「娘か……」
「女でなにか? そもそも若い男なんて、この里にいやしないわ」
反射的に言い返してから、金貨10枚くれると言っている上客に向かって、乱暴な言葉遣いをしたことに気づいた。あわててノーラは体を折り曲げる。
「すみません」
「いや、いい」
意外なことに、そう言ったのは黒髪の男ではなく、ウルクスと呼ばれたターバンの男のほうだった。
「怪我をさせないか心配だっただけだ。男だろうが女だろうが、能力があるなら構わない。名前をノーラといったな?」
ウルクスは大きな手のひらを差し出した。握手を求められているのだということに、ノーラは遅れて気がついた。男に、それも初対面の相手に、そんな態度を取られたのは生まれて初めてだった。
「よろしく頼む。眠り姫の城まで、俺たちを案内してくれ」