26.落着
この章を読む前に同シリーズ中の「夏の初め」「巣立鳥」を先にお読み頂くことをお勧め致します。
まだまだ暑い日射しの中で、無残な様を晒していた骸が取り片付けられる。既に匂いも立ち始めていたそれは、刑場の片隅に幾分深い穴を掘って埋められた。立働く非人等の中に、先日閻魔堂に手を合わせていた男等を見つけ、えんは少しほっとした気持ちでそれを見ていた。
やがて非人等が去り、役人らしき姿が刑場に入るのが見えた。片付けの検分かと、えんはそっと閻魔堂に入る。役人など顔を合わせれば面倒なばかり───と、遣り過ごすつもりだった。
堂の扉は開けたまま、須弥壇の脇に寄りかかる。昼前のまだ僅かに涼を含んだ風が静かに吹き込むのを心地よく感じながら、えんは須弥壇の上を見上げた。
木造りの閻魔王は、薄く埃を被ったまま、厳めしく壇下を見下ろしている。
見るともなく見上げていると、ふいに戸口に影が差した。驚いて目を遣ると、堂の入口にさっきの役人らしい男が立っている。えんに気がつき驚いたように立ち止まるその顔は、見覚えのある顔だった。
あの日、刑場で仕置が済んだばかりの骸をじっと見上げていた男だと気がついて、えんは頬に薄く笑みを浮かべる。
「ご検分ですか───」
寄り掛かっていた須弥壇を離れ、取り繕うようにそう言って笑って見せると、男は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「───その様なものだ。あの僧を捕らえたのは私だったのでな。最後を見届けに来た。」
そう言って、言い訳をする様に、男はえんを見る。
「本当なら、取り片付けられるところを検分しに来るべきなのだろうが───無残な様を見られたくはないかもしれぬと思ったのでな。」
───ああ。
と、えんは頷く。
骸はただのモノであっても、それを見て悲しく思う者がいるなら、あの僧はその姿を見せたくは無いと思うだろう。
「───そうかも知れませんね。」
そう言って見上げると、男は少し悲しげに笑った。
「私自身が───無残な様を、見たくなかったのかも知れぬがな。」
そう言って、男は須弥壇に向かい手を合わせた。短い黙祷の後顔を上げた男に、えんは云う。
「今のは、御供養───じゃあ無いんでしょうね。」
男が頷く。
「罪人の供養は許されておらぬからな。だからこれは───自責だ。」
えんは男を見上げる。
「御自身の何を、責めていらっしゃるんです。」
そうだな───と、少し躊躇って、男は言った。
「一度は助かった命を、生かしてはやれなかった事だろうな。出来る事なら、どうにか救ってやりたかったのだが───」
そう言って、男はえんを見る。
「役目上、私が言うべきことではなかった───聞かなかった事にしてくれ。」
えんは頷いた。
「構いませんよ───この中は、生きてる者の世界じゃあない。それに───骸の主は、案外に満足してるかも知れません。」
えんが言うと、男は訝しげな顔をした。
「───戯れと思って、聞いて下さいな。」
そう言って、えんはあの夜の閻魔堂での出来事を話す。たわい無いと笑うでもなく、男はけして短くはないえんの話に、真顔で耳を傾けていた。
───そんなことが、ありました。
一頻り語り終え、えんは男を見上げる。夜話を聞く子どものような、真剣な眼差しがえんを見返す。
「だから───骸の主は、今頃地獄の底で修行中でしょうよ。」
小さく息を吐き、笑みを浮かべてそう言うと、男は小さく頷いた。
「あの者らしいな───。」
と、そう言って、男はえんを見る。
「今の話が作り話なら、あの者とお前は以前からの知り合いでなければならぬ。」
えんは笑った。
「───残念ですがね、生きてる内に見たのは晒し場に座る姿と、磔になる姿だけでしたよ。」
そう言うと、男は穏やかに笑った。
「ならば、今の話は本当なのだろうな。そう───信じる事にしよう。」
