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実熟れ時  作者: 皇 凪沙
3/30

3.隠匿


 梅雨の戻りの生温い雨が、暗い空から滴っている。

 空を覆う雲はじっとりと重く、降る雨もまたしたしたと重い。

 朝から降り続く雨に、閻魔堂へと続く小道はねっとりと泥濘(ぬかる)み、足元を汚す泥も生温く緩んでいた。

 泥濘に足を取られ、えんは小さく舌打ちをする。

 本当の事を言えば、こんな夜に泥濘む道を行きたくは無かったが、仕方がない。

───せめてもっと、天気のいい日に呼び出してくれりゃいいのに。

 そう呟いて破れかけた唐傘を上げ、えんは闇の中に閻魔堂を透かし見る。ぽつりとひとつ、灯る明かりが見えた。

 (かす)かな明かりを頼りに、盛りの筈の蛙の声さえ途切れがちな闇の中の小道を辿って、えんは閻魔堂へと向かう。

 ようやく堂の前に立ち、えんは泥濘に汚れた足を拭った。

 奥には暗く沈んだ刑場が、重い雨に叩かれている。

 堂の扉にそっと手を掛け、えんは堂内を覗き込んだ───


 蝋燭の明かりが、板壁を照らして揺らめいている。

 須弥壇(しゅみだん)の上に閻魔王、その傍らに倶生神(ぐしょうじん)

 足下には、居並ぶ赤青の獄卒鬼。

 壇荼幢(だんだどう)、業の秤、そして煌めく浄玻璃の鏡。

 閻魔王が、厳めしい顔で此方(こちら)を見る───

「えん、入れ。」

 声を聞き、えんは堂の扉を開けて、身を滑り込ませる。

 見れば閻魔王の前に、僧形のおとこがひとり座っていた。

 青ざめたその顔に、えんは晒し場に晒された女犯の僧を思い出す。近頃、江戸で多くの僧が女犯の罪で捕縛され、その余波は遠く離れたこの地にも及んでいた。

「───此処(ここ)は、何処(どこ)だ。」

 歳の頃は三十終りか四十を過ぎたか───僧侶らしく油の抜けた細身の身体を僧衣に包んだそのおとこは、えんの姿を認めると慌てたようにそう言った。

「見ての通りさ。」

 えんはそう言って辺りを見まわして見せる。

「私は、死んだのでは無かったのか。」

 えんを見つめておとこが言った。

「───死んだから、此処に居るんだろうさ。」

 そう云うと、おとこは考えこむ様に唇を噛み、黙り込んだ。

「仮にも僧であるならば、此処が何処か判らぬ訳ではあるまい。何故ここに居るのかも、解っている筈だ。」

 閻魔王の声が響く。

「しかし───」

 おとこは困惑した顔で閻魔王を見上げ、えんを見た。

「死んだ後の世など有りはしないと、そう思ったか。」

 閻魔王の問いに、おとこは今度は悔しげに唇を噛む。

「経典には、そうした考え方も御座いましょう。」

───確かにあるな。と、閻魔王が肯く。

 死後は無い。六道輪廻も地獄も浄土も、鬼も閻魔も、仏さえも。全ては世を生きる為の方便で、全ては無いのだと。そういう考え方が経の内にもあるのだと、えんは知った。

「ならばあれは───間違いでしたか。」

 自嘲するように唇の端に笑みを浮かべて、おとこが言う。

「そうではない。」

 閻魔王が言った。

「お前が一点の曇りもなく、己の信念に従って生きたのなら、お前は此処には居らぬ。来世などという面倒なものも、無かったかも知れぬ。今お前が此処に居る意味を、よくよく考えてみるがいい。」

