10.愛惜
盛りの夏の蒸し暑く長い一日が漸く終わり、西に傾いた陽が山の端に掛かる。僅かに涼を含んだ風が流れ始めた夕暮れ時に、えんはその僧に出会った。
既に老境に差し掛かったかと見えるその僧は、旅装のまま夕暮れの光を浴びて、閻魔堂の前に立っていた。その顔は憂いを帯びて、直ぐそこにある刑場に向けられている。
「───どうしたんです?」
そっと近づき声を掛けると、僧は驚いた様にえんを見た。
「化けて出たわけじゃありませんよ。第一まだ、化けて出るには時が早い。」
そう言って笑って見せると、僧は憂い顔に思い出した様に笑みを浮かべた。
「堂守さんかな。」
問われてえんは、曖昧に頷く。
「そんな様なもんです。」
そう言うと、僧は頷いて再び刑場に目を向けた。
「あなたの様な若い方が、恐ろしくはありませんか。」
僧の言葉に、えんは苦笑する。
「刑死人は、何にもしやしませんよ。晒されるのは、ただの骸でございましょう。」
そう言うと、僧は少し驚いた様にえんを見た。
「───あたしは幼い頃から此処で見てきましたが、切られる前の罪人も、切られた後の骸も怖いと思った事はありゃしません。怖いのは、周りの人間の方でしょう。」
そう言って、えんは罪人を見つめる好奇の目を思い出す。物悲しさと高揚と、蔑みと憐れみと好奇の目───
幼い頃から見てきたそれは、人の業の恐ろしさをえんに教えた。
「───そんなものですか。」
───ええ、と肯き、えんは僧を見上げる。
刑場に向けられたその顔に苦悩の色が浮かぶのを見て、えんは問う。
「刑場が、どうかしましたか。」
えんの問いに、僧はゆっくりと項垂れる。
「私の弟子が、ひとを殺めて捕らえられて居ります───」
驚いて見上げると、僧は悲しげに頷いて、
「間も無く───お仕置になりましょう。」
と、静かにそう言った。
「不用意なことを───」
町を騒がせている師殺しの僧の、この老僧はかつての師なのだと気がついて、えんは慌ててそう言った。
僧は慌てるえんを見て、いいえと首を振った。
「罪人は、怖ろしくは無いと言って下さいましたので、少し気持ちが晴れました───あれは、けして意図して人を傷つける様な者ではありませんでした故。」
そう言って、老僧は遠くを見上げる。
「たとえ過ちであっても、人ひとりの命が失われているからには、仕方のない事なのでしょう。それでも───どうにかならなかったかと、悔まれます。」
深い悲しみを湛えた目が、えんを見た。
「過ちと、信じてるんでございますね───」
問うと、老僧は肯いた。
「幼い頃より見て来た者です。元は稚児として寺に仕えておりましたゆえ、幼い頃より誠を貫く事を教えてきました。」
それが間違いだったのかも知れません───と、僧はそう言って、また何処か遠くへ目を向ける。
なぜ───と、そう問うと、僧は遠くを見つめたままで言った。
「悪意が無くとも、過ちは起きてしまう。そうした事もあるのだと。そうした時にはたとえ誠を曲げてでも、生きている事が何より大切なのだと。そう教えていたなら、この様なことになってはいなかったかも知れないと、そう───思うのです。」
老僧の目に涙が浮かぶ。
「助命を願ったとて、徒らに苦しみを長引かせるだけでしょう。もう、してやれる事とてありませんが───せめて、残る憂いのない様にしてやろうと思います。」
沈んだ陽の名残りの光が、西の空を赤く染めている。その空をじっと見上げて、老僧は深い息をついた───




