2.告白
遠くで、雨の音がした───
騒めく声を傍に聴き、彼は目を開けた。
開け放たれた障子の外には何刻とも判別のつかない曇空が広がり、重い雲からは相変わらず生温い雨が滴っている。そっと見回せば、狭い部屋の中には貫主等幾人かの僧が座り、部屋の外には寺内の僧等が彼の様子を覗いていた。
その中にひとり僧形ではない男が、様子を確かめるように彼の顔を覗き込んでいる。
「───目が覚めたか。」
男が問う。落ち着いたその様子は、どうやら役人であるらしかった。
───死なせてやれば、よかったものを。
ぼんやりと男の顔を見上げる彼の耳に、何処からかそう囁やく声が聞こえた。
不意に、目の前に雨に濡れた師の顔が浮かぶ。洗い流されていく血。青ざめてゆく顔。虚ろに見開かれた目が、ぼんやりと彼を見ている。
───ああ……。
全てを思い出し、彼は己の顔を両手で覆って呻いた。
両手の隙間から、ぽつりとひと粒涙が零れて頬を伝う。
「何があったかは、覚えておるのだな。」
静かにそう問う男の声に、彼は小さく頷いた。
───起きられるか。
そう問われ、「はい」と答えようとして、彼は激しく咳き込んだ。喉と首に痛みが走る。
白湯を───と誰かがいう声がして、彼の前に湯呑みが差し出された。支えられてゆっくりと身を起こすと、身体のあちこちが痛んだ。痛みに眉を顰めながら、湯呑みを口に運ぶ。そっと飲み下した湯が喉に沁み、彼はまた咳き込んだ。
「半日、意識が無かったのだ───」
無理はするなとそう言って、男は彼の首の辺りに目を遣る。そこには首を括った証拠の痛々しい痣が、くっきりと赤く残っていた。
「まだ、話をするのが難しい様なら───」
言いかける男を見上げ、彼はゆっくりと押し出すように声を出す。その声は、己でも驚くほどに掠れ潰れていた。
「───お役人、様ですか?」
囁やく様な声で問うと男は、そうだと頷いた。
「ならば、お話を───」
彼はそう言って、男を見上げた。役人に全てを話すのは恐ろしくもあったが、こうなってしまっては話さずに済ますことは出来ない。先に延ばして募る不安に怯えるよりは、今この時に全てを話して仕舞いたかった。
縋る様な目を向けると、男はゆっくりと頷いた。
「話が出来るならば、聞こう───何があった。」
ぽろぽろと彼の目から涙が溢れるのを見て、男は人払いをした。騒めく声が引いてゆき、貫主等が促されて不承不承部屋を辞すと、部屋はしんと静まりかえった。小さな部屋には、彼と役人の男。それに書役らしい男が残り、彼の背後に控えている。
静かになった部屋で、彼はしばらくただぼんやりと前を見つめていた。彼がいるのは師の部屋に続く三畳ほどの控えの間、ほんの数日前に彼に与えられた自身の居室らしかった。隣室から、普段はしない濃い香の匂いが漂ってくるのは、師の遺体が安置されているからなのだろう───
ぽとりと、何かの落ちる音がして、彼は音のした方に目を遣った。庭先の木の下に熟れた梅の実が散らばっている。自分が紐を掛けた木が、梅の木だった事を彼はその時に初めて知った。
───首を括ったのは覚えているな。
庭先に目を向けたまま、ひとりごとを言うように男が問う。
はいと答えると、男は頷いた。
「駆けつけた者の話では、お前はまだぶら下がったばかりだったようだ。」
だが、と男は言う。
「死んでいる僧に気を取られ、僅かに救うのが遅れた。木から下ろした時、お前の息は絶えていたそうだ。」
死んだものと諦めて戸板に乗せて運ぼうとした時、何のはずみか彼は息を吹き返したのだという。
「命拾いしたな───」
───はい。と答えて目を上げると、男は僅かに浮かべた憐憫の色を押し隠し、彼の目をじっと見つめて言った。
「首を括るからには、お前は死んでいる僧と無関係ではあるまい───何があった。」
穏やかに問う男を見上げ、彼はゆっくりと口を開いた。
「───師と、口論になりました。」
彼がこの寺に来てから、僅か数日。