 厳しい顔で見下ろす閻魔王を、おとこはしばらくじっと見上げ、やがてふいと目を逸らした。

「さて、どうして此処に居るものか───」

 (うそぶ)くおとこを閻魔王が睨む。

「───黙れ!」

 閻魔王の怒声が響いた。

「死ねば終わりと、報いなどはないと、そう思ったか。」

 悔しげに顔を歪めて、おとこは閻魔王を見上げる。

 閻魔王が、眼を怒らせておとこを見下ろす。

「何をした───。」

 問われたおとこの顔が、忽ち強張る。

「どうした───お前が何故此処にいるのか、それを言ってみよ!」

 閻魔王の厳しい声が響いた。

 おとこは顔を強張らせたまま口を噤んでいたが、やがて顔を上げ、

「戒を破った事は、御座いません。」

と、僧らしくないふてぶてしい顔で云った。

「───戒、か。」

 閻魔王が苦々しげに呟いた。

「戒は犯しておらずとも、お前には今此処に立つだけの理由があろう。自身では信じてもおらぬ御仏を利用し、寺内での地位を得て───そうしてお前は何をした!」

 そう問う閻魔王を、おとこは挑む様な目で見上げた。

「信ぜずとも、御仏を(そし)った覚えは御座いません、また───」

───罪を犯した覚えも御座いません。

 閻魔王がおとこを睨む。

「お前がした事は、罪ではないとそう言うか───」

 おとこは黙ったまま、答えない。

 堂内に怒りの込もった閻魔王の声が響いた。

「死して我が面前に到りながら、此の期に及んでまだ己を偽るか!」

 閻魔王の剣幕に、おとこがびくりと身を縮める。

「───もうよい。」

 閻魔王が云う。

「何と言おうと、お前のした事は全て倶生神の持つ鉄札(てっさつ)に刻んである。だが、それでも覚えが無いと言うなら仕方がない───」

 そう言って、閻魔王は倶生神に目を遣る。倶生神が、手にした鉄札を静かに伏せた。

「現世の行いを裁く前に、先ずはこの場にて詭弁を弄し、罪を免れようとしたその罰を受けるがよい!」

 おとこの顔がすっと青ざめる。

 おとこが何をしたにせよ、それを隠そうとする者に閻魔王が情けを掛けることはない。閻魔王が、そうした事を殊の外嫌うことを、えんは知っていた。

「倶生神───」

 閻魔王が怒りを含んだ静かな声で、倶生神を呼ぶ。

 倶生神が、はい───と応えた。

「───この者を、抜舌(ばつぜつ)の苦にかけよ。」

 御意───と、倶生神が静かに頷く。

 おとこの額に汗が流れた。

「連れて行け!」

 閻魔王の命に、赤青の獄卒鬼等が畏まる。

「───お待ち下さい!」

 ようやく事の重大さに気付いたのか、おとこが叫んだ。

 叫ぶ声を一顧だにせず、獄卒鬼等の手がおとこを捉えて有無を言わさず引き立てて行く。

 声を上げながら引かれてゆくおとこを見送って、えんは厳しい顔のままじっと宙を睨む閻魔王を見上げた。

「終わり───ってわけじゃなさそうだね。」

 えんがそう云うと、閻魔王はえんを見下ろした。

「一体あの坊主は、何をしたんだい───」

 問うと、閻魔王は首を振った。

「いずれ判ろう。えん、舞台はまだ、ようよう前座がはけたところだ。」

そう云って、閻魔王は溜息を吐く。

「次にはあのおとこを殺した者が此処に来よう。その時にはあの者が何をしたのか、自分の口で語らせてやる。」

 閻魔王の言葉を聞いて、倶生神が憫れむように手の中の鉄札に目を落とす。

「どれ程隠したところで、我が目には明らかな事───それでも、隠さずには置かれぬわけも有るのでしょうに。」

───仕方があるまい。

 閻魔王がそう言って、眉根を寄せる。

「隠したままでいられる事ではない。」

 えんは、厳しい顔でそう言う閻魔王をそっと見上げる。

 抜舌の苦と云うからには、おとこは罪の報いに舌を抜かれる事になるのだろう。

 えんがそう云うと、倶生神が首を振った。

「それよりも、一段と厳しい刑になりましょう───己の罪を知らねばならぬ者への罰で御座います。」

 そう言って、倶生神はひどく悲しげな顔をした。

 えんは、閻魔王を見る。

───見るがいい。

 閻魔王の手が、浄玻璃鏡の面を指した。


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