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実熟れ時  作者: 皇 凪沙
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5.入牢


 明け方まで降っていた雨が止み、厚い雲を通してぼんやりとした光が差している。山門を潜り、朝靄の立つ道を境内に向かって上りながら、男はため息を吐いた。

 本来なら静謐(せいひつ)であるべき寺社にも、様々な事が起きる───寺社方の役人である男は、それぐらいの事は心得ている。

 寺社の役人となってこれ迄、罪を犯した僧に縄を掛けるのは珍しい事では無かった。昨今は取締りも厳しく、女犯の僧が晒されるのも珍しくはない。役所の取締りに掛らずとも様々な理由で寺法の裁きを受け、寺院を出される者、追われる者も後を絶たない───

 それでも、ひと殺し───しかも師殺しの罪で寺内にある僧を捕縛する事になろうとは、此れまで男は思ってもみなかった。

 昨日、知らせを受けて駆けつけると、寺内の者たちは各々に慌て怯えていた。口々に話す事は要領を得なかったが、招じ入れられた部屋には無惨に頭の割れた僧の遺体が横たえられ、隣室には喉の傷に血を滲ませた若い僧が横たわっていた。

 首を括ったというその若い僧がまだ生きていると知った時、男はこのまま目が覚めなければ良いとそう思った。生き延びたところで、後はない。起きて仕舞ったことは、それほどに誰の目にも明らかだった───

 足を止め、男は(もや)のかかる道の先へと目を遣る。

 目を覚まし、張り詰めた目で男を見上げる若い僧の顔が、今もありありと浮かぶ。男を見て役人かと尋ねたあの若い僧は、己を捕らえる役人しか、あの場に頼るべき顔を見付けられなかったのだろう。

───自分が、師を殺した。

 そう言った彼の言葉に嘘は無いが、その不器用さが男には憐れでならない。もし彼が、咄嗟に首を括る代わりに、己の身を救う嘘のひとつも吐いていれば、あの僧の死は十分に過ちで通るものだっただろうに───

 どこからか、熟れすぎて落ちた梅の実の香が流れてくる。纏わりつくような甘い香を払い、男は重い足を運ぶ。

 この寺の貫主は正直だが、僧にしては小心な男だ。僅か数日前に来たばかりの若い僧の起こした事件に恐慌し、後先を考えられぬ儘に事件は役所の知るところとなった。寺社に厳しい目が向けられている今、知った以上、役所は事件を有耶無耶にはしない。

 折角助かった若い命を、出来ることなら救ってやりたかったが、師殺しの罪の重さを考えればそれも難しい。生きて返してやれないと分かっていながら、まだ若いあの僧を男はこれから捕らえねばならない───

 遣り切れない思いを抱えたまま、やがて男は境内に足を踏み入れる。心の痛みを堪え、男はひとつ大きく息をして役人の顔になった。

 どうする事も出来ないならば、すべき事をしなければならない。

 背後に従う手下(てか)の者が、男の顔を見て安堵の表情を浮かべる。

 それを見て、彼はもう一度ゆっくりと息を吸い、己を役人にする。

 吸った息を静かに吐きながら、濃く朝靄の立つ境内を過ぎて、彼は寺内に訪いを告げた。


 

 長く辛い夜が過ぎ、部屋には淡い光が差していた。

 雨は、既に止んでいる。

 まだ痛む身をそっと起こし、ようやく身に馴染んできたばかりの所作(しょさ)で身支度を整える。いつまで身につける事が許されるのか分からない墨染めの僧衣を身につけて座り、彼は馴染むいとまの無かった自室を見渡した。

 新たな道を歩み出す筈だったその部屋は、初めて案内された時のまま、僅かな持ち物さえもほどき切れてはいない。その中から彼は、数珠のみを手に座っていた。

 京で彼が稚児として仕えていたかつての師から渡されたそれは、まだ真新しく傷さえない。御師様(おしさま)と呼んでいたその師の手にあった、黒く(つや)やかに馴染んだ数珠を思い出し、自分の手にあるこれがああなる事は無いのだと、彼は悲しげなため息をついた。

 靄のかかる庭から、湿気を含んだ早朝の風が静かに流れてくる。

 牢屋敷に送られたその後にどうなるのかは分からないが、いずれ死罪は免れない。どんな無残な死が己を待つのか───

 我が身の行く末を思いながら、彼は手の中の数珠に指を這わせる。彼がひとを殺して捕らえられたと聞けば、御師様は驚き嘆くだろう。いずれ死罪となると知れば、どれ程に悲しませてしまうかと、それが申し訳なく気懸かりだった。


