14.意味
目と同じように、耳が閉じられたなら───
項垂れたまま、彼はそう思う。
数間先に張られた縄囲いの外から、増えだした野次馬が声高に彼の罪を責め立てる。
耳元に響く様なその声に、彼はただじっと身を縮めて耐えていた。
蔑む声は、容赦なく彼の名を呼び、寺の名をも読み上げる。己の名はまだしも、幼い頃から親しんだ寺の名までもが罵られるのを聞くのは耐え難く、俯いた顔に涙が流れた。
「───辛いか。」
身を縮め身動ぎもしない彼を心配してか、役人が彼の後ろに廻り、後ろ手に縛られた彼の縄を確かめる。手首の縄を少し緩め、そう尋ねる男に、彼は小さく肯いた。
「仕方が───ありません。私の犯した罪です。私が罵られるのは構いません。でも───」
そう言って見上げた彼の顔を見て、男は云う。
「罪を犯すという事は、そういう事だ。辛かろうが仕方がない。」
厳しい言葉とは裏腹に哀しげな目が、彼に向けられる。
「顔を上げ、よく見てみるがいい。」
言われて彼は、恐る恐る顔を上げる。
縄囲いの外に集まる野次馬から少し離れた往来の端に、旅装の僧の姿が見えた。
───御師様。
小さな呟きが、思わず洩れる。
見間違う筈が無かった。
「項垂れ怯え、身を縮める姿を見せるのか。」
瞬きもせず師の姿を見つめる彼に、男が言った。
「───せめてこれ以上、心配を掛けぬがいい。」
そう言って離れる男を振り返り、彼は涙を振り払った。
座り直して、前を向く。
陽に背を向けた師の顔は、網代笠の影になりその表情は窺えない。それでも、その目が揺るがず自分に向けられている事は分かる。
これ迄に掛けてしまった心労は取り返せない。
己の死によって掛けてしまう心痛もどうする事も出来ない。
だから今、これ以上心配を掛ける事だけは出来ない。
彼が、自身の罪を償う事だけを考えられるようにと師が心を砕いてくれるなら、彼はその思いを受け取らなければならない。
蔑みも、罵りも、侮蔑の目も、すべてを一身に受ける覚悟で、彼は顔を上げた。恩知らずの人殺しと罵る声を聞き、汚い物を見るような蔑みの眼差しを受ける。
自分が犯した罪を、自分でそれと知っているのと、他人に指差され知らしめられるのとでは天地の開きがある事を、彼は知った。
───己は、罪人なのだ。
彼は、そう思い知る。
罪人として罪を償う覚悟を決めると、心がすっと落ち着くべきところに納まってゆくのが分った。
辺りが、静かになる。
彼はただ顔を上げ、じっと座っていた。
周囲が再び騒めき始める。
再び聞こえてきた声には、それ迄にはなかった感嘆と哀れみの声が混じっていた。
ああ、死ぬのだ───
その時初めて、彼は己の死を実感した。
罪を犯し、下された沙汰に従い死んでゆく。
そうして彼は、理解した。
衆目に晒され、人殺しの罪人と蔑まれて己の罪を知るこの時が、死んでゆく自分には必要だったのだ───と。
───御仏は、すべてを心得ている。
そう思って、彼は小さく息をつく。
己の内の御仏は、死にゆく彼を助けはしない。すべてを心得た上で、ただじっとそこに据わっている。
彼は、離れて見守る師を見上げた。
御師様───
心の内で師に呼びかける。
揺るぐこと無く彼に向き合い立つ師には、今自分が死を受け入れた事が分かるだろうか。
穏やかでさえある今のこの気持ちが師に届く事を願って、彼は高く顔を上げる。炎天に彼を案じて立ち続ける師の顔が、僅かに和らぐのが見えた気がした。
日が高くなるにつれ、残暑が酷しくなる。
昼時になり、一日の晒しの半分が終わると、彼は厠へ立つのを許された。身体に縄を掛けたまま、手だけを自由にされる。縄尻を取られたまま用を足し、戻ると柄杓に汲んだ水が与えられた。
「お願いが───御座います。」
躊躇いながら、彼は役人の男を見上げる。
本来なら、罪人の願いを聞く事は出来ないのだろう。男は黙ったままそっと彼の側に身を屈めた。
「御師様に───私は大丈夫だとお伝え下さい。炎天に、水さえ口になさらず、もう半日も立たれております。」
───どうか。
そう言ってじっと見上げると、男は僅かに頷いた。
元の通りに括り直された彼の縄目を確かめて、男が囲いの外に出る。野次馬を見回りがてら身体を伸ばしに出た風情で、縄囲いの外を時折辺りの者に声を掛けながらゆっくりと巡り、やがて男は師の傍らに寄った。
二言三言、男が師に声を掛ける。
男が離れると、師は静かに彼を見つめ、そっとその場を離れた。
それを見届けて、彼はほっと息を吐いた───
再び彼は、衆目にその身を晒す。
罵る声を聞きながら、彼はあの日の事を思い出していた。
一瞬の怒りに捕らわれ、取り返しのつかない罪を犯したあの日───はじめそれは、自分にとって取り返しのつかないものだと思っていた。
しかし己の死が見えた今、あれは手に掛けてしまった師にとってこそ取り返しのつかないものだったのだと解る。別れを告げる時はおろか、死を覚悟する間も無く、何が起こったのかさえ判らないままの死だったかも知れない───
そう思って、彼は今更ながら深い罪悪感に苛まれる。
突然に命を奪われた師の無念や憤りが、今此処に座る彼にはよく分かった。
ただ己の不幸のみを思って死のうとしたあの日、死を許されなかった理由が今ならば分かる───自身の罪を知る為にこそ、彼は生かされたのだろう。
あの時、死んでいたなら。
此処へ座る事が無かったなら。
己は、何も解らないままだったのだ───。
僅かな生の意味を知り、彼は小さな笑みを零した。
陽が西に傾く。
やがて時が来て、その日の晒しの終わりが告げられた。
杭に繋いだ縄が解かれ、罪人が晒し場から下げられる。
「───堪えたか。」
長い一日が終わり牢屋敷へと戻される彼に、役人の顔で男が言った。
───はい。
と、答えて彼は頷き、男を見上げる。
「それでも、首を括ったあの時に死んでいなくて、本当によかったと───そう思います。」
男が苦い笑いを浮かべて彼を見た。
「こうして晒され、辛い思いをしてもか。」
そう問う男に、彼は答える。
「だからこそ───そう思います。」
僅かに微笑んで見せると、男はそうかと頷いて、あの日と同じ穏やかな目をした。
「まだ二日、辛い思いをする事になる。」
彼は頷く。
「お見届け下さいますか。」
男が頷く。
「───最期まで、見届けよう。それが、役目だ。」
そう言う男に、彼は「ありがとう御座います」と頭を下げた。
牢役人が彼を受け取り、本縄を解く。
牢番が手慣れた仕草でいつもの様に彼に縄を掛ける。
夕刻の日差しが斑らに差し込む門を潜り、男が出て行くのを横目に、彼は今朝方二度とは戻れないと覚悟した牢舎へと返された。