3.隠匿
梅雨の戻りの生温い雨が、暗い空から滴っている。
空を覆う雲はじっとりと重く、降る雨もまたしたしたと重い。
朝から降り続く雨に、閻魔堂へと続く小道はねっとりと泥濘み、足元を汚す泥も生温く緩んでいた。
泥濘に足を取られ、えんは小さく舌打ちをする。
本当の事を言えば、こんな夜に泥濘む道を行きたくは無かったが、仕方がない。
───せめてもっと、天気のいい日に呼び出してくれりゃいいのに。
そう呟いて破れかけた唐傘を上げ、えんは闇の中に閻魔堂を透かし見る。ぽつりとひとつ、灯る明かりが見えた。
幽かな明かりを頼りに、盛りの筈の蛙の声さえ途切れがちな闇の中の小道を辿って、えんは閻魔堂へと向かう。
ようやく堂の前に立ち、えんは泥濘に汚れた足を拭った。
奥には暗く沈んだ刑場が、重い雨に叩かれている。
堂の扉にそっと手を掛け、えんは堂内を覗き込んだ───
蝋燭の明かりが、板壁を照らして揺らめいている。
須弥壇の上に閻魔王、その傍らに倶生神。
足下には、居並ぶ赤青の獄卒鬼。
壇荼幢、業の秤、そして煌めく浄玻璃の鏡。
閻魔王が、厳めしい顔で此方を見る───
「えん、入れ。」
声を聞き、えんは堂の扉を開けて、身を滑り込ませる。
見れば閻魔王の前に、僧形のおとこがひとり座っていた。
青ざめたその顔に、えんは晒し場に晒された女犯の僧を思い出す。近頃、江戸で多くの僧が女犯の罪で捕縛され、その余波は遠く離れたこの地にも及んでいた。
「───此処は、何処だ。」
歳の頃は三十終りか四十を過ぎたか───僧侶らしく油の抜けた細身の身体を僧衣に包んだそのおとこは、えんの姿を認めると慌てたようにそう言った。
「見ての通りさ。」
えんはそう言って辺りを見まわして見せる。
「私は、死んだのでは無かったのか。」
えんを見つめておとこが言った。
「───死んだから、此処に居るんだろうさ。」
そう云うと、おとこは考えこむ様に唇を噛み、黙り込んだ。
「仮にも僧であるならば、此処が何処か判らぬ訳ではあるまい。何故ここに居るのかも、解っている筈だ。」
閻魔王の声が響く。
「しかし───」
おとこは困惑した顔で閻魔王を見上げ、えんを見た。
「死んだ後の世など有りはしないと、そう思ったか。」
閻魔王の問いに、おとこは今度は悔しげに唇を噛む。
「経典には、そうした考え方も御座いましょう。」
───確かにあるな。と、閻魔王が肯く。
死後は無い。六道輪廻も地獄も浄土も、鬼も閻魔も、仏さえも。全ては世を生きる為の方便で、全ては無いのだと。そういう考え方が経の内にもあるのだと、えんは知った。
「ならばあれは───間違いでしたか。」
自嘲するように唇の端に笑みを浮かべて、おとこが言う。
「そうではない。」
閻魔王が言った。
「お前が一点の曇りもなく、己の信念に従って生きたのなら、お前は此処には居らぬ。来世などという面倒なものも、無かったかも知れぬ。今お前が此処に居る意味を、よくよく考えてみるがいい。」
厳しい顔で見下ろす閻魔王を、おとこはしばらくじっと見上げ、やがてふいと目を逸らした。
「さて、どうして此処に居るものか───」
嘯くおとこを閻魔王が睨む。
「───黙れ!」
閻魔王の怒声が響いた。
「死ねば終わりと、報いなどはないと、そう思ったか。」
悔しげに顔を歪めて、おとこは閻魔王を見上げる。
閻魔王が、眼を怒らせておとこを見下ろす。
「何をした───。」
問われたおとこの顔が、忽ち強張る。
