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実熟れ時  作者: 皇 凪沙
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9-1.心緒


 戻りの梅雨も明け、日に日に光を増す太陽が白々と通りを照らしていた。通りの奥からは、外で遊ぶ子ども達の歓声が聞こえる。

 浮き立つ様な晴天の下、心の内に憂いを隠して男は牢屋敷へと向かっていた。

 あの若い僧を牢屋敷へ送ってから、既に十日余りが過ぎた。殺された師僧の葬儀も終わり、初七日も過ぎて寺内は幾分落ち着きを取り戻しつつある。僧等への調べも終わったが、来てまだ日の浅い彼については殆ど話らしい話も聞かれなかった。彼についての調べを進めるため、数日前に京に使いが送られている。

 そしてこの件は、寺社には稀な重大事として上に送られる事が決まった。調べが終わった後は、藩の重臣等の吟味を経て、家老の判断で沙汰が決される事になる。それはつまり、彼の命を救ってやる事が一層難しくなったという事だった───

 町中を過ぎ、牢屋敷の門前に立って、男は寸刻躊躇(ちゅうちょ)する。

 取り調べの名目で訪れてはいるものの、既に彼に訊ねるべき事はそう多くない。

 ただ彼に、希望を捨てよと伝える為だけに来たようなものだった。

 男はひとつ大きく息を吐く。

 躊躇(ためら)った所で何も変わりはしない───そう心の内で己を嗤い、重い足を運んで男は牢屋敷の門を潜った。


 門番に訪いを告げ、中へと導かれる。充てられた部屋は上座と下座が分かれただけの質素な板敷の一間だった。

 座に付いて待つと、程なく牢番に伴われ若い僧が姿を現した。

 獄衣姿ではないものの、墨染を脱ぎ白衣のみを身につけて後手に縄掛けされた姿は、(しばら)剃髪(ていはつ)されずに伸びかけた頭と相まって、彼をすっかり罪人の相に変えている。牢番の手で男の前に引き据えられると、彼は後手のまま項垂れていた顔を上げた。

 その目には、羞恥と怯えが浮かんでいる。幾分やつれた顔は、憔悴した様子が窺えた。

「傷は、癒えたか。」

 そう訊ねると、彼は少し驚いた様に男を見た。

 喉元の(あざ)は赤味が消えていたが、まだ痛々しい様子を見せている。

 それでもはいと頷いて、彼は小さな声で

「もう、痛みは御座いません。」

と、そう言った。

 僅かな沈黙の後、男に向けてぎこちなく上げられた顔が再び俯く。

「縄を解いてやってくれ。」

 男は縄尻を手に罪人の後ろに控える牢番に、そう言った。

「よろしいのですか。」

 牢番が戸惑った様子で男にそう問う。

 重罪を犯した者には、調べの間も縄を掛けたままにして置くものだったが、男は肯いて牢番に彼の縄を解かせた。

「ありがとうございます。」

 そう言って頭を下げ、若い僧はおずおずと顔を上げた。穏やかにその目を見返すと、彼は漸く安堵したように息を吐いた。

 時がかかるのを見越して縄は緩めに掛けられていた筈だったが、彼は縛られていた手首に目を落とし、そっと縄目の痕を指先で撫でている。悲しげなその顔には、痛みより罪人であることを思い知らされる辛さが滲んでいた。

