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実熟れ時  作者: 皇 凪沙
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23.一会


 長い夜を終え、えんは須弥壇に背を向けた。えんの背後で、ふっと灯りが消える。灯りの消えた堂内には、既に早暁(そうぎょう)の淡い光が、扉の隙間から細く漏れていた。

 扉を開けると、薄明の空がまだ夏の気配を残して明けかけている。涼しい朝の空気の中には、何処か寂しげな蜩の声が響いていた。

 閻魔堂の扉を後ろ手に閉め、ひとつ伸びをして少し湿った朝の空気を吸い込む。

 長くなるだろうとは思ったが───

そう苦笑いして歩き出し、えんは彼者誰時(かわたれどき)の刑場へ目を遣った。

 朧な光の中に僧形の影を見て、えんは足を止める。

「───また、会ったね。」

 声を掛けると、僧形の影は静かに振り向いた。

「お見逃し下さい。」

 と、静かにそう言って、老僧は磔柱に架かる己の弟子を見上げる。無残な骸となった弟子を見上げるその目には、涙が光っていた。

「何を───見逃せばいいんだい。」

 えんが問うと、老僧は骸を見上げたままで言った。

「私は、既に沙汰を受けた身───本来、此方(こちら)の御城下には足を踏み入れてはならぬ身に御座います。」

───ああ。と、えんは頷く。

「構わないだろうよ。どうせ橋から此方は、この世かどうかも判らない、そんな場所だ───」

 そう云ってえんは、老僧と並んで僧衣のまま晒される骸を見上げた。

 槍に突かれた場所は、無残に裂けて赤黒い血が固まり付いている。喉元の止めの槍傷が痛々しい───

 それでもその顔は夜露を含んで瑞々しく、僅かに眉根を寄せたまま穏やかに目を閉じていた。

「───怒っておるかも知れませぬ。」

 ぽつりと、老僧が言った。

「この様な姿を見せたくはないからと、死の前日に別れをした筈だったのです。しかし───約束を守ることが出来ませんでした。」

 そうか───と、えんは呟く。

「ただの骸に御座います───既に魂魄(こんぱく)は此処にはない。解っては居りますが、それでも此処へ来ずにはいられなかった───」

 そう言って、老僧はえんを見る。

「この者の最期を、ご存知でしょうか。」

 囁く様に問う声に、えんは骸を見上げたままで答えた。

「最後まで、僧だったよ。」

 そう言って、えんは処刑の後に閻魔堂に手を合わせていた非人等の話をした。

「奴等にそんな気を起こさせるんだ───本物だったんだろうよ。」

そう言ってやると、老僧は、

「そうでしたか───」

と、そう言って、弟子の顔を見上げる。

「この顔を見れば、それ程に苦しむ事はなかったのでしょう。また───相応の覚悟も有ったのだと分かります。」

 綺麗なままのその顔を見上げながら、老僧は言った。

「最後までお見届け下さいました御役人様に、感謝申し上げねばなりませぬ───本来なら、私が説いて聞かせねばならなかった事を、この者に教えて下さった様です。」

 老僧が静かに手を合わせ、目を閉じる。

 暫しの後、老僧は少し寂しげな顔で目を開けた。

「私が思っていたよりもずっと、穏やかに逝った様です。この上は───」

───来世は安らかに、かい。

 そう云うと、老僧は僅かに笑みを浮かべて肯いた。

「それは、なかなか難しそうだね───」

 そう言って、えんは老僧を見る。

「あたしが、閻魔王と懇意だと言ったら───笑うかい。」

 いいえ───と、老僧は首を振る。

「なら、話そうか───」

 えんはひとつ大きな息を吐く。

「その人はね、今頃は無間地獄にいる筈さ。」

 えんがそう言うと、老僧はひどく悲しげな顔をした。苦しげに眉が顰められたその顔が、えんを見る。

「苦しんで───居りましょうか。」

 そうだねえ───と、曖昧に呟いて、えんは磔柱に目を遣る。少しだけ眉根を寄せた彼の顔が、此方を見ていた。

「楽な道じゃあないだろうね───だって、仏に成るんだろう。」

 老僧が、俯きかけた顔を上げる。

「僧を棄てて、苦しみの少ない道をゆくより、たとえ地獄の底に堕ちても、僧としての道を行くそうだ。地獄の底で修行するのは辛いだろうと思うけど、少しの迷いも無い様だったよ。」

 老僧の切なげな目が骸を見る。

「なぜ、それほどに───」

 呟く老僧に、えんは言う。

「さて、ね。あたしには分からない。けど───無理を言って師に僧となる事を許して貰ったその時に、決してこの道は捨てないと決めたんだそうだ。」

 老僧の目に涙が光った。

「嬉しそうだったよ。これから、地獄の責め苦と変わらない様な、厳しい修行が待ってるというのにね───」

───あたしには分からないよ。

 呟いて、えんは次第に明るくなってゆく空を見上げた。

 老僧の頬に涙が伝う。

 涼風の中にじっと立ち尽くし、老僧は弟子の姿を見上げたまま、何かを洗い流す様に、静かに静かに涙を流した。

「有難う御座います。」

 やがて静かな笑みを浮かべ、穏やかに弟子を見上げたまま、老僧はえんにそう言った。

 その両手が合わされて、老僧は経文らしきものを唱える。

 そうして静かに振り返り、えんを見たその目からは悲しみが消えて、一抹の寂しさを含んだ穏やかな色が浮かんでいた。

「これから、どうするんだい。」

 えんが問うと、老僧は存外に明るい顔で笑みを浮かべた。

「諸国を、歩いてみようと思います。叶わぬ願いと思って居りましたが、弟子が機会をくれましたゆえ。」

 そう言って、老僧は笑みを浮かべたまま、弟子の顔を見上げる。

「その人の、供養をするのかい。」

 えんがそう言うと、老僧は首を振った。

「あの者の供養はこれを最後に致します。あれも僧であるならば、己の身は己で立ててゆきましょう。祈るのならば衆生の為に祈ります。」

 そう言って、老僧は笑った。

「あれも同じ道を行くのなら、いずれの世にかまた逢う事もありましょう。その時が、楽しみにもなりました。」

 満足そうな笑みを向け、老僧はえんに深々と頭を下げた。

「もう二度と此処へは参れませんが、最後によいお話が聞けました───本当に、有難う御座いました。」

 そう言うと、老僧はえんに背を向ける。そのまま、振り返ることなく小道を辿ってゆく姿が、やがて小さくなり、消えて行った。

 老僧を見送り、えんは刑場を振り返る。

 払暁(ふつぎょう)の光の中に虫の羽音を聞いて、えんは刑場に背を向けた。

 無惨に荒れてゆく刑死人の骸は見慣れている。

 それは既にただのモノだという事も知っている。

 それでも、あの骸を見上げて愛おしげに笑む老僧の胸中を思えば、荒れてゆく彼の姿を見るのは忍びなかった。

 山の端から登る朝日の光が辺りを照らし、長い夜が漸く終わる。

 今日もまた、暑くなるのだろう。

 涼しい内に、まだひと眠り出来るだろうか───そんな事をただぼんやりと思いながら、えんは朝露を置く藪を踏んで、帰途についた。

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