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実熟れ時  作者: 皇 凪沙
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9-2.心緒


「眠れているか。少しやつれたようだ。」

 問うと、彼はそっと床に目を落とした。

「此処に来て、数日は眠れませんでした───。」

 そう言って、彼は苦悩の色を滲ませた目を上げる。

「───今も闇が、恐ろしゅうございます。死の間際の師の顔が浮かび、京を離れる時の兄弟子達の顔が浮かび、親同然のかつての師が悲しむ顔が浮かび───自業自得と分かってはおりますが、後悔に責められ、どうする事も出来ない自分を思い知らされます。」

 ぽつりと涙が落ちた。

「己の罪を、罪を犯した己の無力さを、思い知るのが辛いか。」

 問うと、彼は小さく頷いた。その頬を涙が伝う。

「あれからずっと、夜が来るのが恐ろしくてなりません。昼も考えない日はありませんが、夜になり辺りが闇に沈むと、様々な事を考えます。ひとりは辛く寂しく、ひとりでは無いと思えば悲しく辛い。死ぬのは恐ろしいですが、生きるのは堪らなく苦しくて───」

 (こら)え切れなくなったのか、板間に手を着き泣きながら訴える彼を、男は静かに見下ろした。罪を犯した身には、気の休まる暇とてないのだろう。それが分かっても、男には救ってやる術はない。

「苦しかろうな───しかし、考え続けるのが罪を犯したお前の務めだ。ましてお前は、僧であろう。」

 厳しくさえある言葉を投げると、彼は顔を上げた。

 頼りなげな視線が、男に向けられる。

「───私は僧なのでしょうか。」

 涙に濡れた目を向けて、彼は男に問う。

(なり)を改め、名を改めて、僧籍を頂きました。でもそれは、ほんの少し前の事です。私には僧であるという事がどういうことかさえ、分からない───本当は、今も幼い稚児のまま、何も変わっていないのではないかと、そんな気さえ致します。」

 そう言って項垂れる彼を、男はじっと見下ろした。

「僧になど、ならねば良かったか。」

 問うと彼は顔を上げ、いいえと首を振る。

「己が望んで、漸く叶えて頂いた道に御座います。ただ、僧である事が今の私に許されるのかと、そう思うと───」

 そう言って見上げる目に、新たな涙が浮かぶ。

「許されるなら、僧でありたいか。」

 男が呟くと、彼は肯いた。

 ならば───と、男は笑みを浮かべる。

「それで良いではないか。許されるものかどうか、最期まで苦しみ悩んでみれば良い。」

 男がそう言うと、彼は驚いた様に目を上げた。

「どうする事も出来ずとも、許されずとも───考え続け、悩み続けてみる事だ。どうせその苦しみから逃れる事が出来ぬのなら、それが己の務めと受け入れてしまえば良い。」

 じっと男を見詰めて、やがて彼は小さく息をついた。

「悩み苦しむのが、私の務めで御座いますか───」

 それでは辛いかと問うと、彼は少しだけ微笑んで首を横に振った。

「今までは、ただ苦しんで居りました。苦しければ苦しいほど、辛ければ辛いほど、罪人の身が苦しい辛いなどとどうして言えようかと、ずっと考えて居りました。」

 でも───と彼は言う。

「それで、よいので御座いますね───」

 ああ、よい───と肯いて見せると、彼は泣き出しそうな顔に晴れやかな笑みを浮かべた。

「───ありがとう、御座います。」

 改めて両の手をつき、彼は男を見上げてそう言った。

 穏やかに頷いて、男は改めて役人の顔で彼に向かう。

「───さて、知らせておかねばならない事がある。」

 そう言うと、見上げる彼の目が再び不安げに曇った。

「この十日程の事だ───」

 師僧の葬儀が滞りなく済み、寺内の調べも終わった事。彼の起こした事件の裁量が寺社方から、さらにその上に送られた事。京の寺に使者が送られた事───本人が知らぬままに進んでいる様々な事について話す。

 己の罪が重罪とされた事よりも、京に使いが送られた事を知って、彼は悲痛な顔をした。

「御師様に───かつての師にまた、御心配を掛けてしまいます。」

 泣き出しそうな顔で見上げる彼に、「そうだな───」と、男は頷く。

───はい。と肯き、俯いてじっと目を閉じて、彼はひと粒だけ涙を零した。

「京より誰か、出向いて貰うことになる。」

 日が決まれば教えてやろうとそう言うと、彼は目を上げた。

「お会いする事が、出来るでしょうか。」

 問う彼に、男は首を横に振る。

「沙汰の決まらぬ罪人は、誰にも会わせぬ決まりだ。」

 自分に沙汰が下る時は死ぬ時だと、そう思ったのだろう。

 小さく息を吐き俯く顔は、苦しげに眉根が寄せられている。

「いずれ会える機会もあるかも知れぬ───今はただ、待つことだ。」

 そう言うと、彼は小さく肯いた。


「───今日は、此処までにして置こう。」

 俯く彼にそう言って、男は牢番を呼ぶ。此処に入ってから、だいぶ長い時が過ぎていた。

 部屋の外に足音がして板戸が開く。入って来た牢番は、抱えていた包みを男に差し出した。頷いて受け取り、男はその包みを彼の前に置く。

「これは、お前がいた寺から預かって来たものだ。既に中身は検めて頂き、牢内に持ち込むお許しが出た物だけを包んである。」

───持って行け。

 と、そう言うと、彼は躊躇(ためら)う様に包みに目を落とした。

「どうした。」

 問うと彼は、怯えた様な笑みを浮かべた。

「師を手に掛けた私です。これらを開けば、己の罪をより鮮明に知る事になりそうで、手にとるのが怖ろしゅう御座います。」

 中味は多くが仏書の類いなのだろう。

「仏とは、罪に怯える者を突き放すほど無慈悲なものか。」

 戯れに問うと、彼は男を見上げて小さく首を横に振った。

「分かりません───御仏は、突き放すことも、手を延べて救って下さることも、ないように思います。呼んでも、応えはありません。ただ何時も───共に在っては下さいます。」

 そう言って、彼は微笑む。

「それが慈悲深いのか、無慈悲なのか。私には分かりません。だから私は、僧になりたいと思ったのです。」

 心の内に揺るがず何時も在る御仏が、何を思うのか───それが知りたくてと言う彼を、男は笑った。

「ならばやはり、これは要ろう。」

 彼の目が、男を見る。

「己の罪を知っているなら、何も怖れる事はない───手に取って、仏が何を思うのか、好きなだけ考えてみれば良い。」

 男がそう言うと、彼はふうっと息を吐いた。覚悟を決めたように、その手が包みを取る。

「───ありがたく頂戴致します。」

 そう言って彼は男に頭を下げる。上げられた顔は落ち着いて、不安気な色は消えていた。

 頷いて牢番に目を遣ると、牢番は心得たようにひとつ頭を下げ、手慣れた様子で彼に縄を掛けた。後手に縄を掛けられぎこちなく座って、彼は男にもう一度頭を下げる。

───悪相とならぬ内にまた来よう。

 そう言うと、彼は小さく笑みを見せた。


 牢番に促され出てゆく彼を見送って、男は深いため息をつく。

 何時から聞こえていたものか、鳴き立てる蝉の声が牢屋敷内に騒々しく響いている。

 天井を見上げ、どうする事も出来ない無力さに、男はもう一度深いため息をついた。

 遣り切れない思いを抱いて、男は牢屋敷の門を出る。見上げると、少しだけ傾きかけた太陽がまだまだ高く、乾いた通りに照りつけていた───


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