そう言う男に、えんは頷く。
「どうとでも思って下さって結構ですよ。それから───」
と、えんは男を見る。
「あの人の師僧───死んじゃいない人の方だけどね。最後まで見届けて下さったお役人様に感謝しなきゃならないと、そう言ってましたよ。自分が説いて聞かせねばならない事を弟子に教えて下さった───と。」
そうか───と呟いて、男は何処か遠くを見る様な目をした。
「ならば、あの方は此処へ来たのだな。」
ええ───と、えんは頷く。
「けど、咎めないであげて下さいな。此処はさっきも言った通り、此の世でさえない所なんだから───」
そう言うと、男は笑った。
「咎めるつもりはない。ただきっと、あの方は最後の別れをせずには居られまいと、そう思っていたのでな。それが出来、また弟子の行く末を知った上で行かれたのならば、本当に良かったと───そう思ったまでだ。」
ああ───と、えんは頷く。
「あの方も、何やら楽しげでしたよ。嘘か本当か知らないが、諸国を巡ってみたかったのだと、そう言って。それに───同じ道を行くなら、弟子のあの人にいつか何処かで会える事があるかも知れない。それが楽しみになったとも言っていた。」
───それもまた、あの方らしい。
そう呟いて、男は笑う。
一頻り笑って、男はえんを見下ろし礼を言った。
「お陰で、この件は落着だ───私の中で、そうなる事は決して無いと思ったが。」
えんは笑って首を振った。
「すべて戯れのお話です、他の人は信じやしないでしょうよ───けれど、もしこの話を信じて頂けたなら、ひとつお願いしたいことがございます。」
えんがそう言うと、男は肯いた。
「聞こう───私にできる事など、そう多くは無いがな。」
少し笑って、えんは言った。
「───死んだ方の師僧から、事件のあった寺の貫主様に伝言を預かってるんですよ。けど、あたしが行っても大寺の貫主様なぞ会っては下さらないでしょう。だから、お伝え願えませんか。」
男が軽く眉根を寄せる。
「あの寺の貫主は、この度の事が堪えた様でな。仕置きがあった日から臥せっておられる。言伝の内容によっては、断らねばならないが───」
男の言葉に、えんは笑って手を振った。
「恨み言を伝えてくれと言うわけじゃありません。ただ───二人とも納得のゆく道を得て、行くべき道を行くのだからもう気に病むことはないと。それから、傍で支える事が出来なくなって済まないと、そう伝えてくれと言われましてね。」
男が、思わしげな笑みを浮かべる。
「───貫主殿は、善良な方でな。二人もの命が失われた事に、心を痛めていた。それを聞けば、少しは心も晴れるかも知れぬ。」
───確かに、伝えよう。
そう言って、男はえんを見る。
「代わりと言ってはなんだが、私もひとつ頼みたい事がある。」
と、男はじっと考える様に須弥壇を見上げた。
「罪人の遺した書物を、貰ってくれる者を探してはくれないだろうか。」
さて───と、えんは苦笑する。
「お坊さまの遺した書なら、仏書の類いにございましょう───御寺社のお役人様なら、幾らも相応しい先をご存知でしょうに。」
えんがそう言うと、男は少し悲しげな顔をした。
「仕置になった僧の持ち物だ。関わりのない寺では、嫌がって受け取るまい。貫主殿に押し付けてやろうかとも思ったが、あの有り様では憚られてな。それに───」
と、男はまた遠くに目を遣る。
「預かる時に、刑死した罪人の持ち物でも構わないと言う者に渡してくれと、念を押された。お前ならそうした心当たりがあるのではないかと───なんとなく、そう思ったのだ。」
そうですか───と、頷いて、えんは笑みを浮かべる。
「心当たりがなくもないが、さてそう上手く行くかどうか───」
───どうだい。
と、えんが問うと、彼は悲しげな目を上げた。
