27.父
この章を読む前に同シリーズ中の「夏の初め」「巣立鳥」を先にお読み頂くことをお勧め致します。
夕暮れの境内に立って、えんは辺りを見る。既に日は暮れて、薄暮の境内に人影はない。
盆会が近い境内は、小僧が念入りに掃除をしたのだろう。雑草が綺麗にむしられ、地面には箒の跡が残っていた。
庭木の陰の暗がりに気配を感じて、えんは静かに声を掛けた。
異形の影が現れる事を覚悟したえんの前に、ひとりの男が姿を現す。粗末な着流しのその姿は、痩せこけてはいるが異形とは見えない。おとこはえんの前に立ち、ゆっくりとひとつ頭を下げた。
「その姿で会うのは初めてだね───もっとも、そう変わっちゃいないようだが。」
───ええ。
と、おとこが頷く。
「お陰さまで───けど、」
そう言って、おとこは薄く笑みを浮かべた。
「そろそろ他所へ行かないと───いつまでもこのままじゃ、よくない。」
寺の方をそっと振り返り、おとこはなんとも言えない顔をした。
「昼間の話を聞いてたんだろう。あの子は、幾つになるんだい。」
さて───と、おとこは笑みを浮かべる。
「もうすぐ十二になりましょうか。」
そうか───と、えんは頷く。
「しっかりと育ったじゃないか。あんたもこの数年、見てきただろう。」
おとこが頷く。
「俺は何もしてやれなかったが、皆さんのお陰で立派に育った。俺なんぞが育てるよりも、ずっと───」
えんは首を振る。
「そんな事は無いだろうさ。あんたが生きてれば、また別の育ち方があったかも知れないよ。どちらにせよ、きっとあの子は立派に育ったろうさ。」
夕暮れの風が吹き過ぎる。
昼の暑さに火照った空気が、静かに散ってゆく。
「───満足したかい。」
おとこが肯く。
「罪人の手は、やっぱり穢れておりましょうよ───けど、あの子はこの手が穢れてはいないと言う───もう、十分ですよ。」
───父の手が穢れていたとは思わない。
そう言った小僧の言葉が、どんな言葉より心に沁みたのだろう。おとこはそう言って、笑った。
「俺のせいであいつは生涯、罪人の子と言われ続ける。惨めな思いをするんだと、そう思ってましたが───」
えんが頷く。
「そういう事もないとは言えない。けど───大丈夫だろうさ。」
そう言って、えんはふんと笑う。
「それに、自惚れないことだ。つまらない掏摸の事なんか、みんな忘れちまう。あの子がどう言われるかは、あの子自身がこれから決めるんだ。」
おとこが、少し寂しげな笑みを浮かべて肯いた。
「まったくだ───俺はもう、傍にはいない方がいい。だから、行きますよ。」
そう言って見上げるおとこに、えんは云う。
「何処へ行くつもりだったかは知らないが、残念だったね───閻魔王からの呼び出しだ。」
おとこの目が、えんを見る。
「本当なら、餓鬼の寿命は五百年だ。けど、満ち足りて、十分満足した餓鬼なんぞという面妖なモノは、そのままにはして置けないそうだよ。」
そう言って、えんは笑った。
「そもそももう、餓鬼の姿もしちゃいないじゃないか。此処へ来てから、腹を減らしたことなぞないんじゃないのかい。」
おとこが気がついたように顔を上げた。
「図星の様だね。そら、餓鬼の風上にも置けないじゃあないか。」
そう揶揄う様に言って、えんはおとこを見る。
「だから───そろそろ、生まれ変われとさ。」
おとこの顔に、不安げな色が浮かんだ。
「───どうした。」
問うと、おとこは不安げな目をえんに向け、
「生まれ変わらせて貰ったところで、真っ当に生きられるかどうか───」
と、自信無さげにそう言った。
えんが笑う。
「地獄で懲りただろう、此処で法も聞いた筈だ。それでも真っ当に生きられないなら、説法が余程下手くそだったんだろうよ。」
おとこがばつの悪そうな顔で、えんを見上げた。
「説法は───身に染みましたよ。」
そう言って、おとこはそっと寺を振り返る。我が子の説く法は拙いながらに、いやそれゆえに、余程おとこの心に染みたのだろうとえんは思う。
「けど───今のこの気持ちを、生まれ変わればきっと忘れちまうんでしょう。」
寂しげに言うおとこを、えんは笑う。
「大丈夫さ、本当に大事な事は忘れやしない───そうだろう。」
たとえ全てを忘れても、幸せに生きて欲しいと願う者がいる事を、心の何処かが覚えている。悪事に手を染める事の危うさを、頭の片隅が覚えている。だから───
「今度こそ真っ当に、そして幸せに生きればいい。それが、一番の償いだろうさ。」
おとこが顔を伏せる。
ひと筋流れた涙が、月明りに光った。
「───暗くなっちまったね。」
ぽつりと呟き、えんはおとこに背を向けた。
「盆会が過ぎたら、閻魔堂ヘ来るようにとのことだ。」
伝えたよ───とそう言うと、おとこは薄く笑みを浮かべた。
「今すぐじゃあ、ないんですね。」
───ああ。
えんは笑ってそう言った。
「盆会は、施餓鬼会だよ。存分に腹を満たせばいい。」
えんの言葉に、おとこが自嘲する。
「確かに施餓鬼棚には施しが並ぶが───」
水の一滴、食い物の一かけも口に入らないのが今の自分、食法餓鬼だとおとこは己を嗤う。
「そうだったね。けど───盆会には、どんなご馳走より良い物が聞けるんじゃないのかい。」
そう言って振り返るえんを、おとこの目がじっと見ていた。
「拙いながら、参拝の衆には喜ばれてるらしいじゃないか。」
幼い小僧が懸命に説く法は、父だけではなく多くの者の心に染みるらしい。ここ数年盆会には、小僧にも法話を語らせているのだと、穏やかに笑って住持が言っていた。
「もう二度と悪い気を起こさない様に、しっかり聞いてから来るんだね。」
そう揶揄ってやると、
───ああ。と、おとこはなんとも言えない顔で頷いた。その顔が息子を誇る父の顔だと気がついて、えんはそっと笑った。
おとこに背を向け、えんは境内を出る。
濃紺の空には、月が光っている。
暮れるにつれ、星が次第にその数を増やしてゆく。
暗くなってゆく足元に目を落として、えんはゆっくりと参道を下りる。おとこの顔を思い出し、山門で小さく笑ってちらりと後ろを振り返り、えんは寺を後にした。




