24.本分
昼も夜もない灰色の空が、頭上に重く垂れ込めていた。両手に嵌る枷に目を遣って、おとこは苦い笑みを浮かべる。
───これで、いい。
赤青の獄卒鬼等に引かれ、地獄へと向かう道で彼はそう呟く。
己はこれから、百三十六とも六万四千とも言われる無量の地獄のすべてを巡り、やがては無間地獄へと堕ちていく。その身は永劫に近い時、地獄の内に置かれる事になるだろう。もしかすると、二度と地獄を出ることはないかも知れない。
それが、報いなのだと、おとこは唇の端に笑みを浮かべる。
辺りを見まわせば、地獄へと向かう道には、おとこと同様それぞれに罪の報いを受けるべく、地獄へ送られる罪人達がいる。
獄卒に腕を取られ無理矢理に引き摺られて行く者、鉄鎖に縛られ鞭に追われて泣き叫ぶ者、数珠繋ぎに括られて獄卒の鉄棒に突かれながら嘆き泣く者───
誰もが、地獄へと向かう恐怖に苛まれているのだろう。時折逃げ出そうと走り出す者が獄卒等に捕らえられ、赦しを乞い助けを求めて叫ぶ声が響く。
───お助け下さい。
声が響いて、ひとりの罪人が不意におとこの足元に縋った。
「お助け、下さい───」
もう一度そう言って、罪人はおとこを見上げる。怯え切り、震える声で縋る罪人を見た途端、おとこの顔が僧の顔になる。即座に両手に嵌る枷を衣の袖に隠し、おとこは縋る罪人に穏やかな笑みを向けた。
「───御仏に、お縋りなさい。」
不安げな目が、おとこを見上げる。
「私は、罪を犯しております。それでも、御仏はお救い下さいますでしょうか───」
不安げに見上げるその目を見つめたまま、僧であるおとこは男の傍に膝を折り、しっかりとした眼差しで肯いた。
「罪を悔い、一心にお縋りするならば、必ず。」
───ありがとう、ございます。
男が安堵に泣き崩れる。その肩に追いかけて来た獄卒の手が掛かる。
びくりと身を竦める男の手に、そっと己の手を重ね、おとこは僧の顔でゆっくりと肯いてみせる。
「大丈夫です───行って、その罪を償いなさい。私が回向致します。」
穏やかにそう言って促すと、男は怯えた顔で獄卒を見上げ、素直に項垂れその手に身を委ねた。獄卒の手に引かれて行く男の背に向かい、おとこは静かに手を合わせる。経の一節を唱えてやると、男は安堵の表情を浮かべた顔でそっと振り返った───
男が見えなくなるまで見送り、静かに息を吐き、両手を下ろす。
「時を頂き、ありがとうございます───」
振り返り、赤青の獄卒鬼等を見上げておとこは言った。その顔は、僧の顔から地獄に向かう罪人の顔に戻っている。
「───己が信じておらぬ事を、あのような顔でよく言えるものだ。」
青の獄卒鬼が、苦々しげに云う。
「御仏が本当に在るかどうかは知りませぬが、仏弟子の姿をした私に縋るなら、あの方は御仏を信じている筈。あのような言葉でも信じて御仏に縋り、罪を悔いて辛い責苦を耐えるなら、いずれあの方は地獄を脱しましょう───私が仏を信じるかどうかは、関係のない事です。」
おとこは、悪怯れもせずそう言った。
「───何故あの様な事をした。」
赤の獄卒鬼が問う。
「ここでひとを救って見せても、お前に得はあるまい。」
その声音に咎める色が無い事を知って、おとこは獄卒鬼を見上げる。
「たとえ仏を信ぜずとも、私は僧───縋られれば、救うのが役目に御座います。」
おとこがそう言うと、赤の獄卒鬼はふっと笑った。青の獄卒鬼が呆れた顔でおとこを見下ろす。
「縋る罪人も哀れなものよ───己よりずっと罪の重い悪僧ではないか。」
ひとつ息を吐き、おとこは笑う。
「犯した罪がその目に見えるわけでなし、こうして見れば、私は立派に仏弟子と映りましょう。」
獄卒鬼が眉を顰める。
「縋る者を騙すつもりか。」
いいえ───と、答えておとこは、獄卒鬼を見上げる。
「たとえ仏を信ぜぬ悪僧の言であれ、示す道が正しければ、救われる者もありましょう。救われる者には、私が何者かなど問題ではありません。」
赤の獄卒鬼が、面白そうにおとこを見る。
「これから地獄の底に堕ちてゆく悪僧が、ひとを救うか。」
おとこは、はい───と肯いた。
「悪僧なれど僧、いずれに身を置こうと為すべき事は同じに御座います。」
獄卒鬼が嗤った。
「───ひとを救い、仏となるか。」
赤の獄卒鬼が、揶揄う様に呟く。
「私は───己の出来る事を為し、目指すものを追うだけの事にございます。」
もっとも───と、おとこは、自嘲の笑みを浮かべる。
「───これより、底も知れない地獄へと堕ちて行く身であれば、目指すものに辿り着けるとは思っておりません。それでも追い求めるのが、僧に御座いましょう。」
赤の獄卒鬼が面白そうに笑う。
青の獄卒鬼が呆れた様にそれを見ていた。
やがて地獄の門が迫り、獄卒鬼等が立ち止まる。門前には、今まさに地獄へ入れられようとする罪人達の恐怖の声が、響き渡っていた。
潜れば未来永劫出る事が叶わぬかも知れない門を、おとこは静かな顔で見上げる。
「覚悟が出来たか───」
穏やかな様子を見せるおとこに、獄卒鬼等が問う。
まさか───と、おとこはそう言って笑った。
「お陰様で、地獄の苦は身に沁みております。そう簡単に覚悟など出来はしません。まして私は何ひとつ縋るものとてない身に御座います。」
そう言って、おとこは目の前に聳える門を見上げる。
「つい先頃まで、ある事さえ信じていなかった地獄へ赴くのです。どうしたものかと途方に暮れております。」
ふん───と、獄卒鬼等が嗤う。
「口が減らぬな───さて、その地獄へ行くがよい。」
獄卒鬼等がそう云って、おとこの枷を外した。門が開けられると、まだ地獄の入り口というのに、門の内からは凄絶な苦悶の声が響いてくる。
門の向こうに目を遣って、おとこはもう一度己が潜る門を見上げた。その顔に静かな笑みが浮かぶ。
「それでは───参ります。」
そう言って、獄卒鬼等に笑みを向け、おとこは門を潜った。おとこの姿を呑み込んで、地獄の門が音を立てて閉じる。
罪人の苦悶の声が微かに響く門の前に立ち、顔を見合わせた獄卒鬼等は、ふっと笑った───




