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実熟れ時  作者: 皇 凪沙
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11.慟哭


 蒸す様に暑い牢舎の中を、僅かな風が過ぎて行く。

 ここ数日は夕立さえなく、外では照りつける陽の光に騒々しい筈の蝉の声さえ気怠げに聞こえていた。

 牢舎の前後の扉は板戸が開け放たれ、木組みの格子戸だけが締められている。窓のない牢獄は陽に焼かれる事は無かったが、茹だるような暑さが連日襲っていた。

 人の気配を感じて手にしていた書物を置き、汗を拭って彼は外を伺う。耳を澄ませていると、牢番が近づいてくるのが分かった。牢番は彼の牢格子の前に止まり、手にした手桶を見せる。少しだけ微笑んで、彼は錠の外された格子を潜った。

 格子の外で膝をついたまま、縄を受ける。

 初めての時には随分辛く感じたものだが、幾度かの経験でそれほどではなくなった。後手に緩く縄を掛け、牢番は彼を先に立たせて調べの行われる部屋へと向かった。

 いつものように板間に据えられ、役人の男を見上げる。男が頷くと、牢番 は躊躇う様子もなく彼の縄を解き、彼の前に手桶と剃刀を置いて出て行った。

「まずは、使え───」

 そう言われて、彼は前に置かれた剃刀を取った。手早く丁寧に髭や髪を剃ってゆく彼を、男は穏やかに見下ろしている。二度目以降、男が刀に手を掛ける事は無かった。

 十分に刃を滑らせ、彼は剃刀を置いて下がる。

「ありがとうございます。」

 そう言って手をつくと、男は頷いた。


 道具を(わき)に退け、男は彼を見下ろして、

「昨日、お前の師に会った。」

と、そう言った。

 間も無く京より着く事は聞いていた。それでも途端に様々な思いが胸の内を駆け巡り、懐かしさと共に申し訳なさが身を貫く。

 顔が強張るのが分かったのだろう、男は穏やかに笑って、

「立派な方だ。良い師であられるのだろうな。」

と、そう言った。

「───お元気で、いらっしゃいましたでしょうか。」

 聞きたいことが山程あったが、胸が詰まって言葉が出ない。もどかしげに見上げる彼を制し、男は頷く。

「ゆっくりと、話そう───」

 そう言って、男は口を開いた。



 その僧が役所の門前に立ったのは、じりじりと日の照りつける暑い日中だった。まだ昼には間のある時間だというのに、乾ききった地面には陽炎が立ち上っている。

 景色が揺らぐ様な暑さの中に立ち、旅装の僧は、役人の姿を認めると端正に頭を下げた。

「お呼出により、京より参りました。」

 そう言って頭を上げ、既に老境に差し掛かったであろうその僧は男を見上げた。


 役所内の座敷でその僧と向き合い、調書きに目を落としながら、事の次第を話して罪人の名を伝えると、老僧は苦悶の表情を浮かべた。

「本当に───間違い無いので御座いますね。」

 そう言った老僧の手は、何かを(こら)えるように握り締められている。

「調べは既に終わっております。あの者が言うには、強い力で師僧を突いたのは間違いないと。たとえ殺すつもりが無かったにせよ、怒りに任せて師に手を挙げ、結果死に至らしめたなら、罪を逃れる事は出来ますまい。本人も逃れる事は出来ないと悟り、直後に自害を図っております。」

 男がそう言うと、老僧は固く握った拳を震わせ、

「───何が、あったのでしょう?」

と、男に問うた。

「師僧と処遇について口論になったと、そう答えて居ります。」

 そう言うと、老僧は首を振った。

「幼い頃よりあの者を見て来て居ります。少々理不尽な事が有ったとしても、怒りにとらわれる様な者では御座いません。」

 若い僧のついた嘘をあっさりと見破って、老僧は男を見上げる。

「───話さぬと約束致しました。」

 仕方なく、男はそう言った。

 老僧は合点の行ったように頷き、目を閉じた。

「師僧はあの者が稚児であった事を知っていたのですね───」

 そう言って、僧は深く息をついた。

「ご存知の事と思いますが、あれは元は稚児として寺に仕えておりました者。ゆえに、幼い頃より誠を貫く事を教えてきました。それが───間違いだったのかも知れません。」

 沈痛な面持ちで、老僧は言う。

「稚児であっても、矜持を持った児で御座いました。稚児であったことを知られ、蔑まれたとしても、それを恥じる訳は無い。むしろ───誇りを穢された思いがしたのでしょう。」