やっと師弟となったばかりだった。
「何故、口論となった。」
尋ねられ、彼は口籠もる。
「───言いたく無いか。」
頑なな彼の表情を見て、男はそう言った。
「ならばまずは先を聞こう。口論になり、どうした。」
先を促され、考えながら彼はあの時の事を口にする。
「あの時、師と口論になり、私は部屋を辞そうと廊下へ出ました───」
部屋を出ようとした彼の肩に師の手が置かれ、そうして、師は彼に言った。
「───思わず、力が入りました。」
力任せに突き退けて振り向くと、師の姿が視界から消えていた。
「何が起きたのか、始めは解りませんでした───」
赤い、色が見えた。
雨に湿った廊下から覗くと、赤い色が降る雨に流されていった。
師は沓脱石に頭を割られ、仰向けに倒れていた。
「───何故、直ぐにひとを呼ばなかった。」
そう問われ、彼は雨の中の光景を思い出す。
仰向けに倒れた師の、驚いた様に見開かれた目から、徐々に光が失われていくのを。
仰向いた顔から血の気が失せ、少しずつ青ざめていくのを。
身体から体温が失われ、次第に冷たくなっていくのを。
師が死んでゆくのを。
彼は身動ぎもせず、ただじっと見つめていた───
「───命を止める術がないと、分かったので。」
世は無常だという。何物も永遠に留めて置けるものは無いのだと。
彼は、それを目の当たりにして立ち竦んだ。零れ落ちてゆく命に怯えて竦んだ。そうして、気がついた時には、師は既に冷たくなっていた───
「それで、首を括ったか───」
はい、と彼は頷く。
捕らえられれば、恐らくは破門の上死罪。それならば───
「───わかった。」
男は言って彼を見る。
穏やかな目はしかし、譲らぬ覚悟を宿して彼に向けられている。
「もう一度問う。何故、口論になった。」
再び口籠もる彼に、男は言う。
「牢屋敷で調べを受ける事になれば、不審な点は徹底して問い質される───だから、今の内に聞いて置きたい。」
不安げな、しかし頑なな顔で見上げると、男は彼から目を逸らし、庭先を越え何処ともわからぬ遠くへ目を遣った。
───夜伽を命じられたか。
小声で不意にそう尋ねられ、彼は小さく息を飲んだ。
男が彼を見る。
穏やかに向けられるその目には、憫れみの色も、蔑みの色も無かったが、彼は己に向けられた目から逃れる様に俯いた。
「この先は、記さずともよい。」
書役にそう言って、男は立ち上がる。襖を開け、寺内へ続く廊下と隣室を確かめて、男は再び彼の傍に座った。書役がそっと立ち上がり、部屋を出る。
顔を上げると、男は静かに彼を見ていた。
「───誰も聞く者は無い。」
穏やかな、しかし力強い声で男は言う。
「聞かせてくれ。何があった。」
涙が溢れるかと思った。
だが心の内は意外なほど平坦で、凪いでいた。
自分でも少し驚きながら、彼は男の顔を見上げる。
「───なぜ、おわかりになったのですか。」
問うと、男は少し苦い顔をした。寺社の風紀の乱れが取り沙汰される昨今、男が直ぐに察する程度に、そうした事は珍しくはないのかも知れなかった。
「お知り置き下さい。」
彼は言った。
「私は───つい先日迄、京のある寺の稚児でした。」
男が頷く。
その顔に、蔑みの色が微塵も浮かばない事を確かめて、彼は思わず苦笑した。
「驚かれませぬか。」
彼が言うと、
───珍しい事ではあるまい。と、男は言った。
「この辺りでは少ないが京の大きな寺ならば、稚児を置く所も多いと聞く。」
はい───と、彼は頷く。
「私は幼い頃に寺に入り、つい先日お許しを頂いて、僧になりました。」
それは、それ程簡単な事ではなかったが、彼は出来るだけさらりとそう言った。
「私の出家を御世話下さった方が修行先としてこの寺を探して下さり、数日前に私は此方に参ったのです。」
近くては、稚児上がりだと分かってしまう。恥じる事は無くとも、疎む者はあるかも知れない。僧となるのなら余計な事に煩わされず、仏道の修行に励める様にとの心遣いだった。
