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第74話 眠れるオートマタのレイゴウ(3)

 人は平等じゃない。

 それは記憶がない自分が覚醒した時の、初めての人生の感想だった。


 蹴られて身体が転がった。

 壁にぶつかった衝撃で塵は散乱し、鼠が這いずり逃げ回った。

 バベルミラージュの路地裏。

 犯罪者や浮浪者の溜まり場では、死体が横たわっていても何の不思議もない。弱者が弱者を搾取する場でもあり、目を覚ましたばかりのゼロは一番の弱者だっただろう。だから、身なりの汚い落伍者達が群がってきていた。

 ゼロは寝込みを襲われたのだ。

 金目の物が無いか服の中を探られた。そもそも泥や埃が被っているとはいえ、ちゃんとした布の服を奪うだけでも価値がある。ミストヤードの冬場は鼻水すら凍結しそうなぐらい、体の芯まで凍り付くのだ。服とて貴重品。追い剥ぎするのに躊躇はいらなかった。

「やめ、ろ……」

 擦れた声しか出なかった。

 意識を取り戻したら何を持っているか、浮浪者の男に探られていた。驚きながら押しのけようとしたらいつの間にか蹴られていた。

 ゼロは起き上がろうとしたが、乱暴な手つきで懐を弄られ頭が揺らされる。視界が揺れ、咄嗟に裏拳で浮浪者の頬を殴打する。

「あぐあああっ!!」

 浮浪者が一回転して倒れる。

 渾身の力を込めたつもりはなかった。

 ゼロは躊躇いながらもスキルを使ったことが分かった。

 ボタボタと口から血を流した男から、歯が抜け落ちた。

 恐怖に駆られた浮浪者はこちらを一瞥すると、世にも情けない悲鳴を上げながら逃走した。

 周りを見渡すと、追い剥ぎに参加しようとしていた連中が蜘蛛の子を散らすように視界から外れる。どうやらそこらにいる連中より自分の力が強いことに、ゼロは気が付いた。

 ここがどこなのか。

 自分のスキルレベルがいくつなのか。

 自分の名前が何なのか。

 そして最低限の生活の仕方。

 それらが人の記憶ではなく、知識として頭の中にある。

 だが、それだけだ。

「私は……誰だ……?」

 そこらに落ちていた割れた鏡に、自らの姿を映し込ませる。反射されたのは、記憶の中にある自分の姿だが、ゼロにはしっくりきていない。何故なら自分がどうやって生まれて、どうやって生きてきたのか。その記憶がゴッソリ頭の中から消えているからだ。

 服の傷から数日はフラフラしているような形跡があって、さっきの浮浪者の返り血が頬についている。それ以上の情報が無いか必死に探すが、目新しい物は見つからなかった。

 分かったのは、自分が孤独であるということ。

 自らが浮浪者になるというのに、誰も助けてくれなかったこと。

 頼れる友人や家族が自分にはいないこと。

 そして、ここまで堕ちるに値する何かを自分がやったこと。いや、何もやらなかったことを。

 生きるためには、路地裏から抜け出すしかない。

 ここにいたら奪われ続けて死ぬだけだ。

 フラフラとした足取りのまま、光の方へと足を進めた。

 そしてゼロはとにかく生きるための方法を探した。

 スキルが使えるのだ。

 働き口などいくらでも見つかるはずだった。

 冒険者になることだってできたはずだ。

 だけど、見つからなかった。

 ボロボロの格好の時点で煙たがられ、冒険者ギルドからは叩きだされた。

 自らの身分は分からず、スキルを使おうにも使い勝手が分からなかった。そして身なりを整えるためのお金すらない。だが、ゼロはお金の稼ぎ方が分からなかった。

 ゼロがまだ子どもだったこともあったのだろう。

 働こうと思っても働けなかった。

 冒険者ギルドを通さない、身分証明せずとも働ける仕事もあった。

 そこなら身なりは関係なかった。

 運搬作業や清掃など、スキルがなくとも働ける仕事。

 本当に追い詰められた人間が集まる最後の場。

 だが、そこでもゼロは弾かれた。記憶がないのでボソボソとしか喋れず、事あるごとに初めて見る世界の常識や景色にビクついていた。簡単な仕事であったとしても、作業は進まずに半日も経たずに役立たず扱いされた。

 そうなってくるとどうしようもない。

 同じ場所に居続ければ、身ぐるみを剝がされる。

 光の当たる場所だと、汚物を観るような人の目が気になる。

 だから、また路地裏に戻るしかなかった。

 そうして歩き続けていると、空腹のせいで倒れた。

 その時何日飯を喉に通していないのかさえ分からず、薄れゆく意識の中ゼロは観た。路上で寝ている人間を。

 自分より年上の大人。

 だが、スキルを使える自分の方が有利だ。

 懐から財布のようなものが観えた。

 今なら奪える。

 これは盗みじゃない。

 この社会そのものが悪い。

 金がなければ自分は死ぬのだ。

 だからやらなくちゃいけない。

 そう言い聞かせながら、恐る恐る手を伸ばす。

 ゆっくと。

 物音を立てないように。

 自分が否定していたことを。

 弱者が弱者から不当に搾取することを。

 正義ではなく悪を行う。

 そして――


 頬を全力で蹴られた。


 ゼロが吹き飛ばされた。

 普通の人間の数倍の威力を持った蹴りに、意識が持っていかれそうになる。ちょっとした騒ぎになって、寝ていた奴もすぐに消えた。その場に残ったのは、ゼロを見下ろしている男となった。

 ゼロを蹴ったその男の正体をゼロが知るのは後のことになるが、それはミストヤードの長官のスミスだった。威厳があり、さっきの蹴りの一撃だけでそこらの悪党とは一線を画す力を持つことを、一見するだけで理解できた。

 だから、グイッと服ごと持ち上げられても、ゼロは抵抗らしい抵抗ができなかった。

「何故盗もうとした?」

「そうするしか……なかったから……」

「それはお前が何も知らないからだ」

 自分そのものを言い当てられたようで、ゼロはたじろいだ。

「来い。強いスキルを使えると小耳に挟んだ。お前に力の使い方を教えてやる」

 言い方は不器用そのものだったが、この暗闇から光の道を示してくれるらしかった。

 だが、それを鵜呑みするには、何も持っていなかった。

 助けてもらう価値があるさえも分からない。

「だけど、私には何の記憶もない……。家族も友人もいない……」

「だからお前の居場所に私がなると言っている。ちょうど私の後継者として、息子が欲しかったところだ」

「え?」

 スミスは翻るとそれ以上の説明がないまま歩いていく。意識が混濁したままゼロはその後ろについていった。さっきまで力尽きていたはずなのに、歩く力を取り戻していた。

 必ず自分を救い出してくれたスミスに、報いようと決心した。

 それから成長して、長官の補佐ができるようにゼロは強くなった。

 言葉通りスミスは養子にとってくれた。

 誉め言葉や抱擁などは一切なかった。

 厳しいながらも、義理の息子として育ててくれた。

 ただ、五年経っても自分が何者か分からなかった。

 記憶は戻らなかった。

 それなりに有名になっても家族や友人が様子を見に来ることはなかった。

 今でも探している。

 自分自身を知っている人間を。

 自分が何者かを証明してくれる真実を。

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