15.離苦
陽が山の端に掛かる。
涼を含んだ風が流れ始め、夕暮れの空にひぐらしの声が響いていた。
「また、お会いしましたね───。」
後ろ姿にそっと声を掛けると、須弥壇の上を見上げていた老僧は静かに振り向いた。えんを認め、憂いを帯びた顔に僅かな笑みが浮かぶ。その目には深い悲しみが見て取れた。
「───とうとう、沙汰が下りました。」
老僧はそう言って、閻魔像を見上げる。
「この閻魔堂は処刑される者が、最期に参るのを許される場所と聞きました───」
ああ。と、えんは頷いた。
「───本日は、閻魔王様にひとつお願いをして置きたいと思い、こうして参りました。」
えんは、ゆっくりと閻魔像を見上げる。扉の間から射し込む夕暮れの光が、須弥壇の上の木彫りの閻魔を照らしていた。
「何を、願おうって言うんです。」
僧と共に閻魔像を見上げたまま、えんは問う。
「罪人の縁者が、閻魔王に願うのは唯ひとつに御座います───」
須弥壇上に向けられた老僧の目に、光るものがあった。
「お坊様でも、それは一緒か───。」
えんが呟くと、老僧はえんに静かな目を向けた。
「僧であればこそ───で御座います。」
稚児のまま、戒を受けず、道を知らず、法を知らぬままであったなら、その苦も軽かったかもしれない。しかし僧となり、仏の道を学び始めた身であれば、苦しみは大きく、その報いも又重いだろう。
老僧はそう言って、再び閻魔像を見上げた。
「今日、辻に晒されるあの者を見ました。」
えんは、老僧の横顔を見上げ、頷く。
「───京を送り出す前に、形を整え、所作を教え。僧形となった姿もどうやら見慣れたと思っていましたが、罪を犯し捕らえられたと聞いた時に浮かんだのは、稚児装束のまま途方に暮れる幼いままの姿でした───」
老僧の目がそっと閉じられる。
「恐れ怯えて泣いているのではないかと、案じておりましたが───今日のあの姿を見て、もう稚児ではないのだと知りました。」
ああ───と、えんは頷く。
脳裏に、すべてを受け入れ凛と顔を上げた、若い僧の姿が浮かんだ。
「あなたの姿を見たからでしょうよ───」
えんはそう言って老僧を見上げる。
「───それまでは、身を縮めて泣いていた。」
老僧が頷いた。
「初めにあれの姿を見た時、やはり案じていた通り罪に怯え、死に怯えて泣いていたかと───そう思いました。」
しかし───と、そう言って老僧は目を開けた。
「私の目の前で、見事に覚悟致しました───あの者は、もう立派に僧で御座います。」
そう言って誇らしげにそして切なげに、老僧は眉根を寄せた。
「たとえ罪人の身とは言え、立派に育った弟子を見るのは嬉しい事です。けれども───」
と、老僧は閻魔像を見上げて言った。
「───幼いまま、怯え、震えて居てくれたなら、その苦悩を除き、穏やかに死なせてやる事も出来たでしょう。しかし今のあの者は、死の瞬間まで悩み苦しまねばならない。それが哀れでも御座います。」
辛そうに歪む顔から目を逸らし、えんは足下に目を落とす。
「穏やかに、死なせてやればいいじゃないか───十分だろう。」
えんがそう言うと、老僧は静かに首を振った。
「そうはいきますまい───哀れとは思いますがそれが、僧となったあの者の負わねばならぬ責任で御座います。」
そう言って、老僧は思いを堪えるように手元に目を落とす。
「そういうものか───」
そう呟いて、えんは閻魔像を見上げる。薄く埃を被った木像は、彫られたままの怒りの表情でこちらを見下ろしている。
「───仏さまっていうのは、余程身内に厳しいのかい。」
問うと、老僧は静かにえんを見て言った。
「その様な事はありません。御仏は誰にも同じく慈悲深くいらっしゃいます。」
───じゃあ。と、えんは言う。
「坊主だって稚児だって、同じじゃないか。」
なのに何故───と、そう問うと、老僧は穏やかに笑った。
「御仏が変わるのではありません、己が変わるので御座います。」
首を捻るえんに、老僧は言う。