開け放たれた古寺の座敷に、涼しい風が吹き込む。縁側には、まだまだ強い陽射しが照っていた。
悲しげな顔をした小僧を見て、男は穏やかに笑う。
「お仕置きになった罪人の持ち物など、やはり気味が悪かろう。仏の教えを説く書とは言え、穢れた手の触れたもの───嫌ならそうと言っていいのだ。」
男がそう言うと、小僧は不意に涙を溢した。
どうした───と、男が慌てる。
「罪を犯した者の手は───仏の書を穢すほど、汚れておりますか。」
震える声で、小僧が問う。
十を幾つか越えたばかりの、幼い子供から発せられた問いに、男が怯む。
住持が優しい笑みを浮かべて、小僧の肩に手を置いた。
「この方は、お前が断りづらいのでは無いかと、わざとそう仰ったのだ。本当にその様に思うなら、わざわざその穢れたものを自らお持ちにはなるまい。」
住持を見上げ、小僧はそれでも苦しげに眉根を寄せる。
「わたくしは、父の犯した罪に養われ、罪を犯したその手に守られて、あの日まで過ごして来ました───」
ですから───と、小僧は涙に濡れた目を、男に向けた。
「もしも、罪を犯した者の手がそれほどに穢れていると仰るのなら、その書などよりわたくしの方が、ずっと穢れているはずです───」
そう言って、わっと泣き出す小僧の背に手を置いて、住持が男に詫びた。
「───申し訳ありません。この子の父はこの子等を養う為に罪に手を染め、お仕置きになりましたので。」
そうか───と、そう言って、男は小僧に詫びる。
「済まなかった───お前の父が、ましてお前が、穢れていると言ったのではない。それに住持殿の仰る通り、私自身この書物が穢れているとは思っていない。ただ、これを残した本人に念を押されたのだ───」
そう言うと、小僧は泣き顔をそっと上げた。
「───この書物の素性を、よくわかった上で受け取ってくれる者に渡してくれ、とな。あの者は最期まで僧として、己の罪と向きあい続けていた。罪はあっても、悪人では無い───その手は穢れてなどいなかった筈だと、私は思っている。」
小僧が涙を溜めた目で男を見上げる。
───分かりました。
小さな小僧の声を聞いて、男は口を噤む。知らず、涙が流れていたのに気がついて、男はそっと袖口で頬を拭った。
「わたくしの父も、同じでございます。罪を犯しはしましたが決して悪いひとだったとは思いません。わたしを抱いた父の手が、穢れていたとは思いません。その方の手も決して穢れてなどはいなかったと、わたくしもそう思います。」
はっきりとそう言って、小僧は住持を見上げる。
「───頂いても、良いでしょうか。」
住持は笑みを浮かべる。
「それを受け取るなら、僧とならねばならない───その覚悟は、あるか。」
はい───と、小僧が答える。
「母にももう、そう話してあります。」
十一か二か、そろそろそのぐらいの歳の筈だった。商人になるなら奉公先を、職人になるなら弟子入り先を探さねばならない。罪人の子であれば、どの道を行くにしても人一倍苦労する事になる。それが分かっているからこそ、母親は早いうちから先々どうしたいのかを考えさせて置いたのだろう。
「ちゃんとした修行を始めるなら、今までの様には行かない。お前の様にまだ幼い者には。辛く感じる事もたくさんあるだろう。それでも───僧となるか。」
真っ直ぐに住持を見つめて、小僧は「はい」と肯いた。
その様を見て、男が目を細める。
「やはりこれは、お前に貰ってもらうのがいいようだ。」
そう言う男の口元に、ほろ苦い笑みが浮かぶ。
「気を悪くしないでほしいが、お前はこれのもとの持ち主によく似ている───その真っ直ぐなところが、な。」
そう言って、男は小僧に包みを渡した。
しっかりと受け取って、小僧は頭を下げる。
「ありがとう、ございます。」
少しだけ笑みを浮かべて男を見上げるその顔に、あの若い僧の顔が重なる。
男は穏やかに頷いて、笑った───




