第61話 スチームパンクの中の名探偵アン(1)
ミストヤード長官室。
膨大な資料が横並びになっていて、飾られた勲章はどれも光沢を帯びている。
豪奢なソファや机は貴族にも劣らない逸品ばかり。
それらは、今も充満している紫煙の匂いが染みついている。
煙草と葉巻を心の底から嫌悪しているゼロにとっては、立っているだけでも苦痛の極み。
分厚い窓の外にも霧が立ち込めているこの国では、煙など日常だ。
それでも便所と同等ほどの匂いが服に付くとなると、香水があっても相殺するのは不可能に近い。
それでも不満を顔に出さないのは、スミス長官を尊敬しているからだ。
上官としても、養父としても。
「聞いているのか」
高圧的な声に、思わず背筋を伸ばす。
同居していないとはいえ、プライベートでは頻繁に食事にも行く。
心を許して気軽に話せるような関係性とはいえ、公私混同するような男ではない。
「はい。護送任務の指揮を私に執れというお話でしたね」
「……うむ。お前には私の跡を継いで欲しいのだ。私には男の子どもはできなかったからな。養子であっても、お前は私の子どもだ。だが、上に上がるためには実績がいる。だからこそ、危険な任務をお前に積極的に任せる。失敗は許されないのだ」
「分かっています」
護送任務。
それが、ゼロに与えられた指令。
護衛対象となる相手があまりにも特殊。
どう動いていいのかも分からず、手探り状態だ。
「お前には機関車の停車場所から、このミストヤードまでの護送を頼みたい」
「! そんな……。『スチームパンク』からではないのですか!?」
「……それには他の者を任せている」
ギリッと奥歯を噛み締める。
停車場所からミストヤードまでの距離など、たかが知れている。
それを護送任務などというのは、あまりにも大袈裟だ。
どこにも逃げ場のない密室での護衛の方が、遥かに難易度が高い。
侮られているのだ。
まだ青二才のゼロでは、大仕事を任せることなどできない。
他の部下が仮に失敗したら、その部下の責任。
そして、部下が成功してもゼロの手柄になる。
親の七光りと、周囲で揶揄されているのには気が付いている。
それでもゼロは行動と結果で払拭しようとしているのに、義父は何も考慮してくれていない。
お前は無能なのだから、労せず護衛達成という名誉だけをもらっておけ。
そう言われている気がした。
「これはお前のためでもある。失態は許されない。ただでさえ、奴らのせいで我らミストヤードの信用を回復するのに数年かかったのだから」
奴ら、とは。
紛れもなく勇者たちのことだろう。
彼らはこの国を救った。
だが、それと同時にこの国の闇を暴き、そして本来国を救うべきだったミストヤードの無能さを露呈させた。
国民の信頼は失墜した。
そのせいで、ミストヤードで勇者たちを逆恨みしている者は多い。
「何が勇者だ。あいつらが何をしてくれた? ずっとこの場にいて私たちと一緒に命を懸けて民衆を助けるなら分かる。だが、あいつらは良いところ取りして、そしてこれ以上は御免とばかりにこの国から逃げたのだ!!」
バアン!! と、机に手を叩いてヒートアップしている。
その気持ち、ゼロには痛いほどわかる。
人は過去を美化し、そして縋り付く。
どれだけ民衆のために尽くしても、救ったというただ一度の功績を持つ勇者をまるで神か何かのように信奉している。
それが、スミス長官は許せないのだ。
「刹那的な善意は、悪に等しい。恒久的に紡がれていく善意こそが正義だ。勇者のようにその場しのぎの救いは、人にまやかしの希望を与えるだけで終わる」
勇者たちによって、犯罪件数は激減した。
個人的には感謝している。
スミス長官だってそのはずだ。
だが、理屈じゃないのだろう。
「余所者は排除すべし」
拳を握るスミス長官は、怒りに震えている。
救えなかった自分自身を一番許せないのだろう。
そういう人だ、この人は。
「ただでさえこの国には人間の悪意に満ちている。今はミストヤードが一枚岩になるべき時だ」
かつて。
この国で栄えた悪の頂点を崩した。
だが、それで全ての霧が晴れるわけではない。
悪の支配者を淘汰したことによって生まれたのは、混沌。
良くも悪くも多様化したのだ。
光も闇も。
正義も悪も。
だからこそ、我々は不変でなければならない。
一丸となって全ての邪魔者に毅然と立ち向かわなければならない。
「失礼します!!」
ドアが乱暴にノックされる。
スミス長官は怪訝な顔をする。
「誰だ!! 今は誰も入るなと厳命したはずだ!!」
「申し訳ありません!! ですが、どうしても今伝えるべき報告があります!!」
大きな嘆息をつく。
「入れ」
「はっ!!」
直立不動の部下は手に、手紙のようなものを持っている。
「楽にしていい」
「はっ!!」
休めの姿勢を取った部下は脂汗をかいている。
部下に厳しいスミス長官に意見を述べるなんて、相当な勇気が必要だったはず。
それだけ火急の要件があるということだろう。
「報告は?」
「はっ!! 奴からの予告状が届きました!!」
「なにぃ!?」
そうか。
持ってきた手紙は、予告状だったのか。
「見せろ!!」
「はっ!!」
机に広げられた予告状はこうだ。
『親愛なる友人諸君。君達が、博物館から強奪した負の遺産を頂戴に参ります。盗品ならば、私が盗んでも指差しできないでしょう。それは、上に投げた石が自らに落ちるのと同じこと。霧かかる前に盗品を貰い受けます。あなたの怪盗紳士より』
相も変わらず、人の神経を逆なでするような文章だった。
「怪盗紳士だあ、ふざけおって!!」
怪盗紳士。
殺人鬼の巣窟だったこの国に現れた、新たな悪。
それが怪盗。
金品や貴重品を盗み出す犯罪者。
どこの誰かは正体不明。
つい最近登場し始めた怪盗の最たる特徴は、犯行予告を出すということ。
犯行予告を出され、それが成功すると世論はミストヤードを批判する。
それが何度も繰り返され、未だに犯人の尻尾すら掴みきれていない。
文面は間抜けそうだが、とんでもない技量の持ち主だ。
「これはいつ届いた!!」
「そ、それが……三日前だそうで……」
「何?」
「す、すいません!! 今は怪盗紳士の模倣犯までいる始末でして! 一つ一つの手紙に目を通す時間などなくて……」
「そうか……なら仕方ないな」
ふぅ、と一息ついたスミス長官を見て、報告に来た部下はほっとする。
それを見やって、スミス長官は部下の首根っこをつかむと、勢いよく頭を机に押し付ける。
こめかみに、グシャッと、火のついた葉巻を押し付けた。
「ギャアアアアアアアアア!!」
「貴様と担当者は減給処分の上、自宅謹慎だ。物理的にクビを飛ばさないだけでも寛大な処置だと思え」
「…………」
理不尽な暴力は多少問題になるかもしれないが、兵をまとめ上げるのに手っ取り早いのは『恐怖』だ。
自分では決して真似できない行為で統率する義父のことを、ゼロは尊敬している。
むしろ、問題となるのは別にある。
「しかし、怪盗紳士が出るとなると……」
「ああ、忌まわしき余所者も現れるだろうな……」
時代に移り変わりと共に、需要も変わる。
悪が変われば正義も変わる。
新しい正義の形。
怪盗と対をなす存在。
「自称『名探偵』シャーロキ・アン・ホームズが」




