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実熟れ時  作者: 皇 凪沙
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16.別離


 二日目が過ぎ、三日目の夕。夏の面影を残した陽が西に傾く。

 二日目からは彼がその身を案じていることを知り、日中(ひなか)には時折日陰に退きながら、三日の間師の姿はずっと街道の片隅にあった。せめて最後に一言なりと言葉を交わせればと思ったが、その姿も今はもう無い。

 三日の晒し刑を終えて柱から解き放たれ、牢屋敷へ下げられる彼に、明日は磔になるのだと、遠慮の無い野次馬の声が飛ぶ。心無い声を聞き、気遣わしげに振り向く男に、彼はそっと首を振った。

 明日の死は既に覚悟が出来ている。三日もの猶予を貰い、十分に己を見つめる時を得て、これ以上は望むべくも無かった。

 牢屋敷の門を潜り、牢役人に渡されて本縄を解かれ、いつもの牢番に縛り直される。見送ろうと振り返ると、役人の男と牢役人が意味ありげに目を見交わしていた。

 牢役人が頷くと、役人の男が彼に目を向ける。

「来い。」

 と、ひと言そう言って、男は先に立って牢屋敷の奥へと向かった。慣れた道筋を辿って、彼はいつもの部屋へと導かれた。

「入れ。」

 男が板戸を開ける。いつも男が居る筈の正面の座は空いていて、横手に僧形の影が見えた。

「───御師様。」

 思わず駆け寄りかかる彼を、慌てた様子で牢番が止める。

「少し待て。」

 男が宥める間、牢番が不意の動きにきつく締まった縄を解いた。自由になって、彼は師僧の前に身を投げる。言葉さえ出ないまま、ただ涙だけがこみ上げた。

「弟子が、大変なご迷惑をお掛け致しております。」

 泣き伏す彼を静かに見下ろし、老僧はそう言って男に深く頭を下げる。

 男が小さく頷いた。

「泣くな。」

 強い声に、彼は顔を上げる。

「───泣いたとて、取り返しのつくことではない。」

 涙に濡れた目が、師を見上げる。

「苦しかろう。しかしそれが、罪を犯すという事だ───己のした事の、責任を取れ。」

 そう言われ、彼は身を起こした。

 真っ直ぐに師に向かって座り、彼は静かに項垂れる。師僧の目が真っ直ぐに彼を見る。

「───此方の寺には既に詫びを入れた。無論お赦し頂ける事では無いが、せめてこれ以上ご迷惑の掛からぬ様、取り図って頂いた。」

 彼はそっと顔を上げ、躊躇う様に師を見上げる。

「弟子が過ちを犯した責任は、師である私にある。だから私は、私のした事の責任を取る。」

 目を見開いて、師を見つめた彼に男が静かに告げる。

「師僧への沙汰状は既に京より届いておる───僧位を無位とし追院の上、京と当地からの所払いとなるそうだ。」

 老僧が僅かに微笑み、頷いた。

「幸い現在、当寺の貫主は私だ。他に責めが及ぶ事はない。だから───後のことは心配せず、お前は自分の罪の償いをする事だけを考えよ。」

 師僧の言葉を聞いて、見開いた彼の目から涙が溢れ出た。

「申し訳、御座いません───」

 (こら)え切れず泣き崩れる彼に、師僧は言う。

「私には詫びるな。これまでお前を育ててきたのは私。過ちにもせよ、お前が罪を犯したのなら、それは私の所為だ。」

───いいえ、いいえ。と、彼は泣きながら首を振る。

「私の罪は私の所為です。慈しみ育てて頂いた恩も返せず、この様な───」

 泣く彼を、師僧は愛おしげに見下ろした。

「言うな───恩などとうに返して貰った。その証拠に、今この時は勿論の事、これまで一度たりともお前を弟子に持った事を、私は後悔した事はない。」

 涙に濡れた顔を上げ師を見ると、穏やかな目が彼を見下ろした。

「お前には、とうとう何もしてやれなかった。こうしている今でさえ、慰めのひとつも言うては遣れぬ───」

───赦してくれ。

 そう言って、師は彼の肩に手を置いた。

 その温もりと匂いを感じ、彼の頬にまた涙が溢れる。

「お願いが、御座います───」

 溢れる涙をそのままに、彼は顔を上げ師を見つめた。

 穏やかなその顔をじっと心に焼きつける。

「明日の我身を、お目に掛けるのは偲びなく───これにて、今生のお別れとさせて下さいませ。」

 悲しむ顔は見たくなかった。彼の為に悲しみを堪える顔を見るのは、もっと辛い。だから───

 肩に置かれた手が、頰に触れ涙を拭う。

「分かった。」

 そう言って、師は手を離す。

 その目がゆっくりと役人の男へと向けられる。

「明日、御沙汰を御請けする事は出来ましょうか。」

 男は少しだけ悲しげな顔で、頷いた。

 沙汰を受ければ、その場で袈裟を剥がれ、白洲に落とされて御構い場所が言い渡される。おそらくはそのまま、御構い場所であるこの地を出され、戻る事は許されないだろう。

 だからせめて、彼の仕置が終わるまでは城下に居られるよう、沙汰状はとり置かれていた。

「───望まれるのならば。」

 男の言葉に師は満足気に頷く。

「御無理を言って、申し訳御座いません。しかしこれで───」

───我が身も明日は罪人に御座います。

 そう言って、師僧は薄く笑みを浮かべた。

 彼は顔を上げ、己の師をじっと見る。

「───これから、どうなさるおつもりですか。」

 彼が問うと、師は言った。

「無位となっても僧籍は残った。僧であれと言うのなら、生涯僧として生きて行こう。今の私に何が出来るか、暫くは行脚しながら考えようと思っている。」

 涙を浮かべて見上げる彼を、師は穏やかな顔で見下ろす。

「───しがらみを断ち切る事が出来たなら、そうした生き方も良いと思っていた。生涯叶わぬものと諦めていたが、これで望みが叶う。だから───その様な顔をするな。」

 涙に濡れたその顔に、師は優しげな笑みを向けてそう言った。

 その師の顔をもう一度心に刻み、彼は僅かに微笑んで目を伏せる。

「有難う、御座いました───これで、御暇を申し上げます。」

 深く頭を下げる彼に、師は肯く。

「それでは───な。」

 そう言って老僧は、男に頷いた。

 男が牢番に声を掛ける。板戸の外に控えていたらしい牢番は、硬い顔で入って来ると、手元に目を落としながら、いつもより時を掛けて、ゆっくりと彼の手に縄を掛けた。

「お身体をお大事に、お過ごし下さいませ。」

 去り際に、彼はもう一度師を見つめてそう言った。穏やかに笑みを浮かべて、師僧が頷く。

 その顔に笑みを返し、振り切るように前を向いて、彼は部屋を出た。


 閉まった板戸をじっと見つめ、老僧は不意に落涙した。

「───申し訳、御座いません。」

 そう言って、老僧は肩を震わせる。

「罪人の為に流す涙では御座いません、子も同然の弟子の為に流す涙に御座います。どうぞ───」

───お許し下さい。

 そう言って、老僧は力尽きたかの様に板間に両手をついた。静かに嗚咽する老僧の背に手を置いて、

(こら)えなさいますな───存分に涙を流されませ。」

と、そう言って、男は静かに傍に座った。

 夕暮れ時のひぐらしの声が物悲しげに響く部屋で、老僧が静かに泣き続ける。部屋が夕闇に呑まれるまで、男はじっとその傍らに座り続けた。


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