 老僧の言葉に、男は静かに頷いた。

「───一瞬の事だったようです。怒りに駆られ力を込めて突き退けた、と。」

 男がそう言うと、老僧は眉間に手を置き再び深いため息をついた。

「その時ならばまだ───」

───罪を逃れる道はあったものを───

 声に出しては言わなかったが、そう呟く老僧の声が男の耳には確かに聞こえた。

「命を───他人の命は勿論ですが───己の命もまた、守る事を第一に教えるべきだったと、今は悔やまれます。」

 そう言って、白くなる程握り締められた拳に目を落とし、老僧は暫くじっと耐えていた。

 そうしてやがて目を上げて、老僧は男を見る。

「お願いが御座います───」

 黙ったままで見返すと、僧は深い落ち着きを湛えた目で、言った。

「罪を犯したこの者は、現在も当寺の僧に御座います。よってこの度の事は、当寺が一切の責を負わせて頂きます。」

 そう言って、僧は一枚の書付を取り出した。

「お預けして三月の間は元の寺に籍を置き、此方の寺院の預かりとして頂く事で約定を交わしております。」

 目を通すと、確かにその書付にはその旨が記され、元寺の寺印が押されている。

「しかし、これは───」

 男が見上げると、僧は頷いた。

「遠方ゆえ、未だ受け寺の印を頂いておりませんでした。この後、お詫びを兼ねてお伺いし、正式な物と致します。この書付を、御調べの際お取り上げ下さい。」

 男はじっと老僧を見詰めた。

 この書付が、此の度の事を受けて急遽作られたものである事は、疑い様がなかった。しかし、受け寺の印が入り、正式な形となった後に出されれば、最前に取り交わされていたものと区別はつかない。正式に取り上げられれば、預かった方の寺院の責任は軽くなるが、元寺の責はその分重いものとなる。元寺を預かる上座の僧には、決して軽くはない沙汰が下る事になる筈だった。

 黙ったまま、じっと己を見詰める男に僧は頷く。

「分かっております───幸い現在の当寺の貫主は私、この書付が正式に認められれば、この者の現在の師僧も私に御座います。」

 老僧の顔に静かな覚悟が浮かぶ。

「───私が、すべての責を負いまする。」

 顔を上げ静かに澄んだ目を向ける老僧とは反対に、男は居たたまれぬ気持ちで膝下へ目を落とした。

「───すべて、失われるお積りですか。」

 そう問うと、老僧は男からふと目を逸らした。

「もう、私があの児にしてやれる事は、これぐらいしかありますまい。後の憂いの無いように、ただ己の罪を償う事だけを思って往けるように───してやりたいと思います。」

 愛おしげに言うその様を見て、男は彼がこの僧に仕える稚児だったのだと思い出す。師に心配を掛けてしまうと涙を零した彼の顔が浮かび、互いに想う思いの強さを、男はいっそ哀れに思う。

「あの者に、会う事は叶わぬでしょうな───」

 呟くようにそう言って、僧は男を見上げた。

「───沙汰の下る前の罪人には、誰も会わせぬ決まりで御座います。」

 そう言うと、僧は頷いた。

「ならば、お伝え下さい。私の事は心に掛けるなと。今もまだ、お前は私の弟子なのだからと、そう───」

───お伝え下さい。

 そう言って、僧は畳に手をついて、男に深く頭を下げた。

「承知しました。」

 男は静かに頷く。物憂げな蝉の声が微かに耳に届き、思い出したように汗が頬を伝った。

 汗を拭った男を見上げ老僧は、

(かたじけの)う御座います───」

と、そう言った。



「───今朝方書付が届き、師僧の調書きとともに正式に受理された。お前の所属は元の寺となり、師僧もまた元の師となる。」

 そう言われて、彼はただ男を見つめた。

 様々な思いが雪崩(なだ)れるように胸の中を行き交い、言葉とならずに渦巻いている。見開いた目からは、おそらく涙が流れているのだろう。それさえ分からないまま、彼は暫くただそうしていた。

「───立派な、師を持ったな。」

 ぽつりと男が言うのを聞いて、彼は我に返った。

───御師様。

 呟くと、身の内から何かがせり上がり、喉を破って溢れ出した。

「───あああああああっ。」

 叫んで板間に倒れ伏し、彼は慟哭した。

 嗚呼、嗚呼と泣く彼の声を聞きつけて、慌てた様子で駆けつけた牢番に、男は何でもないと首を振る。

 床を打って泣き叫ぶ彼が、やがて叫び疲れて啜り泣き、とうとう泣く事にさえ疲れ果てて目を上げるまで、男は何も言わずに彼を見ていた。

 そうして彼が目を上げると、

「師の思いを、無駄にはするな。」

と、そう言った。

 彼は、頷いて男を見上げる。

「分かって、おります。」

 瞬時、切ない想いが身の内をよぎり、彼は目を伏せた。

「もしも、師にお会いする事がありましたなら───」

 そう言って見上げると、男は頷いた。

「ただ───ありがとうございますと、そうお伝え下さい。」

 そう言って、彼は男に醜態を詫びる。

 男はただ、黙って頷いた───


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