「僧とは、いずれ仏となる事を目指すものに御座います。僧にとって御仏は遠い遠い先の己の姿───そう思って、己の身を律し、その言動に常に責任を持たねばなりません。お分り頂けましょうか。」
ああ───と、えんは頷く。
「御仏が同じく慈悲を下されても、受け取る者の立場が違えばその意味は変わりましょう───僧となった者は、たとえ御仏が赦しても、己を容易には赦す事が出来ぬのです。」
そう言って、老僧は哀しげな笑みを浮かべた。
「あの者は、既に己の罪を知って居りましょう。己の行動の何が間違っていたのかも、解っておるやも知れません。しかしこの度の事はそれが分かっても、此の世ではもう取り返しのつかないこと。ならば、命の無くなるその時まで、考え続け、苦しみ続けるしかありますまい───」
ぽつりと涙の雫が落ちる。
「今生は苦しみ抜くとしても───せめて行く末は僅かなりとも安らかであってくれる様、祈るばかりで御座います。」
微笑みを浮かべたままでそう言って、老僧は涙を零した。
老僧が、閻魔の像に額ずく。
長い間、そうして須弥壇の前に蹲り、やがて老僧は顔を上げた。その顔には、やはり遣り切れない悲しみが浮かんでいる。
黙ったままで、えんは老僧とともに堂を出た。
外に出ると、夕暮れの光が辺りを紅く染め上げている。昨日まで夏草に覆われていた刑場は、数日後の処刑に向けて整えられ、整然とした様を見せていた。
ひぐらしの声が高くなる。
正面に組み直された矢来のまだ青い竹に手を掛けて、老僧はしばらくじっと動かなかった。
「僧となってこれまで───」
刑場に目を向けたまま、不意に老僧が言った。
「───幾度と無く愛別離苦の理を、生死の法を説いて参りましたが、己の身になれば人とは弱いものに御座います───」
えんは、老僧を見上げる。
「───あの者は既に己の死を覚悟致して居りましょう。死なせたくないと思うのは、私の勝手な思いだと分かって居ります。それでも───」
と、そう言って、老僧は見上げるえんから目を逸らす。
「───幼い頃から育てたあの子を亡くすのは、辛う御座います───」
遠くを見つめた老僧の目から涙が溢れた。
「───二親の顔さえ知らないあの子に、ただ、人並みの幸せをやりたいと、そう思っただけでした───」
初めて会ったとき、大人に怯えたその子供は、それでも手に抱くと安心したような笑みを浮かべた。その笑みを守ってやりたいと、そう思った。稚児の勤めは辛いこともあろうが、勤め上げればまとまったものを渡してやる事も出来る。その時には何か身の立つように考えてやろう。そう遠くない所に小さな家でも用意してやって、そこで所帯をもってくれれば良い。そうして時には寺へ顔を出して、幼い頃の思い出でも語ってくれるようになればいい───そう思った。
「───僧にするつもりで育てたわけではありません、むしろそのような厳しい道に進んで欲しくはなかったのに。思うようにはゆかぬものです───」
僧になりたいとそう言われたとき、やめて置けと笑った。それでも、歳を重ねるごとに強い思いが育ってゆくのを止められなかった───
「───最後まで止めるべきだったのかも知れません。しかし、嬉しくもあったのです───」
渋々ながら出家を許し、姿を変え、それらしい所作を身につけてゆくのを見るのが、楽しかった。悩み迷いながら、ゆっくりと僧らしくなっていくのならそれも良いと、そう思った。
それなのに───
「───私の、せいで御座います。」
山の端に最後の光が消えて、辺りが薄暮に染まる。
老僧はそっと涙を拭った。深い悲しみを湛えた目が、えんを見る。
「もう残されたのは僅かな時ですが、それでもひとり悩み苦しむのは辛う御座いましょう───何もしてはやれませんが、出来る限りの時を、共にあろうと思います。」
言葉もなく見つめるえんに深く頭を下げ、老僧は刑場に背を向けた。見上げれば、中天に白く透けるような半月が物寂しげに浮かんでいる。
薄暮の中、小さくなってゆく僧の背を見送って、えんは深いため息を吐いた───