此の寺に来て僅かに数日。彼の過去を知る者がいるとすれば、貫主等数名ぐらいのものだろう。しかし───
「師は、私が稚児だった事を知っていたのでしょう。」
あの時、師は彼に、夜の勤めを命じたのだ。
「もちろん、お断り致しました。」
きっぱりと断ると、師は彼を笑った。
───僧になったからといって、遠慮する事もなかろうに。
一時、言葉を失った彼に、師は言った。
───慣れたものだろう。
怒りが、湧いた。
蔑みの目を向けて、部屋を出ようとした彼の肩に、師の手が触れる。
───平穏は、望まぬか。
呟く声を聞いた途端に怒りが込み上げ、彼は師の手を振り払い、その身体を怒りに任せて突き退けた───
「───あとはお話しした通りです。」
そう言うと、男はそうかと静かに頷いた。
すべてを話した安堵から、再び彼の目に涙が溢れる。
男は、黙ったまま彼が泣くに任せた。
部屋内に、彼の嗚咽が静かに響く。
「師の罪を告発するか?」
やがて、落ち着きを取り戻した彼に、男は問う。
「お前の罪は幾らか軽くなるだろう。」
彼は、首を横に振った。
「稚児だった事を、知られたくはないか。」
問われて、彼は口元に薄く笑みを浮かべて、首を振った。
「───稚児だった事を恥じる積りはありません。」
ならば、何故───そう問う男に、彼は悲しげな顔を向けた。
「数日とはいえ、師であった方に罪を加えることはしたくありません。また、御世話下さった方々の心遣いを無にする事は出来ません。」
男の目が、彼を見る。
その顔に覚悟を見て取って、男は悲しい顔をした。
「よかろう───」
と、そう言って、男は書役を呼んだ。
「───この寺での処遇を巡って口論となり、口論の末の揉み合いで廊下から仰向けに落ちたそうだ。これ迄とは勝手の違う事もあり、些細な事で不満が募ったのだろう。殺すつもりは無かったにせよ、この者が突き落とした事に間違いはない。」
男に感謝しつつ項垂れる彼に、ちらりと気の毒そうな目を向けて、書役は男に言われたとおりの事を書き付けた。
やがて廊下に見張りの手下を残し、男は立ち上がる。
「明日、改めて来よう。それ迄ゆっくり体を休めよ───」
夜具に身を横たえる彼を見下ろして、男はそう言った。
その顔に僅かな憐憫の色が浮かぶのを見て、彼は明日には自分が牢屋敷に送られるのだと気がついた。
「───首を括って死んでおればよかったか。」
青褪めた彼の顔を見下ろして、去り際に男が問う。
彼は首を横に振った。
「僅かな命であれ、生き長らえた意味があるかも知れません。」
そう言って見上げると、男は何ともいえない顔をして、そうか───と呟いた。
襖を開け、部屋を出て行くその背に向かい、はい───と答える。
男は彼を振り返り、静かに首肯いて出ていった。
ぱたりと音が響いて襖が閉じ、彼はひとり取り残されて天井を見上げる。目を閉じるのは、怖かった。
そうしていると、身体のあちこちが痛んだ。自分はきっと、本当に死にかけたのだろうと思う。
隣室にはひとの気配があり、時折ひそひそと囁き合う声がする。それでも、僅かに襖一枚隔てただけの彼の元には、誰ひとり様子を見に来る者もない。自分のした事を思えば当然の事だったが、負わねばならない罪の重さにひとり苛まれる身には、それがひどく悲しく、心細かった。
いつか日も暮れ、師の遺体は通夜の為どこかに移されたらしく、人声も香の薫りすらも無くなって、彼はひとり薄闇を見つめて息を吐く。
生き残ってしまったからには、定法による裁きを受けねばならない。そうなれば、これから自分はどうなるのか───
そう考えて、彼は孤独と不安に身を縮める。
本当に、生き延びた意味があるのだろうか───と。
暗い空から、重い雨が降る。
低く響く蛙の声を聞きながら、彼は夜具の端を握り締め、ゆっくりと目を閉じた。
明日には罪人に堕ちる身に夜は辛く、あまりに長かった───