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実熟れ時  作者: 皇 凪沙
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7.闇


 苦しげな呻き声を上げ、彼は闇の中で目を開けた。

 夜半の牢舎は灯りが落とされ、出入り口には固く錠が下ろされている。窓の無い小さな牢獄は真の闇に包まれて、牢格子さえ何処にあるのか判らない。

 あの後、牢役人から簡単な調べを受け、着衣持ち物を検められて、彼はこの小さな板間の獄舎に繋がれた。ひとり不安に苛まれながらその日を過ごし、やがて辺りが闇に落ちると、再び遣り場のない後悔と胸の痛みが彼を襲った。

 どうして、こんな事になってしまったのか───

 師に見送られて京を出たのは僅か半月ばかり前のことで、その時の彼は望みの叶った喜びに胸を膨らませていたというのに───期待に応えられなかった申し訳なさとともに、彼はかつての師を思う。

 幼いあの日───初めて引き合わされたあの時から、御師様(おしさま)は、彼を慈しみ育ててくれた。

 彼は、貧しい村で生まれたのだという。

 親の顔も知らぬまま、面立ちが愛らしかった彼は、稚児として寺に売られた。

 その日、女衒らしい男に連れられて山門を潜った事を、ぼんやりと覚えている。幼かった彼は、寺内にあった立派な門や塔が珍しく、若い僧侶達が構ってくれるのが嬉しくて、はしゃいでいた。

 やがて連れて行かれた座敷には、(すが)しい畳の匂いがしていた。静かなその部屋で初めて御師様に会った時、大人に慣れていなかった彼は怯えていたのだと思う。引き合わされた御師様は、今思えば四十の半ば程の筈で、幼い彼には随分と年寄りに見えた。

 師となる方だと聞かされても、その意味さえも分からなかったが、促され恐る恐る見上げたその時、御師様の顔がにっこりと笑ったのを、彼は覚えている。延べられた手が、怯えていた彼を優しく抱き上げ「良い子だ」とそう言ったのを、覚えている。

 その日から、御師様は彼の師となり、寺は彼の家になった。

 寺での日々に、辛いことが無かった訳ではない。

 数年が経つと彼は綺麗に飾られて、稚児の勤めをする事になった。

 しかしそれとても、幼い頃からそう教えられて育った彼にはそう辛い事ではなかったし、父や兄のような僧侶等に優しく抱かれるのは嬉しくも、また誇らしくもあった。昼には御師様の身の回りの世話をしながら、貧しい村の暮らしではできた筈もない学問をし、仏の道を学ぶ事も出来た。己の境遇を恨んだ事はないが、それでも長じるにつれ彼にもさまざまな事が分かってくる。

 同じく寺に起居しても、彼はいずれこのまま僧になれるわけではない。

 彼は、僧になりたかった。

 寺に暮らし、その世界しか知らぬ事もあった。御仏が幼い頃から身近だった所為(せい)もある。寂しい時も悲しい時も、嬉しい時にも御仏は彼の心の内に据わっていた。手を延べて助けてはくれずとも、問う声に応えは無くとも、いつも変わらずそこに在った。

 だから彼は御仏について知りたかった。仏の道を学び、教えを学んで、御仏の意思(おもい)を知りたかった。

 けれども彼が、いずれ得度し僧になりたいと言うと、師は難しい顔をした。

 稚児であった事が問題なのではない。稚児が長じて出家するのはままある事だった。しかし、そうした者は確りとした出自を持ち、後には僧となるために寺へ入る。幼い時分を稚児として過ごしても、そうした者には夜の勤めをせぬ者も多いらしい。彼のように出自が知れず、なかば夜の勤めの為に買われて稚児となったような者は、相応の金子を得て寺を出るのがお決まりの行く末らしかった。

───好んで厳しい道を行かずともよい。

 御師様は笑って彼にそう言った。いずれは彼が寺を出て、身を立てられるようにと考えてくれている様だった。

 そうした事を知って尚、彼は矢張り僧になりたかった。

 今になって思えば、御師様の言う事は間違ってはいなかったのかも知れない。

 それでも僧になどならなければよかったとは、今でも彼は思っていない。

 日々の折節、時には寝所の寝物語に、彼は僧になりたいと訴えた。彼を可愛がってくれていた僧たちは彼の物好きを笑い、見受けをせがむ遊女の様だと揶揄(からか)ったが、それでも結局は彼の望みを叶えてくれた。

 そうして彼は十八を待たず、つい先だって許されて僧となった。

 御師様と彼を可愛いがってくれていた僧等が、彼に持たせる筈だった金子に色をつけ、あちこちに根回しをしてくれたのだと、彼は全てが決まった後に知った。

 修行先も決まり、念願の叶った喜びと先への希望を胸に、住み慣れた寺を出たのがほんの半月程前。此処───京からは遠く、鄙びた土地だが由緒のある寺で修行して、やがて修行が終われば京へ戻って然るべき寺へ入る筈だった───


 失った未来を思い、ふうっと彼は大きなため息をついた。

 喉に走る痛みが、己が犯した罪を思い出させる。

 やがて彼のした事は京の寺へ知らされるだろう。彼の犯した罪を知り、御仕置になると知ったなら、彼を可愛がってくれた僧達はどんなに嘆くだろう。彼を信じて送り出してくれた御師様は、どれ程驚き悲しむだろう。

 そればかりではない。

 彼の師であった御師様は、彼の犯した罪の責任を問われる事になるかも知れない。いっそ怒り罵ってくれるなら、いい。しかしきっと御師様は自分の事は脇に置き、彼の事を最期まで案じ続ける。それを誰よりよく知っているからこそ、彼の胸は(たま)らなく痛んだ。

───いっそあの時、犯した罪を隠して仕舞えば良かったか───

 苦しみに堪え兼ねて、彼は考える。

 自分の為というのでは無い。自分を案じる人の為、行く末を信じてくれた人の為、いずれ救う事ができるかも知れない人の為───

 しかし、彼は闇の中で苦しげに首を振った。

 犯した罪は、余りに重い。たとえ己の為でなくとも、罰を逃れ罪を隠して生きる事は、彼には出来ない。そうすれば もう二度と、御師様の顔を見る事が出来なくなる。心の内の御仏と真っ直ぐに向き合う事が出来なくなる。あれ程望んだ僧であることが出来なくなる───

 我身の不安や心細さよりも、大事な人達を悲しませてしまう辛さに耐えかねて、彼は苦悶の中で心の内の御仏を呼ぶ。罪を得てなお変わらずにそこに在る御仏は、しかしやはり彼の問いに答えてはくれなかった。


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