「もう一つ頼みたい事がある。」

 解いた縄を片手に板戸の前に控える牢番に、男はそう声をかけた。

「すまないが、剃髪させてやってくれ。」

 そう言うと、牢番より先に若い僧が驚いた顔をした。当惑した顔で男を見上げる牢番に、男は「分かっている」と頷いた。

「私の責任で御許しを頂きたいと、牢役人殿に申し上げてくれ。」

 そう言うと、牢番は不承不承伺いを立てに立つ。

「何故───。」

 板戸が閉まった途端そう問う彼に、男は笑って言った。

「お前は、僧であろう。ならば、そうしたいかと思っただけだ。」

 不意を突かれたように彼の目が男を見つめ、やがて彼は静かに俯き礼を言う。

 その声が、僅かに濡れて震えていた。


 横の板戸が開き、牢役人が姿を見せる。

「お呼び立てして申し訳ない。」

 非礼を詫びる男を制し、牢役人は罪人である僧に目を遣った。

「剃髪をとの事、罪人とは言え僧であればもっともな願いではありますが───この者は自害を試みたとも聞いております。」

 簡単に許せる事ではないと言う牢役人の言葉に、若い僧が項垂れる。その顔に、罪人ゆえの諦めの表情が浮かぶのが見えた。

 難しい顔で此方に向き直る牢役人に、男は頭を下げる。

「私の責任に於いて、ご迷惑の掛からぬよう行わせて頂きます───お許し願いたい。」

 そう言うと、牢役人は躊躇うように罪人を見た。

「もう、愚かな事は致さぬ筈です。」

───そうだな。と、男は彼に念を押す。

 若い僧は顔を上げ男を真っ直ぐに見据えて、はいと肯き、そのまま板間に額を付けるように平伏した。

 それを見届け、男は牢役人に向き直る。

「万が一には私が責任を負います。」

 そう言って、男が傍らに置いた脇差に手を掛けると、牢役人は根負けしたように息を吐いた。

「───わかりました。しかしこの度は、私も立ち会わせて頂きます。」

 そう言って、牢番に命じ手桶と剃刀を運ばせると、牢役人は横座に着いた。その目が、罪人に厳しく向けられている。

 礼を言って運ばれた道具を受け取り、男はそれを若い僧の前に置いた。

「使わせて頂け。」

 見上げる彼に頷いて、男は跪座(きざ)の姿勢を取る。

 傍らの脇差を引き寄せて左手を掛けると、若い僧は伸ばしかけた手を止めて、強張った顔で男を見上げた。

「心配するな、何事も無ければ抜く事はない。」

 そう言ってもう一度頷いて見せると、彼はおずおずと手を延ばし、剃刀を取った。

 ぎこちない動きが次第に滑らかになる。

 慣れた様子でまだ薄い髭を剃り、手順を確かめるように髪を剃る。

 指先が剃り残しを探り、幾度か剃刀をあて直して、やがて彼は男を見上げながらゆっくりと(やいば)を置いた。

「有難う御座いました。」

 刃物に手の届かない位置に下がって両手を付き、硬い声でそう言って頭を下げる彼を見届け、男は脇差に掛けた左手を離す。正座に直って礼を言うと、牢役人がほっと息をついた。

「余程、その者を信用しておられるようだ。」

 咎めるような目を向けて、牢役人は言う。

「あれでは、何かあれば斬らねばならない───牢屋敷内の罪人であれ、斬れば貴方が責めを負う。決して何もないと、確信されていたのですね。」

 穏やかに笑って見せると、牢役人は呆れた顔をした。

「分かりました───当面は貴方の立会いの元、この者の剃髪を許します。」

 小さなため息と共にそう言って、牢役人は立ち上がる。

───あとはお任せ致します。

 そう言い残し、牢役人は板戸を開けて出て行った。

 手桶と剃刀を手に、牢番が後に続く。

 張り詰めていた物が切れたように、若い僧がふうっと息を吐いた。

 その顔に目を遣って、

「僧らしく、なったではないか。」

と、そう言うと、彼もまた少し呆れたように男を見上げた。

「斬られるかと思ったか。」

 問うと彼は、いいえと首を振った。

「そうは思いませんでしたが───それでも肝が冷えました。」

 ぐったりと疲れた顔でそう言う彼に、男は笑って言う。

「役人とは面倒なものでな、決まりを曲げるには相応の覚悟がいる。相手に覚悟を強いるなら、此方も覚悟を見せねばなるまい。」

───だから、本気で向かった。

 男がそう言うと、彼は深くため息をついた。

 居住まいを正し男を見上げる。

「お取り計らい、深く感謝致します───。」

 頭を下げる彼に、男は穏やかな笑みを向けた。


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