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実熟れ時  作者: 皇 凪沙
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25.入門


 赤青の獄卒鬼等に従って、彼はその門の前に立った。黒鉄のその門は高く聳えて、炎を纏っている。門前は、既に灼けた空気が息も出来ぬ程に熱い。

 門を守る小山の様な獄卒鬼等は、巨躯(きょく)を屈めて彼をひと睨みすると、鉄札と共に彼を受け取り門の内に入れた。

 途端に、凄まじい熱気と臭気、耳を(ろう)するばかりに響き渡る轟音が彼を襲う。覚悟はしていたつもりだったが、身を焼き尽くす様な炎の激しさに怯え、思わず(うずくま)りかけて、彼は強い力で腕を引かれた。見上げると、恐ろしげな顔をした異形の獄卒が、彼の腕を捉えて立っていた。

───来い。

 怯む彼を睨み下ろして、その獄卒は彼を引きずる様にして歩きはじめる。

 顔を上げる事さえ出来ないほどに轟々と渦を巻く炎の中を、有無を言わさぬ強い力で、獄卒は彼を引いて行く。無間地獄の最奥までは、七重の鉄城(てつじょう)が囲むという。炎に炙られる肌が爛れては元に帰る痛みに耐えながら新たな門を越える度、熱気と臭気は強くなり、叫喚の声が高くなる。

 どれだけ進んだものか、やがて獄卒鬼が投げ出す様に彼を離した。

「───無間地獄の様はどうだ。」

 そう問われ、彼は恐る恐る獄卒鬼を見上げる。

「目にする余裕もなかったか───それでも、苦しむ者の阿鼻叫喚の声は聞いたであろう。現にその身も炎の中で焼け失せもせず、耐え難い苦痛を間断も無く感じている筈だ。渦巻く毒気と臭気に、満足に息も出来まい───」

 そう言って、獄卒鬼は彼を睨んだまま、彼の後ろを指差した。

「ここに至るまでに、幾つ門を潜ったかも覚えてはいまい───だがこの門だけは、己の意思で潜れ。」

 獄卒鬼の指す先に、寺院の山門と思しき門を見て、彼は弾かれた様に獄卒鬼を振り返った。

「一度あの門を潜れば、次にあの門を潜るのは僧として修行がなった時。そうでなければ───逃げ出して無間地獄の罪人と成り果てる時だ。」

 獄卒鬼が脅す様に云う。

「───これが、無間地獄を出る最後の機会と思え。今ならばまだ、引き返せるかも知れぬぞ。」

 山門を見上げ、彼は炎に爛れ皮が剥げ落ちた肌にちらりと目を遣る。ゆっくりと息を吸うと、鼻も喉も肺も鋭く痛んだ。無間地獄で苦しむ者達の苦悶の声が、地鳴りのように耳に響く。

 ひとつひとつ、ゆっくりと確かめるように自分の中に答えを探して、やがて彼は獄卒鬼を真っ直ぐに見上げた。

「私は───この門を潜ります。」

 獄卒鬼が険しい顔で彼を見る。

「本当に、よいのだな───生半可な覚悟では後悔する事になるぞ。」

 厳しい声でそう言う獄卒鬼に笑みを浮かべた顔を向け、彼は躊躇うことなく、はい───と、頷いた。

「───ならば、ついて来るが良い。」

 そう云って、獄卒鬼は先に立って歩き出す。その背を追って、もう二度と潜る事は無いと思って涙を零した寺の門を、彼は潜った。


 長い参道の先に境内が広がる───すべてが熱く焼けていた。

 黒鉄の僧堂は熱のために赤く光を放ち、堂内は炎の立ち込める鉄室(てつむろ)と化している。その前に立ち、獄卒鬼は恐ろしい顔で彼を睨み据えた。

「罪人め───」

 獄卒鬼が吼える。

「仏に仕える身にありながら、地獄の獄卒に法を学ぶその身を恥じるがよい。」

 叱りつけられ、彼は獄卒鬼を見上げた。

───なんだ。

 睨む獄卒を、彼はじっと見上げる。

「本当に、師を手にかけた罪人の私に、法を説いて下さるのですか───」

 問うと、獄卒鬼はふんと笑った。

「───不服か。」

 いいえ───。

 彼は己の師となる獄卒を見上げる。その目に、涙が光った。

「もう二度と、師を持つ事などできないだろうと、そう思っておりました───」

 そう言って、彼は改めて己を睨む獄卒を見上げて言った。

「私は、僧とは名ばかりの新参者にございます。師に不満のあろう筈もございません───罪を犯したこの身を恥じは致しますが、師である方を恥じようはずがありません。」

───いいだろう。

 そう言って、師は彼を見る。

「名ばかりであれ僧ならば、いずれ目指すのは仏となること───しかし今のお前はこれ以上堕ちる先すらない、地獄の底の罪人だ。その道は途轍も無く遠いものと知れ。」

 言われて彼は、はいと肯いた。

 彼の目には、恐ろしい獄卒鬼の姿が既に己の師と見えている。

「僧として、遥かな道を行く覚悟があるのなら───上がれ。」

 そう言って、師は赤熱した僧堂を指した。

 此処に居ても、常に燃える炎が身を焼き立てているが、僧堂の中は行き場の無い炎が渦を巻き、轟々と辺りを焦がしている。

 試されているのが分かっていて、それでも思わず躊躇するほどに、それは凄まじいものだった。

───どうした。

 師が獄卒鬼の顔で、彼を嘲る。

 顔を上げ、師を見つめて、彼は意を決して堂に上がった。涼しい顔で正面の座に着く師の前に歩を進めると、灼けた床が忽ちに足を焼き、爛れ張りついた皮肉がひと足ごとに剥ぎ取られてゆく───堂の中程で苦痛に足を止めた彼を、師は冷酷に見つめた。

「音を上げるならばそれもよい───僧を捨て、無間地獄の罪人となれ。」

 そのひと声で、彼は遮二無二身を進めた。必死の思いで師の前に座り見上げると、師は呆れた様な笑みを浮かべて彼を見下ろした。

「どうだ───辛かろう。」

 そう問われ、肯く事も否定する事も出来ぬまま、彼はただじっと師を見上げ続ける。身を焼く苦しみは耐え難かったが、それでも此処を離れたくはなかった。

「強情者め───。」

 そう笑って、師は包みをひとつ彼の前に置いた。炎に焼け爛れままにならない指先に焦れながら、見覚えのある包みを解くと、見慣れた書物が現れた。

 驚いた顔で見上げる彼を、師は笑う。

「新参者にはそれで充分だ。以前のお前の師は、お前の事をよく考えていてくれたのだろうな。」

 炎の中で焼けもせず、その書は元のままにそこにあった。手に取るとほんの僅かに、御師様の匂いをかいだ気がして、彼は涙を落とす。身を焼く熱さを忘れたように、書を開いた彼に、目の前の師が言う。

「倦まず、弛まず、道を学び、法を学び、行いを学べ。この堂の外にはお前と同様、己の罪に苦しむ者が無数に居る。苦しむ者を導き、仏と成るを目指すのが、僧の本分だ───」

───長い道だぞ。

 そう言って彼の師は、恐ろしげな顔で笑う。まだ何も分からないままに、彼ははい、と答えて頷いた。目を閉じれば己の内に、変わらず御仏が在る。

 目を開けて師を見上げ、彼は

───よろしくお願い致します。

と、笑った。


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