 思いを巡らし座る彼の耳に、廊下を近づく足音が聞こえた。

 やがて襖が静かに開き、昨日の役人が彼の前に座る。昨日と変わらず穏やかな目を向ける男に、彼はゆっくりと頭を下げた。

「少しは身体が休まったか。」

 はいと肯く彼に、男は頷く。僅かに重い沈黙が、小さな部屋を満たした。

「───誰か、会って置きたい者は居るか。」

 そう問われ、彼はいいえと首を振る。

 此処にはまだ、親しい者も無い。

 せめて師の亡骸に手を合わせたいとは思ったが、それが許されるとは思えない。

「そうか───」

と、少し悲しげにそう言って、男は庭先へ目を遣った。

 其処には既に、二人の手下(てか)が控えている。

「───お願い、致します。」

 役人の顔になった男にそう言って、彼はもう一度、畳に手をつき頭を下げた。

 寺内を騒がす事を憚って、庭先に履物が用意され、彼は身ひとつで立ち上がる。庭に降りると、熟れ落ちて雨に濡れた梅の実の、甘酸っぱい香りがした。

 手下の者等が油断なく見守るなか、師が命を失ったその庭で、彼は両手を細引に括られ罪人となった───

 短く持った細引の先を手の中に握り、男が彼に背を向ける。その背中に静かに従い、彼は数日前に来たばかりの寺を離れた。

 庫裏(くり)には朝餉(あさげ)の煙が立っている。本堂では葬儀の準備かひとの騒めきがした。ひっそりとそれらの傍らを通り抜け、誰ひとり見送る者も無いままに、彼は裏門からそっと外へと引き出される。

───もう何処にも帰る所はない。

 この寺はもちろん、京の寺にももう二度と帰る事はできない。自分はもう二度と寺門を潜る事は無い。

 そう思うと、涙が零れた。

 後悔と寂しさと申し訳なさに、涙が溢れる。(こら)えきれずに彼はその場に膝を折り、括られた両手を上げて涙を拭った。

「───よい。」

 咎めようとする手下等に、男がそう声を掛けるのを、彼は顔を覆った両手の下で聞いた。

 早朝の静寂の中に己の嗚咽する声だけが、静かに響く。

 顔を覆った両手の下で止まろうとしない涙を漸々(ようよう)堪え、やがて彼はゆっくりと両手を下ろした。

「有り難う、御座います───」

 立ち上がりそう言うと、男は穏やかな顔に少し悲しげな笑みを浮かべ、再び彼に背を向けた。

 先を行く男の背を追って、彼は俯いたまま歩き出す。

 まだ朝の早い町には、人影が少なかった筈だと思う。しかし、男の背だけを追って歩いた彼は、町の風景を覚えてはいない。見知らぬままの町を抜け、そうして彼は己を(ゆう)する牢屋敷へとたどり着いた。

 役人の男が訪いを告げ、門番が罪人の到着を内に告げる。

 見上げると、厳めしい門構えに身が震えた。

───怖ろしいか。

 呟く様に男が問う。

 既に覚悟はしたつもりでも、此処に囚われ死を待つ事になるのだと思うと、身の震えが止まらない。色を失くした顔で見上げる彼に、男は役人の顔で言った。

「案ずる事はない。僧であれば、無体な扱いは受けまい。しかし───」

 男の顔に一抹の憐憫が浮かぶ。

「───これからは、罪人として扱われる事を覚悟せよ。」

 項垂れて両手に目を落とし、彼は己が罪人である事を思い知る。

 込み上げそうになる涙を堪えて、彼は───はい、と小さく頷いた。


 門内から声が掛かる。

 男の手にある細引に身を預ける様にして、彼は牢屋敷の門を潜った。

 項垂れ足元を見詰めて、ただ引かれるままに進む。そうして彼は番屋に座る牢役人の前に引き据えられた。

 入牢する罪人は、名、歳、在所、罪状を読み上げられ、入牢証文とともに牢役人に渡される。僧として改まったばかりの自分の名が、罪状とともに読み上げられるのを、彼は項垂れたままじっと聞いた。もう、涙は出なかった。

「───間違いは、無いか。」

 そう問われて、彼は肯いた。

「間違いは、御座いません───」

 顔を上げそう答えると、牢役人は重々しく頷いた。

「───ならば、沙汰のあるまで入牢申し付ける。」

 再び項垂れた彼の上に、牢役人の声が響く。

 両手の細引が解かれ、彼は男の手から牢役人へと渡された。両手を後ろに縛り直され、直ちに牢舎へ送る旨が告げられる。

「数日の内に調べがある。心しておけ。」

 引かれて行く彼の耳に、男がそう言うのが聞こえた。

 振り返ろうとする彼の肩を、牢役人の手が押し留める。

 そうして、男の言葉を確かめる事もできぬままに、彼は牢舎へと送られた───

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