「どうした───お前が何故此処にいるのか、それを言ってみよ!」
閻魔王の厳しい声が響いた。
おとこは顔を強張らせたまま口を噤んでいたが、やがて顔を上げ、
「戒を破った事は、御座いません。」
と、僧らしくないふてぶてしい顔で云った。
「───戒、か。」
閻魔王が苦々しげに呟いた。
「戒は犯しておらずとも、お前には今此処に立つだけの理由があろう。自身では信じてもおらぬ御仏を利用し、寺内での地位を得て───そうしてお前は何をした!」
そう問う閻魔王を、おとこは挑む様な目で見上げた。
「信ぜずとも、御仏を謗った覚えは御座いません、また───」
───罪を犯した覚えも御座いません。
閻魔王がおとこを睨む。
「お前がした事は、罪ではないとそう言うか───」
おとこは黙ったまま、答えない。
堂内に怒りの込もった閻魔王の声が響いた。
「死して我が面前に到りながら、此の期に及んでまだ己を偽るか!」
閻魔王の剣幕に、おとこがびくりと身を縮める。
「───もうよい。」
閻魔王が云う。
「何と言おうと、お前のした事は全て倶生神の持つ鉄札に刻んである。だが、それでも覚えが無いと言うなら仕方がない───」
そう言って、閻魔王は倶生神に目を遣る。倶生神が、手にした鉄札を静かに伏せた。
「現世の行いを裁く前に、先ずはこの場にて詭弁を弄し、罪を免れようとしたその罰を受けるがよい!」
おとこの顔がすっと青ざめる。
おとこが何をしたにせよ、それを隠そうとする者に閻魔王が情けを掛けることはない。閻魔王が、そうした事を殊の外嫌うことを、えんは知っていた。
「倶生神───」
閻魔王が怒りを含んだ静かな声で、倶生神を呼ぶ。
倶生神が、はい───と応えた。
「───この者を、抜舌の苦にかけよ。」
御意───と、倶生神が静かに頷く。
おとこの額に汗が流れた。
「連れて行け!」
閻魔王の命に、赤青の獄卒鬼等が畏まる。
「───お待ち下さい!」
ようやく事の重大さに気付いたのか、おとこが叫んだ。
叫ぶ声を一顧だにせず、獄卒鬼等の手がおとこを捉えて有無を言わさず引き立てて行く。
声を上げながら引かれてゆくおとこを見送って、えんは厳しい顔のままじっと宙を睨む閻魔王を見上げた。
「終わり───ってわけじゃなさそうだね。」
えんがそう云うと、閻魔王はえんを見下ろした。
「一体あの坊主は、何をしたんだい───」
問うと、閻魔王は首を振った。
「いずれ判ろう。えん、舞台はまだ、ようよう前座がはけたところだ。」
そう云って、閻魔王は溜息を吐く。
「次にはあのおとこを殺した者が此処に来よう。その時にはあの者が何をしたのか、自分の口で語らせてやる。」
閻魔王の言葉を聞いて、倶生神が憫れむように手の中の鉄札に目を落とす。
「どれ程隠したところで、我が目には明らかな事───それでも、隠さずには置かれぬわけも有るのでしょうに。」
───仕方があるまい。
閻魔王がそう言って、眉根を寄せる。
「隠したままでいられる事ではない。」
えんは、厳しい顔でそう言う閻魔王をそっと見上げる。
抜舌の苦と云うからには、おとこは罪の報いに舌を抜かれる事になるのだろう。
えんがそう云うと、倶生神が首を振った。
「それよりも、一段と厳しい刑になりましょう───己の罪を知らねばならぬ者への罰で御座います。」
そう言って、倶生神はひどく悲しげな顔をした。
えんは、閻魔王を見る。
───見るがいい。
閻魔王の手が、浄玻璃鏡の面を指した。